文化七年(1810)、国交を求めて来る外国船を警戒するため幕府は会津藩に江戸湾相州警備(三浦半島の湾岸警備)を命じた。会津藩では砲台を観音崎に、鴨居、平根山(西浦賀)、三崎に陣屋を築き文化八年に完成させた。三崎陣屋は昔、相模三浦氏の本拠地で後に後北条氏が領した城跡で今は城山と呼ばれている。この城山の南側崖上の大椿寺飛び地に此の地で亡くなった会津藩士とその家族の墓碑が集められた城山会津藩墓地があります。
大椿寺は頼朝の側室の妙悟尼が開基で通称椿の御所と呼ばれた所で、ちょうど城ケ島大橋料金所下の台向ヶ崎と呼ばれる崖下にあり、このお寺の墓域にも会津藩士とその家族の墓碑があります。
城山会津藩墓地を最初に訪ねたのは城山墓地が歴史資料として三浦市指定文化財として登録された5年前、場所が判らず北条湾の諏訪地区をウロウロして地元の人にその時はまだあった山の上のテレビ受信塔の下だと教えてもらった。この時から地元の老人会の人たちが月1回15日に城山会津藩墓地の清掃をして下さっているのを知った。
その後、清掃は老人会から諏訪地区の人々、現在は地元の方々「三崎城山会津藩士墓地を守る会」(会長石井正雄氏)で会津藩士の墓地を守って頂いている。
朝8時半から9時半すぎまで皆さん汗びっしょりとなって黙々と清掃している姿には感謝しても感謝してもしきれないものがあった。
今年の8月15日には三浦半島会津藩士顕彰会佐藤会長、三崎市教育委員会の方もお見えになっていた。
墓地入口にある歌碑は諏訪地区から城山に上る途中で会津藩士の墓碑と一緒にみつけられたもの。
(右写真、5年前のまだ鉄塔があったころの会津藩墓地)
あ里し世乃 昔し尓かはる三崎地に 吾妻濃人裳恋しかる羅舞」
ありし世の 昔にかはる三崎地に 吾妻の人も恋しかるらむ (詠み人知らず)