大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

青山霊園立山墓地

2008-02-29 | 掃苔
立山墓地は青山墓地西南の小丘陵地で、
以前、ここは百人組屋敷内で「足(た)し山」と呼ばれた。

与力同心の居宅の外に足地(たしち)として
与えられた所で、たしやまと称し、今、立山と書く。

開設は明治五年七月、面積五千二百三十三坪あり、
青山共葬墓地区と別するため、立山共葬墓地と称された。

東京名所図会に「東隅に墓門あり、桐生寅次郎、鑰(かぎ)を掌る、
、、、、又、落葉を掃ひ、雑草を除く」とあり桐生氏が切開いたという。

この桐生氏の子孫の方とあった。祖父の話では会津藩士だったと
聞いているが、 古文書も残っておらず、はっきりした事は不明とのこと。

此の立山地区を明治初期に無償で東京府に供与したが
今、都による賃貸料増額もあり管理の更新を断られ、
立ち退きを迫られているという。

張り紙があった。今年1月で管理を止め、3月で移転とのこと。
先祖開拓以来の土地を離れる事となる。さぞかし残念なことだろう!!

ここ立山墓地には、容保公小姓頭浅羽忠之助三男の墓碑がある。
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東の柏村毅、西の三宅安兵衛

2008-02-27 | その他
昨年、会津若松に行った。
興徳寺の裏道に蒲生氏郷公墳墓之地のいしぶみがあった。

この道標、会津本郷出身の経済人、柏村毅氏が建てたもの。
京都金戒光明寺にある黒谷会津藩墓地参道の道標を見て、
柏村氏の名を知ったのが初めてだった。全部で11ヶ所ある。

東京の白金興禅寺の萱野國老敬仰碑にも柏村氏の名があった。
会津関係で柏村氏が建てたいしぶみ、幾つあるのだろう。

さすが会津人と思ったら、西にも凄い人がいた。
昨年伏見に、戊辰役東軍戦死者埋骨地を巡り歩いた。

鳥羽伏見の戦いで、鳥羽街道富ノ森の愛宕茶屋があった所で激戦となり、
多くの戦死者を出した。この脇にあった戊辰役戦場址のいしぶみが、
今、伏見区の納所会館の中にある。

側面に昭和三年春京都三宅安兵衛遺志とあった。
昭和三年春遺志って何だろうと不思議に思った。

このいしぶみ、京都の三宅安兵衛遺志碑と呼ぶ。
大正末年から昭和の初めに西陣帯地卸商三宅清治郎が、
父安兵衛の遺命に基いて南部を中心に建設した4百ちかくの史跡石標。

この息子清治郎、自らも父以上に多くの負担をしたにもかかわらず、
碑の裏面には父の名前しか書かなかったという。

残念なのは、今、物凄い勢いで開発等が進んでおり、
かなりのいしぶみが行方不明になっている。
なんとしても、この先人の偉業を消したくないものだ。
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青山霊園警視庁墓地の熊本藩士

2008-02-10 | 掃苔
千葉県勝浦市川津の高台に、戊辰の役で北海道に
津軽藩の援軍に船で向った熊本藩士が、勝浦沖で海難にあい、
この遭難者を埋葬供養した官軍塚がある。

この「官軍塚之碑」に

「明治のはじめ、幕臣榎本武揚は新政府に反抗して、
北海道五稜郭に立てこもった。朝廷は弘前藩主津軽承昭に
命じ討伐させたが容易に鎮圧できなかった。

これを知った弘前藩主の実兄熊本藩主細川韶邦は進んで援軍を決意し、
明治二年一月二日藩兵三百数十名を品川沖から出航させた。
しかるに翌夜暴風雨に逢い、不幸この地根中岩礁に難破した。

この時川津村民は、村をあげて決死的救助に努めたが、
ついに二百余名の溺死者を出すにいたった。村民深くこれを哀れみ、
ここ花立台に葬り、官軍塚と称し香花を絶やすことなかった。

たまたま太平洋戦争中、沿岸警備陣地となり旧態を失ったが、
昭和三十八年に県史蹟に指定、本年遭難百年に際し、
改めて碑を建て往時を回想するものである」と記載がある。

津軽藩津軽承昭は十代熊本藩主細川斉護の四男、
肥後熊本藩主細川韶邦は十代熊本藩主細川斉護の次男。

四男が兄貴に援助を要請したのだろう!援軍は、寺尾九郎右衛門の指揮する
肥後十二番大隊、重士隊、大砲隊、五番隊、十四番隊など三百五十名。

川津沖の岩礁地は地元では「関東の鬼ヶ島」と呼ばれた難所。

この時の遭難した熊本藩士の墓碑が青山墓園警視庁墓地に
倉田万助墓、村上藤四郎・安野七十郎之墓、高田平蔵之墓、四名三基ある。
墓碑文は、
肥後熊本藩士奥羽征伐 途中上総国鬼ヶ浦溺死 于時明治二年正月四日

奥羽征伐の文句は気になるが、太平洋戦争中この高台を
沿岸警備陣地にするため、墓碑を警視庁墓地に運んだのだろうか? 
ここにも埋もれた物語がある。
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巡査の亀鑑

2008-02-09 | 掃苔
亀鑑(きかん)って何? 意味をしったのは昨年の事。
「亀」は甲を焼いて占ったもの、「鑑」は鏡の意だという。

なんの事だと思ったら、行動や判断の基準となるもので手本・模範とある。
青山霊園警視庁殉職者墓地に「巡査亀鑑」という篆額のある墓碑がある。

墓碑の主は、旧会津藩士、警視庁巡査荒木三郎。
篆額は旧会津藩主松平容保、撰文は会津の南摩綱紀。

墓碑によれば、織田信長が刀に貫いた饅頭を荒木村重に
食わせたのを遺恨に思い、摂播諸城を攻略し信長に抗したとある。

村重は一年の間徹底抗戦したが、高山右近ら家臣の裏切りにより滅亡する。
荒木三郎は、この摂播国の戦国武将、荒木村重の子孫。

荒木村重四世孫信重二男、重就六世孫重義の三男が三郎。
明治戊辰之乱に従い、乱平後、藩主如石公に従い
陸奥国斗南に行き、三年、三本木原野を開拓する。

のち警視局で巡査に仕官、明治十年西南の役では、
別働隊で肥薩各地で戦う。

明治十五年七月、東京三田四国町を巡行中、
いきなり扉の隙間より抜刀した賊により、胸を刺される。

傷は十三ヶ所も負い、駆けつけた同僚巡査に、
構うことなく賊を追えと絶命した。

捕まえた賊の陳状によれば、各地で人と争ったが、
この巡査のように、重傷を負っても奮力する
剛勇の者はいまだかって会ったことは無かったという。

警視総監樺山氏以下庁員四千余人が金を拠出、
この碑を建てたという。

警視総監樺山資紀は薩摩藩士橋口与三次の三男、
池田屋事件の橋口伝蔵は実兄です。
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容保公と会津の小鉄

2008-02-08 | 會津
江戸で新門の辰五郎西京で会津の小鉄
東西二人と算へられし会津の小鉄は

今京都二ノ宮通り六軒町下る町に住み人足頭として
子分は五百余人も有るが、此小鉄が会津と異名の有る訳は

今より二十年ほど前、引かれぬ義理にて人を二人殺した科に依り
幕吏の探偵厳密にして身を潜す所もなく、其ころ黒谷に

お屋敷の有った会津侯の陣へ身を投じて助命を乞ひしかば
会津侯も小鉄の義気と胆力の有るのを愛し久しい間邸内へ忍ばせ置き
のち、人足部屋頭に引上げられしにぞ

それがため小鉄の名も揚がし由にて昨今も小鉄は其時の恩義を忘れず
維新の後、黒谷に在る会津藩士の戦死の墓へ
月給七円五十銭出して墓守を雇ひ常に香華を絶さず

一里余も有る道を毎日の様に参詣する志ざしを賞されて
此ほど旧藩主松平容保君より国産の織物二疋に金子若干を添へて

小鉄の許へ贈られしゆえ小鉄は有難さ身に余り何かを御返礼をせんとて
種々心を盡し精工なる西陣の織物を幾種か旧藩主へ呈したりとぞ。

これは、明治十四年六月十五日、読売新聞に掲載された記事。

黒谷会津藩墓地の西側、西雲院に会津小鉄と呼ばれた
本名、上阪仙吉の墓碑があります。

会津の小鉄は、鳥羽伏見の戦いで、会津藩戦死者の遺体を
迫害も恐れず収容し、近くの寺で荼毘に付し回向供養したと云う。

現在でも金戒光明寺塔頭西雲院では、六月の第二日曜日、
京都会津会主催の会津藩殉難者追悼法要が行われる。
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旧会津藩士 巡査斎藤外三郎

2008-02-06 | 掃苔
明治二十二年八月三日、「殺人賊の捕縛」の記事が読売新聞に載った。

去る明治十八年八月廿九日の夜、荏原郡上北沢村に於いて、
新宿警察署詰巡査、旧会津藩士斎藤外三郎と高橋三代太郎が巡行中、

四人連れの徘徊する怪しい者がおり、尋問のところ
格闘となり、斎藤氏は四人中の巨魁埼玉の喜七に殺害される。

高橋氏も傷を負い、賊に逃げられたが、其後四人中三名は捕縛、
喜七は今日まで所在分からなかったが、其筋にて厳重に探偵中の処、
終に昨二日捕縛したとある。

二人の警官は、白刃に木棒にて応戦、高橋巡査は重傷を負って倒れ、
斎藤巡査は全身に大小十六ヶ所の傷をうけたという。

斎藤外三郎は十一石二人扶持の会津藩御徒士、高橋三代太郎は
戊辰会津藩高田幽収名簿、浄興寺寄合組梶原分隊の中に名がある。

青山霊園の警視庁墓地にこの斎藤外三郎の墓碑があります。
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会津沼澤氏と新撰組隊士

2008-02-03 | 會津
1月に日野に行ってから、急に新撰組づいてきた。
会津藩士井深宅右衛門三男、 井深彦三郎の
墓碑を探しに青山霊園にいったのは先週の話。

週末に、近くの鍋島藩菩提寺で幕末の佐賀藩士の
墓碑を見ていたら、たまたま話かけてこられた方が
会津阿弥陀寺に墓碑のある新撰組隊士の子孫の方だった。

戦国時代奥会津、山ノ内一族山ノ内七騎党の一に
沼澤丸山城主山内出雲守政重という武将がいた。

のち保科家に仕えた沼沢実通を初代として、京都黒谷に
墓碑のある十一代沼澤六郎については、先に述べた。

明通の父、十代沼沢九郎兵衛(弘通)の妻が木本家から嫁いだ道子。
この道子の妹の娘が、この新撰組隊士の妻になった時尾。

病死した十一代六郎のあと、十二代になったのが六郎弟小八郎。
この沼澤出雲(小八郎)の妻久仁が井深宅右衛門の娘。

しかも、小八郎と久仁の間に子供ができず、養子に入ったのが、
この新撰組隊士と時尾の三男、龍雄(辰雄)。

この隊士が元新選組三番隊組長、斎藤一こと藤田五郎です。
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会津山ノ内氏

2008-02-02 | 會津
信濃松代藩士横田数馬二男、小松謙次郎と
会津藩士井深宅右衛門三男、 井深彦三郎の
墓碑を探しに青山霊園にいった。

長野市松代に江戸末期の建築物、国の重要文化財指定の
旧横田家住宅が残っている。中級武士の武家屋敷でとしては、
典型的なものといわれている。

この信濃横田家の先祖は、奥会津横田の住人、
伊達政宗に敗れた山内大学と伝えられる。
謙次郎祖父、横田機応は信濃松代藩の甲州流軍学師範。

横田数馬二子、謙次郎は小松家に養子に入った。
兄に大審院長を務めた横田秀雄、
姉に「富岡日記」を記した横田英がいる。

戊辰のとき、会津藩士山内大学が旧家臣を集め、
町野主水・井深宅右衛門と共に越後小出で戦った。
この井深宅右衛門の三男が井深彦三郎。

太政官日誌 明治戊辰冬十二月十月廿三日松本藩届書写に、
山内大学弟横田大助会津横田村潜伏、松代藩取締申付、
玉梨村出張探索、横田大助、同村山中一ノ沢にて自殺 。

明田鉄男編「幕末維新全殉難者名鑑」では、
横田大佐山内大学弟九月十五日会津一ノ堰傷玉梨自殺
山内清人九月十五日会津一ノ堰傷水谷地死
山内郷八九月十七日会津一ノ堰戦死
横田左馬之助十月三日会津蔵入野尻死、とある。

会津藩が戦いの矛を収めたのが、戊辰九月廿二日。
奥会津でも色々な戦いがあった。
井深彦三郎の墓碑の裏に、生於會津とあった。
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