大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

参謀本部語学生 赤羽平太郎

2010-08-29 | 會津
明治二年正月、旧藩命により筑後久留米に遊学した二人の
会津藩士子弟がいた。のち伊太利公使となった赤羽四郎と
外務省に勤め明治十五年の朝鮮国京城事変で殉職した水島久米
(後、水島義)が共に十四歳の時だった。

朝鮮国京城事変(壬午事変)は明治15年7月23日、興宣大院君と
閔妃らが激しく対立、当時の朝鮮首都漢城で守旧派(事大党)と
開化派(独立党)が政治の実権を巡って起きた兵士の反乱で、日本公邸も
襲撃され、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。

朝鮮国京城事変から2年後の1884年12月4日より7日までの間に
京城で起きた暴動は「明治十七年朝鮮事変」として外務省文書として
纏められている。この事変は開化派の金玉均のクーデターを守旧派の
要請で出動した清国軍が出動、清兵・韓兵により開化派が制圧された。
この事変で再び京城の公使館は焼かれ、日本軍人や居留民で清韓両国の
兵民の凶暴の為に惨死したものは40名に達した。

十七年朝鮮事変の真相は外務省公文書の朝鮮京城事変始末書だけでは
よく理解できなかったが、この犠牲者の中に参謀本部朝鮮国奨学生徒
赤羽平太郎という名があった。

奇しくも、朝鮮事変で亡くなった名は明治二年に久留米に留学した水島、
赤羽の二姓。水島久米は旧会津藩士水島純の弟。もしかして赤羽氏が
旧会津藩関係の人物だったらと、ふと思った。

講談社日本人名大辞典に赤羽平太郎、「明治中期朝鮮の官吏。父は
旧肥前唐津藩士多賀某慶応元年生る。明治十三年十六歳のとき朝鮮留学を
命ぜられ、十七年秋、磯林真三と江原道を巡回す。十八年一月暴徒のため
殺さる、二十一歳。」とあった。

明治十八年一月八日付朝日新聞に赤羽平太郎の履歴が載っていた。
「今度朝鮮の変乱にあたり非命の死を遂げられし語学生赤羽平太郎氏の履歴を
聞くに氏は旧唐津藩士多賀氏の子なり幼にして旧会津藩士赤羽氏の養子となる
性枕勇して度量あり幼より学を好み又数学を能くす始め東京外国語学校に入て
仏語を学び後ち参謀本部の撰に預り朝鮮語学留学を命ぜられ渡韓せしは明治十三
年三月にて時に年十六朝鮮に在るを五年しばしば其内地を巡廻旅行して地理に
委しく又能く風土人情に熟す昨十月秋期巡廻を命ぜられ同月廿七日磯林大尉と
共に発し既に其帰途に臨み十二月廿八日頃京城近傍まで帰り来りし時夫の変乱
を聞き直ちに京城に入らんとして暴徒の為めに遮ぎられしも屈せず且つ磯林大尉
の勇敢毫も暴徒の鋭鋒を避けず共に進んで暴徒と戦ひしかど衆寡敵せず終に目も
當てられぬ残酷の死を遂げられしなりと氏は既に昨年の八月中其語学を卒業し
十一月帰朝の命ありしを以て此巡廻を果てなば一時帰朝さるる筈なりしに遽かに
此厄に罹り年来の苦学を徒空に帰せしはただに一身の不幸のみならず国の為め
惜みても尚ほ余りある事なり」。やはり会津の赤羽氏だった。

仁川の日本人の墓地は幾度かの移転後、2010年3月韓国仁川広域市
富平区仁川家族公園に日本人墓として5列51基の墓碑に整備され、
写真でみると、この中に明治十七年朝鮮事変で亡くなった大分県士族
久保田孫一郎、長崎県奥川儀一(奥川嘉太郎弟)の墓碑が確認できる。

外務省明治十七年朝鮮事変史料明治十八年一月十二日項に「午前十一時
済物浦ニ於テ磯林陸軍大尉及京城遭害者ノ霊ヲ祭リ」とある。

参謀本部語学生赤羽平太郎の墓もまだここにあるのだろうか。

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まつもと城下町湧水群

2010-08-13 | 
西は3000m級の飛騨山脈、東は2000m級の筑摩山地に挟まれた
松本市は上高地から流れる梓川が市の西部を流れ、奈良井川が
市を二分するように横断している。
市街地は江戸時代初めに人工的に流路を変えた女鳥羽川と薄川の
複合扇状地で城下町を形成しており、町内には多数の湧水場がある。

松本城

 


全国の162の湧水等の中から100箇所を選定した環境省選定
平成の名水百選に多数の湧出地点を持つ「まつもと城下町湧水群」が
選ばれている。

1日の湧水量は280トン有るものの、同じ信州の名水・秘水に選ばれた
松本市の上高地龍興寺清水の1日の湧水量、1223トン、名水百選の
柿田川湧水群1日の湧水量約100万トンと比べるとチョッと湧水量が
少ないが、松本の城下町を井戸や泉を求めてブラブラと歩き回った。

源智の井戸
 

日の出の泉(薬祖水)
 
龍興寺大毘沙門堂と町家の湧水(井戸整備事業により整備)
 

伊織霊水
 

女鳥羽の泉、お隣が善哉酒造


鯛萬の井戸

鯛萬の井戸傍の小路


片端バス停傍の町家の湧水

お堀にあった牡蠣船と耳鼻咽喉科の医院(いずれも現役です)


北門大井戸


地蔵清水


大名小路井戸と大手門井戸


土居尻町町家の湧水と西掘公園井戸
 

戊辰戦争で、松本藩は東山道軍として松代藩と共に会津に攻め込んでいる。
奥会津の玉梨に潜伏していた山内大学(二百石)の弟、横田大助(大佐)や
飯坂新内、小澤源蔵を自刃に追い込んだのがここの松本藩兵だった。

コメント (2)
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松本ぼんぼん

2010-08-10 | 
8月7日、たまたま宿を取った長野の松本で
「ぼん、ぼん、松本、ぼん、ぼん、ぼん」と妙に耳に
残るメロディーで連を作って歩行者天国を賑やかに歌い踊る
「松本ぼんぼん」という現代的なお祭りをやっていた。

(普段の松本駅と7日夕方の松本駅前)


後で知ったが、今年は36回目で、そんなに大勢参加しているとは
思わなかったが、参加者は過去最多312連の約2万7千人(主催者発表)で、
過去最高の参加だったようだ。振り付けの変更やアルコールはルール上
禁止されているようだが、連ごとに工夫しているのは見ていて楽しかった。





 

翌日、松本市立博物館に行って、ぼんが「盆」であることが分かった。
古くから行われていた松本の盆行事「ぼんぼん・青山様」のことも知った。

「ぼんぼん」は、女の子が紙で作った花を頭に飾り、浴衣にほうずき提灯をさげ、
ぼっくり下駄をはいて、歌いながら町内を歩き、先祖の霊をしずめる行事と
云われている。

「青山様」は、青山神社という小さな幟をたてた御神輿をかつぎ、男の子が
「青山様だい、わっしょいこらしょ」と掛け声をあげながら、町内を廻り、
この神輿には先祖の霊を迎えるものといわれる青杉が盛られるという。

松本の「ぼんぼん・青山様」は平成13年9月、県選択無形民俗文化財に指定された。
選択無形文化財は「記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財」という事なので、
年々盛んになっている「松本ぼんぼん」に比べ、「ぼんぼん・青山様」は減少の
一途で記録に残さなければならないのは非常に残念なことだと思う。

「ぼんぼんの歌」が館内に展示してあった。
盆々とても、今日明日ばかり、あさては山のしほれ草、
しほれた草を、やぐらに載せて、下から見れば、牡丹の花、
上から見ればなさけの花よ、牡丹の花は、散つても咲くが、
情けの花は、今日ばかり。
今年の盆は、盆とも思はぬ、紺屋は焼ける、屋台は焼ける、
盆帷子は色褪める、白でもないが、紺でもないが、浅黄に染めて、
ちやんと着る着る。
あの山蔭で、光る物は何ぢや、月か星か蛍の蟲か、月でもないが、
星でもないが、姑の御姥の目が光る光る。

ぼんぼんと青山様は地域によって異なるが、かっては八月上旬からお盆頃までに
行われていたという。若い人の活力を引き出すことも必要だが、地域の古くからの
風習も大事に残せればと思う。
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