大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津の雑誌

2008-01-31 | その他
会津の出版社、歴史春秋社がだしている、
会津人群像という雑誌がある。
年4回の発行、その第9巻の特集が、
会津の中世。その目次が

蘆名一族   (佐藤健郎)
佐原初代・葦名始祖・会津初代領主  (佐原義春)
蘆名氏方の乱  (佐藤健郎)
葦名の城    (石田明夫)

蘆名氏、葦名氏と同じ号の中で入り乱れて使われている。
佐藤氏は文中で「芦名家」と芦名の文字も使用している。

石田氏は地名の「芦名」と姓氏の「葦名」を区別して
きちんと表記している。「あしな」で読めれば良いではないかと
云われそうだが、会津の専門誌としては気になる。

以前、会津若松文化調査委員だった小島一男氏が、
会津史談61号に「葦名の文字について」、寄稿文を載せた。

このへんから、葦名の文字はすくなくても会津では、
統一されたかと思った。たしかに小島氏も
「他人である、我々が他家の姓氏文字がどうのこうのと
言うべき筋ではない」と述べている。

しかし、素人としては、蘆名と葦名では戸惑う。
執筆者が姓氏表記について同じにする必要もないが、
同じ号に記載するのであれば、表記の違いについて
少しぐらい説明があってもいいと思うが!!
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会津藩士 秋月登之助

2008-01-25 | 會津
先日、日野の土方歳三資料館に展示してある
「慶応二年八月」の裏銘のある土方歳三の
持物だったと言う大和守秀国の刀を見にいった。


表  大和守源秀國  秋月種明懇望帯之
裏   幕府侍土方義豊戦刀
   慶応二年八月  秋月君譲請高橋忠守帯之

問題は秋月種明、高橋忠守がどこの誰だということ。
会津藩士に江上太郎こと秋月登之助種明という人がいる。

渡辺多門の「辰之日記草稿」にこの人の名が出てくる。
鳥羽伏見で戦死、黒谷慰霊碑にある江上又四郎は叔父にあたる。

江上太郎は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に残留し脱藩、
名を秋月登之助と改名。秋月が伝習隊隊長のときの
副長が土方歳三だったという。
まんざら接点が無いわけでもない。

この刀が土方戦死後、西軍に接収押収、
世に出回った可能性も否定できない!
九州の大蔵一族に秋月氏、高橋氏がいる。秋月氏は高鍋藩主。

高橋氏は大友氏に敗れ、その後二本松藩士となった高橋氏と、
島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた高橋氏がいる。

ふと、気が付いた、会津若松に秋月氏の墓が興徳寺にある。
この墓、原田・三原・秋月家先祖代々之墓とあり同じ一族。

諸士系譜によれば、江上氏漢祖後裔原田対馬寿末葉
肥前国城原城主 江上又四郎家種二男とある。
この原田氏と江上氏は同じ家紋で本国はいずれも筑前。

何のことはない。
原田氏、江上氏、秋月氏、高橋氏、皆同じ一族だった。

二本松藩士旗奉行高橋九郎、その子に高橋種祀がいる。
「種」の字は一族の通字。チョット荒唐無稽な話か!!
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追浜の官修墓地

2008-01-22 | その他
ある会津藩士の消息を追っていて、
三浦追浜の深浦湾を見下ろす鉈切山に、
官修墓地があるのを知った。

西南戦争当時の政府は、慰霊は招魂社で行い、
その対象者は、軍籍を問わず戦地で銃弾、
刀剣による死亡した者に限ったと云う。

この追浜の官修墓地は、病死者の墓地です。
西南戦争からの帰還船の中でコレラが発生し、
故郷を目の前にして、はかなく病没して遺族が不明だった者
48名、52基(48+4)の墓碑があります。

当初、鉈切海辺の黒崎に埋葬したが、
大正二年海軍航空隊拡張のため現在地に移葬されたものです。
会津藩士の墓石を探していて、たまたま知った墓地です。

地元の人達から、追浜の鉈で戦った人の話を聞いた。
鎌倉時代の話だという。
鉞切は昔,三浦郡浦郷村にある字の一つ。

蒲の冠者と呼ばれた、源頼朝の腹違い弟範頼が
鎌倉幕府への謀反の疑いをうけ、梶原景時に追われたという。

その範頼が伊豆から追われ、辿り着いた浜(追われ浜)から
追浜という地名が生まれ、追っ手を鉈で応戦し
範頼を救った漁師達に蒲の一字を与えたという。

範頼の墓や位牌・画像などが 片吹町の太寧寺にあるという。
鉞切地区は追浜の官修墓地の隣の地区。こんなところにも
落人伝説が残っているとは、思わなかった。

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旧真田山陸軍墓地の会津藩士

2008-01-19 | 掃苔
昨年の冬、大阪玉造の真田山にいった。
この真田山、大坂冬の陣で真田幸村が
大坂城の出曲輪「真田丸」を築いたところ。

この跡地に、日本で最初に作られた軍隊の埋葬地、
真田山陸軍墓地があり、西南戦争の兵士の墓碑や
各地の鎮台兵の墓碑がある。

裏側の真田山三光神社側から墓地へ入ったせいか、
整然と並んだ墓碑にハッと息を呑む、
暫くの間、動く事が出来なかった。

ここに、旧会津藩士 陸軍会計一等書記の赤塚鉄蔵の墓碑があった。
他の資料から1年掛かってやっと特定できた。ほかに、
磐城宇多出身 警視局四等巡査心得佐藤喜八
新撰旅 警視局四等巡査伍長心得三上清八
磐城大浦村大森 陸軍伍長亀田敏等福島県人の墓碑がある。

軍役夫・934基、兵卒・1260基、下士官・247基
下士官・154基、兵卒・707基、兵卒・1413基
将校・155基、野田村遺族会・169基、破損墓碑塚・260基以上、
満州事変戦病没将兵合葬碑、明治三十七八年戦没戦病死者、合葬碑があり、
また現在、納骨堂に4万3千余の遺骨が納められている。

この陸軍墓地は時代の変遷と共にその性格を変えて行ったが、
いまなお、戦前の陸軍墓地の景観が保全されている。

地元の「真田山陸軍墓地維持会」、
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の
努力と活動に負うところが大きい。

しかし、兵士の墓碑群の多くが砂岩で出来ており墓碑面の剥落が激しく、
いつ崩壊してもおかしくない。墓碑銘が判読不能になる前に、
なんとか保存の方法を考えて欲しいものだ!!
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腰越会津藩墓地 在竹氏

2008-01-18 | 會津
神奈川県三浦半島の観音崎近くに、鴨居という静かな漁村がある。
ここに地元の人もあまり知らない腰越三昧堂(さめど)と呼ばれる所に、
二十三基の会津藩士やその家族の墓碑があります。

腰越は,会津藩が文化八年に,江戸湾海防のため陣屋を置き、
子弟を教育するための「養正館」という藩校までつくった所。
ここに、相州観音崎常詰物頭、在竹平助隆明の娘の墓碑がある。

江戸城半蔵門より神田へ出る退路に在る
竹橋の名前のもとになったのが、この在竹氏。

榕窓主人の筆記に云、
会津藩士に在竹五郎左衛門隆尹というものあり。
その祖先は相州小田原の家士、
荒木・在竹・多米・大道寺とて四家の一なり。

在竹は伊勢の在名平氏なり応仁の頃、在竹兵衛尉その子
摂津守、その子も亦摂津守に任す、永禄七子年正月二十八日、
江戸渡候而鴻の台に於、北條氏康同氏政父子、二万五千騎にて
房州里見義弘加勢の佐竹義重両敵を受け合戦の刻、
摂津守手勢六十三騎召連、旗ハ鳥居にて正月二十八日討死なり、
其子彦四郎父摂津守軍忠に依て上総の国椎津城を賜はる。

其身は江戸二の曲輪に被置、常陸若出陣の節は先可相務由也。
彦四郎家中のものとも、神田竹橋に被差置候、
依之在竹橋と唱候処、今は申能きままに竹橋という。

彦四郎小田原没落の節、於椎津城討死也。
定紋幕の紋釘貫に一文字なり。

竹橋西詰にあった近衛砲兵部隊が
明治十一年、西南戦争の論功と減給の不満から
反乱を起したのが竹橋事件。

この事件の裁判に当たったのが当時、陸軍裁判所評事だった
旧会津藩士、山川浩陸軍中佐であったという。
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旧会津藩士への広告

2008-01-16 | 會津
今度会津に行ったら、見たいものがある。
白虎隊記念館に在るという
松平容保公の薨去を伝える電報。
誰宛に打ったのだろう?

老公御病気の処本日午前十時薨去被遊候此段旧藩
士へ広告す
 但来る九日零時三十分小石川第六天御邸御出棺
 内藤新宿北町正受院に於て神葬式御執行の事
       小石川区第六天町
        松平容大 家令
 明治廿六年十二月五日

これは、明治26年12月6日、 読売新聞付録2面に
載った旧会津藩士にあてた広告。

昨年、青山霊園で出会った会津藩士のお墓が気になった。
この人物、「松平家の家令だったのでは」と思われる人。
他のことを調べていて、偶然この会津藩士の名がでてきた。

会津図書館にある明治二十四年出版「戦死者名籍」の
著者名として山川浩、杉浦佐伯と共に、樋口光の名が出てくる。
小石川区第六天松平邸内樋口光。

明治26年12月6日 読売新聞の旧藩士に広告した
松平家の家令はやはり旧会津藩士樋口光だった。

碑文に、青森県庁に凡十有六年奉職し、
旧主のため明治二十三年七月東京に移り、
明治三十二年一月に病で没すとある。

同年三月には、飯沼貞吉弟の関弥が松平家家令となり、
昭和十二年に会津松平家譜を編纂している。

今年の十二月で松平容保公死去百十五年を迎える。
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白金興禅寺の会津藩士

2008-01-15 | 掃苔
東京白金興禅寺には,多くの会津藩士のお墓がある。
戊辰戦争責任者として切腹した萱野権兵衛長脩、
隣が鳥羽伏見の敗戦の責任を負い切腹した神保修理諱長輝

その奥に、会津藩長沼流兵学者黒河内十太夫高定。
会津藩士 数学者岸俊雄、会津藩祐筆 荘田臍斎
山本氏、佐藤氏、野中氏、蓮沼氏、神尾氏の各氏。

お寺の脇を奥に入ったところに、郡家墓所がある。
郡(こおり)家は、萱野権兵衛の子孫の家系。
豊前小笠原藩留学中、わずか十六才で自刃した
郡長正は、萱野権兵衛の二男。

この興禅寺に気になる三基の墓石がある。
入口の萱野家・神保家の墓碑正面の、
山田氏・岡村氏・保科氏の墓碑。
この一画は全て会津藩士の墓所となっている所。

西郷頼母自叙伝「栖雲記」、保科近一氏所有の写本の表紙の裏に、
「此一綴は甥,山田重郎へ遺候物に候、 手前相続約定の際、
栄之助へ譲し系図其他 共々よく保存被致度其許養子届致候に付残し置也」と
頼母直筆の一文がある。

自叙伝「栖雲記」には、家紋並九曜、替紋梶葉丸に一字とある。
要略会津藩諸士系譜によれば、西郷一族の替紋、
一本鷹之羽、丸之内鷹ノ羽、丸内三本鷹羽とあり、
この三家のお墓の家紋、何れも丸之内違い鷹羽であり、
岡村家と保科家は親戚と墓碑に記載がある。

ただ、山田重郎一族の家紋は五蛇ノ目(梨ノ切口)、
替紋が鷹ノ羽ならば、話はピッタリなのだが!!
この山田家と山田重郎一族との関係はどうなのだろう?
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会津藩士 沼澤明道

2008-01-14 | 掃苔
京都黒谷会津藩墓地、入って左側2列目に
沼澤明通之墓という立派な墓碑がある。

会津沼沢氏は、山ノ内七騎党沼沢丸山城主
沼沢山内出雲守藤原政重の一族。

会津若松図書館所蔵、沼沢家系図並記録によれば、
明通は山内氏一門沼沢実通の子孫。

天正三年、伊達家に内応した関柴備中を
討取ってのが、この沼沢実通。

葦名家滅亡のあと、磐城鳥居家に仕え、そのあと
寛永十三年、最上で保科家に仕えた。
代々、猪苗代城代となり番頭上席に列している。

保科家に仕えた沼沢実通を初代として、
十代沼沢九郎兵衛の妻が道子。
その子、六郎が十一代沼澤明通。

京都黒谷会津藩墓地の沼澤氏はこの明通。
沼澤明通之墓 元治元甲子年九月六日とある

池田屋騒動が元治元年六月、禁門の変が七月、
死亡の原因はなんだったのだろうか?

母、道子は戊辰の八月二十三日、
若松自邸で姑貞子(西郷頼母娘)を介錯、
ゆや、すがの娘二人とともに自刃した。
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寝屋川の会津藩兵

2008-01-13 | 掃苔
大阪寝屋川市の墓地に、元治元年、
蛤御門の変(禁門の変)の戦死者、二名の墓碑があるという。

小路彦神霊 小路村惣右衛門伜俗名仙太郎
元治元年子年七月十九日戦死 施主河・城州総代中
 
国松神霊 俗名平兵衛
元治元年子年七月十九日戦死 孫入江喜太郎再建

文久二年、京都の治安維持に当たっていた
京都守護職松平容保 (会津藩主)の役知地となったのが、
山城国・河内国と近江国のうち、五万石分。

寝屋川市内では、寝屋村・国松村・秦村・太秦村・高宮村
小路村・堀溝村七ヵ村がその会津藩領だったという。

蛤御門の変に、これらの村々から会津藩兵として参加し、
不幸にも戦死したと思われる。突然領主が変わり、戦いに
駆出されたほうも、ビックリしただろう!!

この二名の墓碑が京都黒谷会津藩墓地にもある。
小路彦神霊 会津御役地河州 仙太郎二十四才 
国松神霊  会津河州国松村平兵衛 

会津藩庁記録によれば、会津藩は京都で毎年
二十万両以上の経費を必要としたらしい。
幕末の会津藩、役知・加増地の上がりが、約十万両。

蝦夷警護、相州・房州防備などの多大な出費がなければ、
もう少し、軍備を整えられたと思うと残念!!
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会津 長命寺

2008-01-12 | 會津
会津に長命寺というお寺がある。
山門の土塀をみて驚いた。
最高の寺格を示す白い五本線
一瞬、門跡寺院かと思う。

そんなわけも無く、
本願寺直轄寺院として
五本線の築地塀を許されたとのこと。

ここは140年まえの戊辰戦争での激戦地。
補修で、塀の銃弾痕あとは忠実に残せたが、
さすがに砲弾のあとは残せなかったらしい。

会津藩士戦死者の埋葬許可がおりたのは、
戊辰の翌年、明治二年になってから!!

戦没者の墓碑が建立出来たのが明治十一年。
しかも、表の墓碑名は「戦死者」のみ。
ほかの文字は許されなかった。

戦死者碑文(裏面)
明治一年戊辰八月官軍国若松城其廿九日
城兵千余出衛官軍震轉戦長命寺伏林叢多
殪官軍而城兵死者亦数百人精鋭殆盡及事
平聚屍埋諸寺中至戊寅十一年建石表墓


旧会津藩士七十五名によって建立された。
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