大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

三崎城山会津藩墓地を守る会

2011-08-18 | 會津

文化七年(1810)、国交を求めて来る外国船を警戒するため幕府は会津藩に江戸湾相州警備(三浦半島の湾岸警備)を命じた。会津藩では砲台を観音崎に、鴨居、平根山(西浦賀)、三崎に陣屋を築き文化八年に完成させた。三崎陣屋は昔、相模三浦氏の本拠地で後に後北条氏が領した城跡で今は城山と呼ばれている。この城山の南側崖上の大椿寺飛び地に此の地で亡くなった会津藩士とその家族の墓碑が集められた城山会津藩墓地があります。 

  

 

 

大椿寺は頼朝の側室の妙悟尼が開基で通称椿の御所と呼ばれた所で、ちょうど城ケ島大橋料金所下の台向ヶ崎と呼ばれる崖下にあり、このお寺の墓域にも会津藩士とその家族の墓碑があります。

  

 

城山会津藩墓地を最初に訪ねたのは城山墓地が歴史資料として三浦市指定文化財として登録された5年前、場所が判らず北条湾の諏訪地区をウロウロして地元の人にその時はまだあった山の上のテレビ受信塔の下だと教えてもらった。この時から地元の老人会の人たちが月1回15日に城山会津藩墓地の清掃をして下さっているのを知った。

その後、清掃は老人会から諏訪地区の人々、現在は地元の方々「三崎城山会津藩士墓地を守る会」(会長石井正雄氏)で会津藩士の墓地を守って頂いている。

朝8時半から9時半すぎまで皆さん汗びっしょりとなって黙々と清掃している姿には感謝しても感謝してもしきれないものがあった。

   

 

 

今年の8月15日には三浦半島会津藩士顕彰会佐藤会長、三崎市教育委員会の方もお見えになっていた。

  

 

墓地入口にある歌碑は諏訪地区から城山に上る途中で会津藩士の墓碑と一緒にみつけられたもの。

(右写真、5年前のまだ鉄塔があったころの会津藩墓地)

   

あ里し世乃 昔し尓かはる三崎地に 吾妻濃人裳恋しかる羅舞」

ありし世の 昔にかはる三崎地に  吾妻の人も恋しかるらむ (詠み人知らず)

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横須賀浅羽家と会津藤田家

2011-08-11 | 掃苔

横須賀を見下ろす高台、田戸台に田津院聖徳寺という浄土宗の古いお寺がある。

  

最初にこのお寺に寄ったのは、数年前、桜が満開の時期に一般公開される旧横須賀鎮守府司令長官官舎に行った時だった。その時は古そうな綺麗な屋根のお寺さんだなという理由だけだった。その後、このお寺が島崎藤村「夜明け前」の主人公青山半蔵(藤村の父正樹)の先祖である田戸庄永嶋家の菩提寺と知ってまた訪ねた。この旧家には「右大淳浦賀道、左横須賀金沢道」と刻む道標と朱塗りであったことから「赤門」と呼ばれる「長屋門」が残っている。

  

今年に入って会津史学会の機関誌に「家老田中土佐四女コノ、郡長小川茂周氏を頼り、市内浅羽家に嫁ぎ一生を送る」と西堀一雄氏が書かれた文章を読んだ。横須賀浅羽家の菩提寺がこの聖徳寺。浅羽家のお墓を探しにまたこのお寺にお邪魔した。浅羽という姓は東鑑にもその名がでてくる武蔵の浅羽庄から起きた児玉党の一つで「天正期、小田原北条氏没落の後、その子孫相州に移る」とあり、横須賀で浜浅葉文書として記録が残る旧家でもあり、家紋が同じ浅葉家・浅羽家の墓域も多く、このときは浅羽コノのお墓を特定することはできなかった。偶々、三浦の地方史に田中土佐孫娘ユキ、会津藤田家に嫁ぐと記載を見つけた。この藤田姓は新撰組斎藤一が高木時尾(貞)と再婚して改名したといわれている。藤田五郎と時尾の次男剛に田中土佐孫娘ユキが嫁いでいた。しかも、剛とユキの次男統衛は横須賀の浅羽家に養子に行ったことが判った。早速、聖徳寺に出かけた。

  

浅羽家の墓碑には六名のお名前があった。

源峰院鶴誉松音居士 明治四十四年六月九日   俗名雄吉 行年六十三才

誠説院願誉此言大姉 明治三十四年三月二十八日 俗名此子 行年四十一才

壽光院説誉妙音大姉 昭和十三年十二月九日   俗名福子 行年六十六才

泰心院□岳源司居士 大正十一年八月二十六日  俗名源司 行年二十八才

壽光院幸誉貞薫大姉 昭和四十八年三月二十日  俗名ゆき 行年七十九才

善心院彰誉統一居士 平成七年四月二十六日   俗名統衛 行年七十七才

この此子が田中土佐四女コノと同一人物だとすると戊辰の時わずか七歳、随分心細かったことだろう。

 

田中土佐四女コノが頼った小川茂周の妻志満子は会津藩士小櫃氏娘と言われているが、小川家の菩提寺信誠寺にある苔むした小川茂周妻小櫃氏之墓の碑文からはこのことを読み取ることはできなかった。この小川茂周の弟が鴨居の高橋家に養子に行っている。横須賀中央駅前を兄弟で埋め立て、兄の小川茂周が小川町、弟の高橋善七が若松町を造成したことになる。

(信誠寺、中央が小川茂周と向かって左側が茂周妻小櫃氏墓)

 

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