大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

鳥取八ヶ寺 観音院から芳心寺へ

2017-08-22 | 

鳥取藩主池田家では菩提寺・祈祷所として四ヶ寺、八ヶ寺と称して特別な格式寺席を定めた。八ヶ寺とは、観音院、日香寺、芳心寺、真教寺、最勝院、円城院、法泉寺、妙要寺の八寺を言う。名勝として国文化財として指定されている庭園のある観音院から廻った。
 
 
観音院H・Pの縁起によると嫡男光仲公岡山より鳥取に国替えのとき「露月山・光珍寺四世宣伝法印は、光珍寺を弟子豪弁(後の観音院二世)に譲り、帰依僧として随伴を命じられ、城山に近い栗谷に寺地を与えられて、雲京山・観音院を興し、城山より出現した聖観世音菩薩の尊像を賜り本尊とした。その後、栗谷の寺地はご用地となり、寛永十六年 (1639)、上町の現在地に移り、補陀落山慈眼寺観音院と号した。光仲公はことのほか観音信仰に篤く、祈願所として庇護した。宝永六年(1709)、二代藩主綱清公の代に藩の祈願所として寺格の高い「八ケ寺」の中に列せられた」という。「本尊聖観世音菩薩は行基菩薩の真作にして当城山の岩窟より種々の放光奇端ありて出現し給ふ所の木像を当寺に安置せるものなりと云」とは明治四十年発行の鳥取案内記の記述です。
 
 
観音院の庭園は「方丈ノ東南ヨリ西方ニ亙レル自然ノ傾斜地ニ加工シテ作ラレタル築山ノ麓ニ池ヲ穿ツ、瀧口 島等ハ刈込ヲ施シタル庭木ト共ニ優美ナル景觀ヲ呈セリ。江戸時代後期ノ京都風庭園ガ地方化セラレシモノノ一適例タリ」として昭和十二年、国重要文化財として指定され、池の右手にある一見、見過ごしそうな一基のキリシタン灯籠は県指定文化財となっている。
観音院から日香寺まで歩いても五分も掛からない距離ですが、話に夢中になって歩いていて、前方にお寺の入口のような石段が見えたので行ってみたら、日香寺のお隣の大隣寺で日香寺は気が付かないで通り過ぎてしまった。石段を登って山門を潜ると、立派な本堂(僧堂?)があった。
 
 
ここは、寛永九年(1632)、池田光仲鳥取転封の時、岡山・大隣寺第二世・亀峰永元和尚の法弟松室玄貞和尚により移転開創された臨済宗妙心寺派の寺で犬山の瑞泉寺のように臨済宗専門道場かと思ったが、臨済宗の専門道場の一覧に入っていなかった。大隣寺のお隣が日蓮宗の芳心寺で、光仲鳥取転封のとき、光仲に伴って鳥取城下に移転したお伴寺十七寺の一つで、のち「八ケ寺」の中に列せられた。
 
 

 
もともと芳心寺は、天文十三年(1544)、日廣上人開基による岡山の正福寺といい、寛永九年(1633)、光仲鳥取国替えにより現在地に移った。宝永五年(1708)、光仲の正室芳心院が亡くなり、正徳三年(1713)、正福寺へ芳心院の分骨を納めた。以後寺領三十俵を与えられ芳心寺と改号した。境内に日蓮大聖人恩分骨安置霊場がある。光仲の正室茶々姫(芳心院)は紀州藩徳川頼宣の娘で頼宣の生母、徳川家康側室養珠院(お万ノ方)が日蓮宗に深く帰依していた関係で茶々姫も日蓮宗を篤く庇護し、お万ノ方から授与された日蓮上人の御真骨の一部を正福寺に奉納したという。天
球丸という丸い形をした石垣と大手門の枡形を見たくて鳥取城に行った。大手門の中ノ御門と間違って北ノ門へ行ってしまった。仕切門を入ると、クマ出没注意の看板がある。
 
 
 
久松山に築城されたこの城は門から各郭までかなりの急坂で10分も歩くと急に疲れてくる。夕方、クマ出没のところで、5分、10分と誰一人とも遇わないと不安が大きくなる。ここは迷わず撤収して、入り口の横にあった白い建物に向かった。
 
この建物は仁風閣と呼ばれ、明治40年5月、土岐の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎としてもと鳥取藩主池田仲博侯爵によって、扇御殿跡(旧藩主慶栄未亡人寳隆院住居跡)に建てられた。随行した東郷平八郎によって命名され、直筆の額が展示されていたが、撮影不可であったのは残念だった。

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鳥取四ヶ寺 大雲寺から興禅寺へ

2017-08-15 | 

大雲寺は慶安三年(1650)、鳥取藩祖池田光仲は曽祖父家康を祀るため鳥取城の鬼門にあたる樗谿に東照宮を勧請し別当寺として乾向山東隆寺淳光院を建立し、東照宮の祭礼と徳川将軍家位牌安置所と藩主祈願所とした。
 
 
初代住職は公侃(光仲従弟・松平石見守輝澄六男)で、歴代住職就任時に個別の寺院号が附与されていたが、文化十二年(1815)に大雲院を常院号とすることを印可された。明治二年の神仏分離令によって東照宮の別当寺を解かれ翌年二月、享保二年(1717)、藩士米村所平が五代観洞に帰依し息子の追善のために淳光院隠寮仰庵の地に建立した末寺の霊光院(現在地)を兼帯して移転した。鳥取池田家が祈祷、菩提寺として別に待遇上の格式を定めた四ケ寺の一つで大雲院、興禅寺、龍峯寺、慶安寺を「四ケ寺」という。平成十五年、東京多磨霊園より元鳥取藩主池田家墓所を境内に移築、池田家菩提寺となり、十二代以降の池田家の墓域がある。

境内に山岡鉄太郎書による東館十代藩主の「池田徳澄君塋誌詠」碑や東館十一代池田源父、栗(みのる)の句碑も移転されている。
 
これは東館池田家十三代仲親氏の遺言より、当院にある御本家池田家墓所への合祀のため遺族が東京の墓所を整理撤収し、遺骨と共に当院に運搬設置したもの。
境内に鳥取藩士米村家の墓域がある。累代之墓の後が米村所平廣次「霊光院一相清閉居士」の墓と句碑がある。
 
明治二年に建てられた道標があった。どこにあったものだろうか。
  
大雲寺から西北に約2k、栗谷川北岸の山裾に鳥取藩主池田家の菩提寺であった龍峯山興禅寺がある。
 
 
もとの御霊屋を改造して本堂としている。このお寺、元々は長久手の戦いで戦死した池田光仲の祖父輝政の兄、之助の菩提のため岐阜に妙心寺派、龍峯山広徳寺として建立された。池田家を継いだ之助の弟、輝政が三州吉田に移ったとき、広徳山龍峯寺に改めた。そのあと姫路、輝政の子忠継のとき岡山に移った。寛永九年(1632)、忠継弟忠雄の子、光仲と鳥取の池田光政(利隆子、輝政孫)と国替えになったとき、龍峯寺も鳥取へ移転した。龍峯寺四代住職提宗が黄檗に改派を望み、藩主も許したので黄檗の法式を採ったので本山妙心寺と争いになった。元禄六年(1693)、藩主歴代の菩提寺とするため、廃寺となっていた旧祈願所長壽院の名跡を取りたてた。光仲が没した翌年(元禄七年)、広徳山龍峯寺の寺号を妙心寺に返し、新しい龍峯寺は長壽院跡という事となり、黄檗宗に改宗し、光仲の院号である興禅院殿より寺号を龍峯山興禅寺と改めた。龍峯寺復旧工事がすべて終わったのは宝永二年(1705)のことだったと言う。本堂は、鳥取藩主の御霊屋であった唯一現存する建物で登録有形文化財となっている。横に開山提宗和尚頌徳碑がある。
伊賀の鍵屋の辻で敵討ち仇討ちを果たした渡辺数馬の墓が本堂裏山にある。この墓域に荒木又右エ門五男三十郎と嫡女まんの墓があった。
 
 
池田光仲公二百五十年祭誌によれば、荒木家は岡本武右衛門の子平之亟を養子として相続させたという。そうすると又右衛門の遺児達は渡辺数馬に育てられたのだろうか。昭和十八年の二百五十年祭誌に伊賀越事件の記載がある。仇討ちを遂げた渡辺数馬・荒木又右衛門を鳥取に引取りに、藤堂家から士分数十人、鉄炮弓の足軽数十人を従え、警戒厳重に伏見の鳥取藩邸に護送、鳥取からも横河次太夫・渡瀬越中其他十数人、銃弓卒数十人で藩邸に待受け、二人を請取、川船六十艘で大阪に下り、大小三十隻に分乗して播磨に上陸、沿道の領主、草を薙ぎ道を清め、山路には遠見を置き、夜は宿所に篝火を焼き、歓待警護到らざるなき有様で有ったという。それほど旗本と大名との確執が大きかったのだろうか。なお渡辺数馬の子孫は美田と改姓して鳥取藩に仕えた。
 
渡辺数馬の墓の隣に疋田流槍刀心理開祖猪多伊折佐の墓がある。

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鳥取宇倍神社から樗谿神社(鳥取東照宮)へ

2017-08-10 | 

池田家墓所から宇倍神社に向かう。法美街道(雨滝道・現県道31号)にでる途中に奥谷古城址の説明板があった。「前方にそびえる丸い山(標高八十一.七メートル)が因幡誌に記されている、奥谷古城跡である。山頂を削平して構築され、展望はきわめて良好である。築城の年代、由来等は不明であるが地元では古くから城山と呼んで親しまれている」とあった。
 
因幡誌に「国府奥谷城 仔細知レス城跡ニ廃井アリ安永年中村民銭ヲ堀上タリ」と古城にしてはそっけない記述があった。結局、どこがそびえる丸い山だか分からなかつた。近くに清源寺古墳と呼ばれる線刻画が描かれている装飾古墳があるという。
因幡一之宮宇倍神社の御祭神は武内宿禰、孝徳天皇大化四年(六四八)の創建伝えられ、平安時代の延喜式では県下唯一の名神大社(特別な社格が与えられた神社)とされ明治四年に国幣中社となる。
 
 
因幡誌によると宇倍神社「稲葉ノ郷宮下村ノ山上ニアリ国中第一ノ大社タリ呼テ一ノ宮ト云是ナリ古来其山ヲ宇倍ノ山ト号ス(上野山今誰謂)是地名ヲ呼モノナリ」とあった。
 
 
明治四十四年発行の「鳥取名所」は「因幡山は一に宇倍野山と称す、武内宿禰を祀る国幣中社なり、仁徳天皇五十五年春武内宿禰、三百六十余歳因幡の国守としてこの国に下向したまま、亀金の岡に双の履(くつ)を残し置きて世を去り給うひし」という。本殿の左後ろの亀金岡に双履石と呼ばれる御祭神終焉の地があるのに気が付かなかったのは残念だった。
宇倍神社から西北の方向約4k位のところに樗谿(おうちだに)神社がある。
 
 
この地は明治四十二年発行の「鳥取案内」に「境内滾々として、社前を流れ、飛瀑岸に懸り、幾百年の老杉古松蓊鬱として四面を掩ひ昼尚暗く、地は市中人家を距る僅々一町餘なれども斧鉞を加へざること二百年餘、幽邃にして殆ど深谷に入るの思ひあり」、県下有数の霊地なりとある。池田家墓所では誰も見かけず熊が出ないか心配だったが、樗谿神社の奥は草叢も多く、小川も流れておりマムシがいそうでビクビクもんだった。樗谿の読み方が全く解らなかったが、鳥取市のH・Pの説明に「「樗谿」の由来については、古来、樗谿の山中に「王子(寺)」(おうじ)という寺院があったことにより、「王子(寺)谷」(おうじだに)と言われていたとの説と、かつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」(おおひだに)と言われていたとの2つの説があります。「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです」とあり、更に樗谿神社本殿・唐門・拝殿及び幣殿について「鳥取藩主池田光仲は、東照大権現廟舎の造営を幕府に願い出て、慶安2年(1649)に大日谷(樗谿)を選んで着手し、翌3年9月13日完成した。東照大権現は徳川家康の死後に与えられた神号で、寛永13年(1636)に日光東照宮が完成している。造営は、家老荒尾但馬守成直を総奉行として、幕府お抱えの御大工・木原木工允、藤原義久らがこれに参加した。木原木工允は、日光東照宮・芝東照宮(安国殿)、上野東照宮、浅草寺(本堂・五重塔)などを建立した棟梁である。各地の東照宮の多くは権現造りであるが、鳥取東照宮は本殿を周囲に石玉垣をめぐらして独立させ、本殿前に平唐門の中門を設け、拝殿と幣殿は接続している。『因府録』には、「御本社は欅白木の造営檜皮葺なり、智頭郡より伐出る良材にて1本をもって御本社を建てらるるに其用猶余り有といひ伝ふ」とあり、細部の手法は日光東照宮にならった華麗なもので、内外部・軒廻り・妻飾りなどは生漆塗り仕上げ、本殿・唐門の一部は彩色塗・本漆塗がほどこされていて、桃山風型式の豪華な飾り金具が各所に使われて美しい品格をみせている」とある。
 
 
創建時「東照宮」と呼び、明治七年(1874)、「樗谿神社」と改称し、平成23年(2011)、現在の「鳥取東照宮」に変更したという。隋身門から本殿に昇る参道路傍に連立する石灯籠は鳥取藩士十四名により奉納されたと云う。
  

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鳥取藩主池田家墓所

2017-08-04 | 掃苔

今回の鳥取旅行は池田光仲を初代とする鳥取藩主池田家墓所を訪ねるのがメインだった。大名の岡山池田家、鳥取池田家も同じ一族で、清和源氏源頼光を遠祖として、頼光五代瀧口泰政摂州在、池田右馬允を号、その後摂州住人池田九郎泰依、楠正行之遺腹子の池田十郎教正を養子とする。教正のち兵庫助と改め其子佐正、佐正子池田六郎号、其後世襲するも家衰える。紀伊守恒利池田之中興で恒利子信輝、信輝子輝政、輝政之二男忠継慶長八年正月備前賜う。とは大正六年発行の「因幡大年表」の記述だが、その初期の系譜については不明な点が多い。
池田輝政が家康の娘、督姫を正室として迎えた。池田恒利の子信輝とその嫡男之助は長久保で戦死、慶長五年(1600)、信輝二男輝政は姫路藩初代藩主となった。元和三年(1615)二代姫路藩主利隆の跡を継いだ光政は年少を理由に姫路から鳥取へ転封となった。岡山藩主輝政二男忠継十七歳で亡くなり、その跡を継いだのが弟忠雄。寛永九年(1632)、忠雄が亡くなったとき、嫡子光仲が三歳だったため、岡山から鳥取に転封となった。そのとき岡山の藩主となったのは鳥取から転封となった池田光政で、以後、外様大名の池田家は明治まで二百年以上の間続く事になる。
池田光政のあとに池田光仲は鳥取に転封となり、元禄六年(1693)、初代藩主光仲の墓所として城下から1里十町、袋川右岸宇倍野山(稲葉山249m)南西の麓、宇倍野村奥谷(現在の国府町奥谷)を池田家の廟地と定めた。
 
 
 
鳥取県教育委員会H・Pの説明によると「光仲の埋葬に合わせ、この地には「千岳庵」が建立された。千岳庵は、翌元禄七年(1694)に伯耆国久米郡定光寺からその末寺の寺号を貰い受け、「清源寺(せいげんじ)」と改められ、池田家の菩提寺である興禅寺の末寺として、明治初年に廃寺となるまで墓所の管理を担なっていた。墓所内には、初代藩主光仲以後の歴代藩主十一代をはじめ、藩主夫人・御分知家「東館」「西館」当主等も葬られている。現在、合わせて七十八基の墓碑が立ち並び、周囲には二百六十基をこえる灯籠が家臣等により供えられている。また、藩主墓域に向かう参道両側には、初代光仲の寵臣和田三信と光仲の側室や菩提寺住職の墓もある」とある。鳥取藩主池田家墓所は国の史跡に指定されている大名墓所のなかでも亀趺碑のある大名墓所六ケ所の一つで、初代光仲から十一代慶栄まで藩主の墓のなかで二代藩主綱清だけが亀趺台座を使っていない。五代藩主長男治恕、八代藩主養子斉衆(将軍家斉十二男)も亀趺台座を使っている。準藩主とみなしたのか。池田家墓所は県道31号から緩い坂道を500mほど上った所にあり、門をくぐると、まっすぐの参道と左に折れる参道があり、左側奥から初代、九代、十代、十一代、右手の参道の左側に二代、三代、右側に八代、四代、五代、六代、七代と続いている。
鳥取藩初代藩主興禅院
 
二代藩主清源院
 
三代藩主天祥院
 
四代藩主大廣院
 
五代藩主岱嶽院
 
六代藩主大機院
 
七代藩主真證院
 
八代藩主耀國院
 
九代藩主瑞徳院
 
十代藩主正國院
 
十一代藩主栄岳院
 
八代藩主斉稷養子斉衆(将軍家斉十二男)
 
五代藩主長子治恕
 
藩主の墓碑はみな位牌形に造られており、初代光仲だけは長文の碑文が刻されている。正面に法名「興禅院殿故因伯刺史俊翁義剛大居士 元禄六癸酉年 七月初七日薨」。 碑陰に峩岳蘭谷篆毫による「興禅院徳政之碑」の篆額があり碑文が刻まれている。二代藩主綱清の要請で、黄檗宗萬福寺五代、明僧高泉性敦が撰文したという。
池田西館:左から初代桂岩院、二代了義院、五代停雲院、七代譲徳院
 
右:池田東館 初代成徳院
 
鳥取藩家老で池田光仲、綱清に仕え、光仲の信任の厚かった和田式部三信(荒尾嵩就二男)の墓が墓所手前の左側に、また反対側の右側には光仲の側室上野厚恩院(京都山科守山朝忠女・勾)と上野忠親(厚恩院甥)の墓がある。
  
中央 厚恩院墓
 

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