明治二年正月、旧藩命により筑後久留米に遊学した二人の
会津藩士子弟がいた。のち伊太利公使となった赤羽四郎と
外務省に勤め明治十五年の朝鮮国京城事変で殉職した水島久米
(後、水島義)が共に十四歳の時だった。
朝鮮国京城事変(壬午事変)は明治15年7月23日、興宣大院君と
閔妃らが激しく対立、当時の朝鮮首都漢城で守旧派(事大党)と
開化派(独立党)が政治の実権を巡って起きた兵士の反乱で、日本公邸も
襲撃され、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。
朝鮮国京城事変から2年後の1884年12月4日より7日までの間に
京城で起きた暴動は「明治十七年朝鮮事変」として外務省文書として
纏められている。この事変は開化派の金玉均のクーデターを守旧派の
要請で出動した清国軍が出動、清兵・韓兵により開化派が制圧された。
この事変で再び京城の公使館は焼かれ、日本軍人や居留民で清韓両国の
兵民の凶暴の為に惨死したものは40名に達した。
十七年朝鮮事変の真相は外務省公文書の朝鮮京城事変始末書だけでは
よく理解できなかったが、この犠牲者の中に参謀本部朝鮮国奨学生徒
赤羽平太郎という名があった。
奇しくも、朝鮮事変で亡くなった名は明治二年に久留米に留学した水島、
赤羽の二姓。水島久米は旧会津藩士水島純の弟。もしかして赤羽氏が
旧会津藩関係の人物だったらと、ふと思った。
講談社日本人名大辞典に赤羽平太郎、「明治中期朝鮮の官吏。父は
旧肥前唐津藩士多賀某慶応元年生る。明治十三年十六歳のとき朝鮮留学を
命ぜられ、十七年秋、磯林真三と江原道を巡回す。十八年一月暴徒のため
殺さる、二十一歳。」とあった。
明治十八年一月八日付朝日新聞に赤羽平太郎の履歴が載っていた。
「今度朝鮮の変乱にあたり非命の死を遂げられし語学生赤羽平太郎氏の履歴を
聞くに氏は旧唐津藩士多賀氏の子なり幼にして旧会津藩士赤羽氏の養子となる
性枕勇して度量あり幼より学を好み又数学を能くす始め東京外国語学校に入て
仏語を学び後ち参謀本部の撰に預り朝鮮語学留学を命ぜられ渡韓せしは明治十三
年三月にて時に年十六朝鮮に在るを五年しばしば其内地を巡廻旅行して地理に
委しく又能く風土人情に熟す昨十月秋期巡廻を命ぜられ同月廿七日磯林大尉と
共に発し既に其帰途に臨み十二月廿八日頃京城近傍まで帰り来りし時夫の変乱
を聞き直ちに京城に入らんとして暴徒の為めに遮ぎられしも屈せず且つ磯林大尉
の勇敢毫も暴徒の鋭鋒を避けず共に進んで暴徒と戦ひしかど衆寡敵せず終に目も
當てられぬ残酷の死を遂げられしなりと氏は既に昨年の八月中其語学を卒業し
十一月帰朝の命ありしを以て此巡廻を果てなば一時帰朝さるる筈なりしに遽かに
此厄に罹り年来の苦学を徒空に帰せしはただに一身の不幸のみならず国の為め
惜みても尚ほ余りある事なり」。やはり会津の赤羽氏だった。
仁川の日本人の墓地は幾度かの移転後、2010年3月韓国仁川広域市
富平区仁川家族公園に日本人墓として5列51基の墓碑に整備され、
写真でみると、この中に明治十七年朝鮮事変で亡くなった大分県士族
久保田孫一郎、長崎県奥川儀一(奥川嘉太郎弟)の墓碑が確認できる。
外務省明治十七年朝鮮事変史料明治十八年一月十二日項に「午前十一時
済物浦ニ於テ磯林陸軍大尉及京城遭害者ノ霊ヲ祭リ」とある。
参謀本部語学生赤羽平太郎の墓もまだここにあるのだろうか。
会津藩士子弟がいた。のち伊太利公使となった赤羽四郎と
外務省に勤め明治十五年の朝鮮国京城事変で殉職した水島久米
(後、水島義)が共に十四歳の時だった。
朝鮮国京城事変(壬午事変)は明治15年7月23日、興宣大院君と
閔妃らが激しく対立、当時の朝鮮首都漢城で守旧派(事大党)と
開化派(独立党)が政治の実権を巡って起きた兵士の反乱で、日本公邸も
襲撃され、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。
朝鮮国京城事変から2年後の1884年12月4日より7日までの間に
京城で起きた暴動は「明治十七年朝鮮事変」として外務省文書として
纏められている。この事変は開化派の金玉均のクーデターを守旧派の
要請で出動した清国軍が出動、清兵・韓兵により開化派が制圧された。
この事変で再び京城の公使館は焼かれ、日本軍人や居留民で清韓両国の
兵民の凶暴の為に惨死したものは40名に達した。
十七年朝鮮事変の真相は外務省公文書の朝鮮京城事変始末書だけでは
よく理解できなかったが、この犠牲者の中に参謀本部朝鮮国奨学生徒
赤羽平太郎という名があった。
奇しくも、朝鮮事変で亡くなった名は明治二年に久留米に留学した水島、
赤羽の二姓。水島久米は旧会津藩士水島純の弟。もしかして赤羽氏が
旧会津藩関係の人物だったらと、ふと思った。
講談社日本人名大辞典に赤羽平太郎、「明治中期朝鮮の官吏。父は
旧肥前唐津藩士多賀某慶応元年生る。明治十三年十六歳のとき朝鮮留学を
命ぜられ、十七年秋、磯林真三と江原道を巡回す。十八年一月暴徒のため
殺さる、二十一歳。」とあった。
明治十八年一月八日付朝日新聞に赤羽平太郎の履歴が載っていた。
「今度朝鮮の変乱にあたり非命の死を遂げられし語学生赤羽平太郎氏の履歴を
聞くに氏は旧唐津藩士多賀氏の子なり幼にして旧会津藩士赤羽氏の養子となる
性枕勇して度量あり幼より学を好み又数学を能くす始め東京外国語学校に入て
仏語を学び後ち参謀本部の撰に預り朝鮮語学留学を命ぜられ渡韓せしは明治十三
年三月にて時に年十六朝鮮に在るを五年しばしば其内地を巡廻旅行して地理に
委しく又能く風土人情に熟す昨十月秋期巡廻を命ぜられ同月廿七日磯林大尉と
共に発し既に其帰途に臨み十二月廿八日頃京城近傍まで帰り来りし時夫の変乱
を聞き直ちに京城に入らんとして暴徒の為めに遮ぎられしも屈せず且つ磯林大尉
の勇敢毫も暴徒の鋭鋒を避けず共に進んで暴徒と戦ひしかど衆寡敵せず終に目も
當てられぬ残酷の死を遂げられしなりと氏は既に昨年の八月中其語学を卒業し
十一月帰朝の命ありしを以て此巡廻を果てなば一時帰朝さるる筈なりしに遽かに
此厄に罹り年来の苦学を徒空に帰せしはただに一身の不幸のみならず国の為め
惜みても尚ほ余りある事なり」。やはり会津の赤羽氏だった。
仁川の日本人の墓地は幾度かの移転後、2010年3月韓国仁川広域市
富平区仁川家族公園に日本人墓として5列51基の墓碑に整備され、
写真でみると、この中に明治十七年朝鮮事変で亡くなった大分県士族
久保田孫一郎、長崎県奥川儀一(奥川嘉太郎弟)の墓碑が確認できる。
外務省明治十七年朝鮮事変史料明治十八年一月十二日項に「午前十一時
済物浦ニ於テ磯林陸軍大尉及京城遭害者ノ霊ヲ祭リ」とある。
参謀本部語学生赤羽平太郎の墓もまだここにあるのだろうか。