大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

松江豊寿の苦悩

2010-04-28 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (4)

松江豊寿は大正15年3月、下位春吉の弟、下位英一氏と共に
伊太利大使館で伊碑の位置の適否を大使に問うべき面会を申出たが、
大使の不在で会えず、通訳官に飯盛山白虎隊墳域の略図を渡し位置の
適否を依頼している。

松江氏は下位氏留守宅と連絡を保ち、下位氏の消息を明らかにする事に
努めていたが、春吉より4月27日に加茂丸にて神戸に着き、5月2日
帰宅したと連絡があった。

直ちに下位氏に面談した松江氏に春吉は、碑の到着が遅れているのは、
日本に贈る碑は当初の計画である首相から全国少年隊に代ったこと、
もと元老院議員の紀念碑建設委員長が奔走中で、未だ碑は完成していないが、
6月のナポリ発の箱崎丸に搭載予定であり8月には神戸に到着予定だと
この時は言葉巧みに言い逃れている。

松江氏は下位氏と同行し伊太利大使とも面談して、碑を贈られる好意を謝し
碑の場所を相談して、除幕式に伊国を代表して大使の参列を依頼している。
大使は決定には時間が掛るので更に数回の相談の必要があり、もう外出の
時刻が来たと週末の晩餐に招待して席を外した。松江氏は滞在日時の関係も
あり招待を断り、それから大使館員と雑談してその時は別れたという。

しかし、松江氏は伊大使と面談する前に、碑の台石を寄付するという
下位氏の親交ある岐阜の矢橋氏にいろいろ訊ねている。確認できたのは
下位氏から大理石寄付の申込はなかったということであった。

この件で下位氏を追及すると、台石は大理石より会津産の天然石が最も
適しており、発見出来次第、矢橋氏を伴って会津に行き選定すると言う
話であった。

この話を信じた松江氏は会津弔霊義会理事と石を探しにいっている。
数個の石を見つけて通報して、碑の到着期日も迫っており、除幕式の
事もあり、7月19日、松江氏は下位氏に面談のため上京した。

ところが下位氏の地方講演のため会えず、伊国大使も訪ねたが避暑の
ため不在で、通訳官と面談、伊国皇太子の訪日について確認したところ、
皇太后陛下崩御の為、訪日の計画は無くまた皇太子は学生のため外国旅行は
どうだろうという否定的な話であった。

期日の8月になっても伊太利碑は到着せず、この辺りでようやく、
松江氏は下位氏の言う事が信用できないことが判ってきたが、氏の
社交的状態より見て未だ建碑を放棄するのをためらっていた。

外務省報告書には「建碑ヲ放棄スルニ忍ヒス憤怨ヲ耐ヘテ下位氏ニ
面談シタリ」とある。
11月4日の下位氏との面談。
「碑ヲ受領スルニハ授典式アリテ貴下ノ云ハルル如ク簡単ニ商品荷物ヲ
発送セシムルカ如ク取扱ハシメ難シ又自己ノ立場上トシテ礼ヲ尽シテ受ケ
サルヘカラス之ニハ相当ノ費用ヲ要スル故先頃来之カ金策中ナリシモ未タ
完カラス七日出発ニシテ最早子ナケレハ後事ヲ妻弟ニ托シ置クへシ」
「十一月十三日香取丸ニテ門司出帆十二月十九日マルセーユニ上陸シ
二十日羅馬ニ着シ明十六年二月帰朝スヘケレハ其際必ス携行スヘシ暫時
猶予セラタシト」
これ以降、昭和2年になるまで下位氏と連絡が途絶える。 (続く)
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若松市長松江豊寿

2010-04-23 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (3)

伊太利より帰朝した下位春吉が国民新聞社堀田部長と弟の英一氏を
伴って福島の若松市に来たのは大正14年2月11日のことだった。

この国民新聞社は徳富蘇峰が明治23年(1890)に創刊した日刊の
新聞社で現在の東京新聞の前身の一つ。明治後期から大正初期にかけては、
藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれることもあった。

政府系新聞の代表的存在に成長していった国民新聞社は帰朝した下位氏に
国民精神作興の講演を依頼し、各地を巡回していた。

若松市長を訪ねた国民新聞社豊田部長は、下位氏を伊国首相と親交があり、
詩豪ダヌンチオとは兄弟の約結の人と紹介し、下位氏は「会津白虎隊精神は
伊国少年隊の精神と行為は同じであり、その事蹟に感激し少年隊長
ムッソリーニ氏の名において紀念碑を建てることになった」と話を持ってきた。

この時の若松市長は大正11年12月から第九代市長になった退役陸軍少将
松江豊寿51歳であった。豊寿は会津藩士松江久平の長男で明治25年
(1892)、陸軍士官学校に入学。大正3年の陸軍服役停年名簿に
よれば、明治27年(1894)9月に陸軍歩兵少尉に任官、大正3年
中佐に任官、歩兵中佐序列337位、ちなみに、このとき少将序列36位が
会津藩士柴佐多蔵の五男、義和団の乱で活躍した柴五郎。

2006年6月、中村彰彦著書「二つの山河」を参考にして、
第一次世界大戦中の徳島県にあった板東俘虜収容所を舞台に作られた映画
「バルトの楽園」の収容所所長が、のち若松市長になった松江豊寿だった。

大正14年11月、当時市議会の派閥争いに嫌気がさした松江豊寿は
市長を辞任、兼任していた会津弔霊義会専務理事に専念することになった。

当時、白虎隊墳域を管理していた会津弔霊義会はこの墳域の拡張を計画
しており、紀念碑寄贈の話を好機会として、大正14年12月に起工、
積雪吹雪も意にかいせず会津の青少年及び各団体を動員して翌15年
4月にはほぼ完成させた。

この15年4月というのは、前年11月に会津に再来した春吉の、
伊太利黒シャツ団代表しムッソリ―ニ首相より白虎隊に送る紀念碑に
首相の考案の碑文を自筆のものを彫り、15年4月上旬には到着予定で、
伊太利皇太子の御訪問も内定しており、伊太利碑の除幕式は殿下の台臨を
仰いで行うという話に合わせて、慌てて完成させたものであった。

なおこの紀念碑の台石及び訳文を彫る大理石については、下位春吉の
知人、岐阜の大理石商矢橋亮一氏の寄付で賄うとの話であった。

この話のとき、新聞記者も数名同席していたが、下位氏はこの話は
皇室に関することなので発表してはならないと記者に口止めしている。
喋ってはいけないなど、どっかの詐欺師の手口によく似てきた。

下位氏は12月、明春、伊太利から帰朝するときに碑を携行すると
言い残して伊太利に向けて出発した。  (続く)
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下位春吉

2010-04-19 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (2)

大正14年、イタリアから会津白虎隊の紀念碑寄贈の話を会津に
もたらした下位春吉とはいったいどんな人物だったのだろうか。

下位春吉研究家の白土晴一氏によると、春吉は明治16年(1883)、
福岡県士族井上喜久蔵の四男で明治40年、東京高等師範学校入学の時、
下位嘉助の婿養子となる。在学中「口演童話」の活動で知られたと言う。

大正期の口演童話については、「お噺の仕方」という春吉の著書がある。
その本に、研究のため助力を受けた人に久留島武雄、巌谷小波、イタリア
大使館訳官ガスコの名を挙げている。東京高等師範学校の大塚講話会での
指導やイタリア国ナポリに赴任したとの記述がある。

大正14年3月、国民新聞社編輯で下位春吉講演速記「フアツショ運動」を発刊。
大正8年(1919)5月、すでにオーストラリアに宣戦布告していたイタリアで、
フユーメ奪回の決死隊に入隊、熱血児で詩人のダヌンチオ軍曹の率いる一分隊の
一番初めの兵隊となったとある。国民新聞編輯局の編者は春吉について
「永く伊太利に在って、熱血詩人ダヌンチオの詩懐にひたり、更にフアツショの
兵士として伊太利国民運動の中枢に参加していたことは諸君の知らるゝ通りである」と
紹介しているが、春吉のイタリアでの行動についてはハッキリしていない。

大正5年からのイタリア在中から大正14年(1925)までの帰朝までの
春吉の記録は日本側に余りないが、外務省記録に大正10年(1921)7月、
在伊国大使館藤井書記官より伊集院大使宛に下位氏よりの伝言として来電文が
別紙として、宣伝関係雑件に残っていた。
(下位春吉帰朝時期については、国民新聞社記録では大正13年12月、
外務省資料では大正14年初となっている)

電文
「下位氏帰朝シ難キ事情アリ家族当国へ呼寄セ度旅費ハ家族宛
郵送スヘキニ付右到着次第成ルベキ早ク伊太利ニ向ケ出発スル
様同義家族へ御伝へ願度出発ニ付何分ノ御世話願フ」
これは、旅費は送るので、家族の伊太利行きの船その他手配の依頼。

ところが大正10年8月12日に在伊日本大使館藤井氏より外務省
伊集院大使に連絡がはいった。
下位春吉より家族呼寄に関し、これに要する旅費等四千円は閣下宛
横濱正銀行渡為替券壱葉を以て送金の申し出でがあり、送金が
遅れたのは「東宮殿下の伊太利訪問等の為、取り紛れて本日まで
遅延した」と弁解しているとあった。

いずれにしても大使宛の為替券では、支払いは伊集院大使に
なってしまい、振出人が受取人となる自己受為替券では単なる
借金の申し出だったのだろうか。

大正10年10月4日、本省着、藤井より伊集院大使へ電報。
「下位家族鎌倉丸ニテ出港出来得ル様御配慮ヲ請ウ。旅費ハ八月十二日
閣下宛郵送済。尚ホ下位ハ当館ニ勤務シ居ル次第ニ非ズ」
大使館勤務ではないと断られては、大使もさぞ驚いたことだろう。

大正10年10月8日付、外務省に金額四千円の一通の領収書が
残っている。受取人は妻の下位富志、
摘要欄は伊集院大使宛正金銀行支掛ノ為替手形一葉とある。

大正14年(1925)初め、伊太利より帰朝した下位春吉は講演を
しながら各地を巡回、2月11日、会津若松市に赴き松江市長と面談、
伊国少年隊は白虎隊の事蹟に感激し少年隊長ムッソリーニ氏の名に於て
一紀念碑を寄贈することになっていると話し、市長の案内で飯盛山を訪ね
調査をおこなっている。ここから会津市長松江豊寿氏の苦労が始まった。 

どのような関係があったのかは不明だが、ムッソリー二との交流も
あったようで、同年11月、下位は再び若松を訪ね、イタリア首相の
自署のある大写真を会津弔霊義会に送っている。  (続く)
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飯盛山ローマ市碑

2010-04-16 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (1)

会津若松の飯盛山白虎隊墓碑のまえの広場に、イタリアの
独裁者ムッソリーニにより贈られたローマ碑が残っている。

説明板には「白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市は
昭和3年、ローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没した
ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。
基石表面にイタリア語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の
遺烈に、不朽の敬意を捧げんがため古代ローマの権威を表す
ファシスタ党章の鉞を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を
贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、
第2次世界大戦後、占領軍の命により削り取られた」とある。

さらに昭和53年11月、会津弔霊義会発行の戊辰殉難追悼録では、
この白虎隊礼賛の碑について「日本の背骨を会津に見つけたり
日本のよさと言うものであった。これが日本の国際的親善に役立ち、
会津のよさを会津人の身に蘇生させること大であった」と書かれていた。

今、この碑を見ると、太平洋戦争後によく壊されずに残ったものだと
思い、何か異様な感じを覚えてならない。

この紀念碑寄贈の話が下位春吉により初めて日本にもたらされたのが
大正14年初め。この怪人物、下位春吉からの話で会津の人たちが翻弄され
大変な苦労が始まった。紆余屈折のあと、ローマから贈られた白虎隊記念碑の
除幕式が盛大に行われたのは、丁度、明治戊辰の戦い六十年後の昭和3年
(1928)12月1日のことであった。

大正から昭和に替った頃は第一次世界大戦後(1918)、世界的に軍縮が
大勢となり、二度の軍備の整理・縮小を経て、関東大震災発生(大正12年)
の復興等もあり、大正14年(1925)第三次の軍備整が行われた。

若松に置かれていた13師団の歩兵第65連隊(現在の会津若松市立
第二中学校の敷地)が廃止され、代わって第2師団の歩兵第29連隊が
仙台から移ってきた。軍靴の響きが段々大きくなってきた時代であった。

大正13年は、イタリア総選挙でファシスト党が勝利、大正14年には
日ソ基本条約に調印し、ソ連と国交を回復している。このような時代背景の
なかで、イタリア帰りの下位春吉により、ムッソリー二からとして会津
白虎隊紀念碑寄贈の話がもたらされた。         (続く)
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谷中瑞輪寺

2010-04-12 | 掃苔
台東区谷中にある瑞輪寺塔頭正行院墓域にある会津家中
井上氏の墓碑を訪ねる。その隣りに井上茂助貞安母之墓、
墓台は桑名家中麻生氏とあり、上下、異なる墓碑なのか。



 

この瑞輪寺には、会津藩三代藩主正容の側室栄光院(ゆらノ方)と
正容の子供達の墓碑がある。栄光院は横山九右衛門常定の娘祐で
正室の没後、継室となっている。
(栄光院墓碑)


松平大膳大夫源君墓碑
君姓源諱正甫稱松平氏東照大権現四世之孫 征夷大将軍秀忠
賜台徳院殿贈正一位大相国公之曾孫 奥州会津故中将為肥後守
正容之子久千代摩正那之弟元禄十年丁丑十二月廿五日於会津母横山氏



右横に養姫の墓碑がある。養姫は父正容、母は篠沢儀右衛門秀全の
娘礼津。礼津は初め二代正経の正室加賀中納言前田利常娘くまの御小姓で、
その後正容の側女中となる。正容との間に二男一女を生み、その後、家臣
山崎左助実方に拝領妻として下賜されている。

本堂の裏手にポツンと一基、松平氏之女順子墓がある。
碑文には「奥州会津少将松平肥後守源正信女横山氏而順子
其諱也元禄十三年九月十日生同十四年五月十八日夭」
正信は正之六男で三代会津藩主正容順子生母は横山右衛門常定娘祐。



諸士系譜によれば、井口氏、池上氏、河瀬氏、田中氏、根岸氏と、
この瑞輪寺を菩提寺としている会津藩士も多い。

瑞輪寺塔頭正行院墓域に同じ家紋丸武田菱の井口家の墓があったが、
正行院では、会津藩士かどうか不明であった。

本堂左側奥手に会津藩とある丸ノ内釼四ッ星の石澤家の墓碑があった。
この墓に向き合うように同じ家紋はの石澤氏の墓があり、名前は義直。
千葉の富津にも同じ通字をもつ会津藩士石澤氏の墓碑がある。

 

幕末、会津藩は江戸湾防備で文化七年(1810)に相州警備、
弘化四年(1847)には房総警備を命じられている。

千葉富津の正珊寺にあるのが会津藩士石澤義則と石澤義則妻丹羽氏墓(左側)

 
(走水円照寺)
 

富津の対岸、三浦走水の円照寺に会津石澤義則の三女(妙華童女)の
墓碑がはなれ離れに残っているのが、悲しい。
コメント (4)
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