大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

千葉富津 松翁院無量光寺

2008-05-30 | その他
別名「十夜寺」とも呼ばれる、千葉富津の無量光寺には、
幕末、東京湾防備について亡くなった会津藩士と家族の墓碑がある。

この松翁院、改築前の建物は幕末の江戸会津藩邸の一部を移築したものと
言われており、今は跡形も無くなってしまったのは誠に残念なことで、
わずかに本殿台座の中央に菊御紋、両側に葵紋が残されているとのこと。

本堂正面入口の横に会津藩士と藩士家族、二十六基二十七名の墓碑がある。

弦木直成(百石)末子で叔父直方仮外隊騎士兼火術槍術師範に従った
会津之士弦木成功、斉藤勝甫(百五十石)二男先鋒隊士兼弓術師範の
会津藩齋藤勝盛、思案橋事件の永岡久茂の母親、鳥羽伏見の戦いで
戦死した白井五郎大夫の家族などの墓碑が残っている。

松翁院 別名十夜寺で6月1日(日)、房総半島会津藩士顕彰会による
富津竹岡慰霊祭が会津若松市副市長を迎え執り行なわれる。
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会津中将正之公生母 淨光院

2008-05-26 | 會津
享保十二年(1727)、兵学者大道寺友山重祐が表した落穂集に
保科中将殿之事とあり、正之公生母淨光院の記載がある。

正之公生母淨光院は、北條氏小田原没落のあと、
徳川家御奉公の願をだしたが叶えられず、浪人となった
北条氏直の近侍に神尾某と云う者の一人娘(静・志津)。

この娘を台徳院乳母の井上主計の御母(大姥局とは別人)に仕えさせた。
子細有り懐妊し月も満ち、親元へ戻り慶長十六年五月に男子が生れた。

落穂集には、神尾一族はこの男子を神田白根町町屋で三歳まで育てたとある。
この子が徳川秀忠の四男、幼名は幸松、のちの会津中将正之公。

会津藩諸士系譜に神尾氏、土津様御七歳之時、
淨光院様御家元格段之訳以御小姓ニ被召出候とあり、
淨光院の家元という格段の理由で保科正之公の小姓となり高遠に従臣している。

もう一人の台徳院乳母、大姥局は今川氏家臣岡部貞綱の子で穴山梅雪家臣、
川村善右衛門重忠の妻。

土津様(正之公)御七歳の時、もう一人の御小姓に召出したのは、
有泉新左衛門、曽祖有泉大学勝重は穴山梅雪の家臣。

幸松殿七歳の時、生母淨光院母子共に高遠に引越される。
淨光院同地にて五十二歳で病死、一旦高遠に葬られるが、
正之公が会津藩主となった後は会津浄光寺に改葬される。

実家の神尾氏は代々、会津藩士として会津松平家に仕えた。
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会津藩士 有泉新左衛門

2008-05-21 | 會津
埼玉県浦和市大牧の清泰寺に自寂院相善 俗名有泉新左衛門藤原勝長と
刻まれた木牌一基が残っている。

清泰寺は、武田氏武将で、あと徳川家康に仕えた穴山梅雪の妻、
武田信玄娘の見性院が葬られたところ。見性院、嗣子無く夫の死後、
家康の知遇を得て、武州安達郡大牧村に千石の采地を与えられた。
故あって二代将軍秀忠の子幸松を七歳まで養育したのがこの見性院。
幼名幸松は後の会津二十三万石の藩主の保科肥後守正之公。

この木牌には、九百三十二字に及ぶ牌後譜が刻まれており、
有泉家勝重・重治・勝長・勝隆の四代と穴山梅雪、見性院、
家康・秀忠父子、会津保科松平家との関係事績が記されている。

曽祖有泉大学勝重は穴山梅雪の家臣。信玄亡きあと梅雪が家康に仕え、梅雪の死後、
勝重は家康の旗下となり、上州に禄五百石を拝す。勝重の家を継ぐ者が無く禄を
失うのを承知で、一子五兵衛重治を一人になった旧主夫人見性院に仕えさせた。

慶長十八年癸丑三月二日、会津中将源正之公幸松三歳の時、故あって見性院に
養育させた時、五兵衛重治の子、この時僅か七歳の新左衛門勝長幼名金弥を
幸松君に仕えさせた。

元和三年丁巳幸松君七歳の時、信州高遠城主保科肥後守正光公の義子に命じられる。
幸松君一行は、同年十一月八日江戸を出発、十四日には高遠に着いている。
この時、幸松君に従ったのが有泉金弥と神尾六左衛門の二人。

会津藩諸士系譜あ之部十一、有泉家召出の項に
有泉五兵衛重治嫡男、新左衛門忠吉、慶長十八年(1613)三月、
七歳ニ而御小姓之御奉公とある。

この牌後譜を残したのは、笹沼与左衛門勝尹二男、勝長の女婿の勝隆。
笹沼勝尹は、佐竹義重家臣笹沼和泉守義久の二男。

これだから会津藩士の家系、ややこしい!
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白金 興禅寺

2008-05-20 | 會津
先の日曜日、18日に白金興禅寺で
会津松平家の現当主松平保久氏(容保公の五男保男孫)を迎え、
萱野国老法要がしめやかに行われた。

ここ興禅寺に会津藩士、神尾英俊の墓碑がある。
家伝によれば、先祖は北条氏旧臣神尾栄嘉に連なるとのこと。

会津藩諸士系譜か之部十五、神尾家召出の項に、
初・六左衛門友清(六右衛門政秀三男)、元和三年(1617)、
土津様御七歳之時、淨光院様御家元格段之訳以御小姓ニ被召出候とある。

神尾英俊は通字からすると、六左衛門友清と同じ本姓平、本国武蔵、
定紋七ッ星で、神尾八之丞房也三男、初・嘉右衛門英乗流れと思われる。

この淨光院様とあるのは、会津松平家藩祖正之公の生母、志津の方のこと。
徳川秀忠は身ごもった神尾栄嘉の娘、志津(静?)を武田信玄の次女見性院に預け、
見性院に養育させ、元和三年、正之七歳のとき、信濃高遠藩主保科正光に預けた。
この時、信州に従って行ったのが、神尾六左衛門と有泉新左衛門の二人。

神尾英俊の妻くらは、会津藩家老田中土佐の娘、田中土佐の養女となり
篠田兵庫に嫁したしん子(織部玄孝娘)の次男が自害した白虎隊の篠田儀三郎。

会津藩士の家系は奥が深い!!
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大崎 妙光寺

2008-05-16 | 掃苔

品川大崎にある妙光寺に行く。
以前、会津藩士、野口九郎大夫の墓を探しに行ってから2年たつ。

その時は、お寺でもこの会津藩士の事は知らなかった。
野口姓の墓域が二つあり、どちらとも決めかねた!

2年間で色々な資料が集まった。先日、弟野口富蔵の資料が出てきて、
ふと兄の九郎大夫のことを思い出した。野口家の通字は、「成」と「彦」。

前回、あたりをつけた碑を見に行った。碑裏に明治四十四年十二月建之とあり、
九郎大夫が没したのが明治四十二年十二月、丁度三回忌に建立されたのか?

この碑の横にかなり古い墓石がある。刻字は風化していて判別が難しい!!
画像処理でなんとか読んだのが、野口九郎右衛門成重墓?
墓名が間違っていたら申し訳ないが、この人は九郎大夫の六代前の先祖。

九郎大夫成元は幼名鉄彦、元治元年(1864)禁門の変の活躍で、
五十石加増になり三百石組頭になる。戊辰越後口の戦いでは小隊頭として奮戦。
戦後、斗南藩の大属官会計係として任された。
アーネスト・サトウに仕えた野口富蔵成光は弟。

墓碑名は野口先祖累代之霊、墓碑に九郎大夫成元の名はない。
この碑の建立者、勲五等 野口(鉄彦?)は直系の家人なのか?

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会津の侍 野口富蔵成光

2008-05-15 | 會津
アーネスト・サトウの回顧録「一外交官の見た明治維新」
(坂田精一訳)にこの野口富蔵成光の記述がある。

野口は、英語を学ぶため郷里を出て、始め箱館の英国領事に雇われたが、
慶応元年(1865)秋、サトウと同居するようになった。
明治二年(1869)、サトウに付いてイギリスへ渡る。

2年間のサトウの援助のあと、日本政府留学生になり、帰国後、公職についた。
アーネスト・サトウは、野口のことを「あくまで正直で、誠実な男であった」と
述べています。

野口は、内務省出仕のあと、陸軍省・工部省を経て京都府に出張を命じられた。
会津藩が蝦夷地の一部を拝領したのが安政六年(1859)、函館の
イギリス領事館開設が同年なので、若い藩士に英語を学ばせたのは辻褄が合う。

慶応三年、最後の日光例幣使一行の暴徒が掛川で江戸に帰るサトウの宿泊所に乱入、
そのとき、右手に刀を握り、左手に拳銃を構えて暴徒を追い払ったのが野口だった。
この時の日光例幣使が、小説家武者小路実篤の祖父である武者小路公香。

会津戊辰の役で奮戦した物頭、野口九郎太夫は富蔵成光の兄、
彰義隊に加わった弟留三郎は上野で戦死、伯父の四郎三郎は白河で戦死している。
野口富蔵の墓は神戸追谷墓地にある。最近やっと墓番がわかった。

関西にいったとき、訪ねてみようと思っている。
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愛宕山警部巡査戦死之碑

2008-05-09 | 會津
東京芝にある愛宕山にいった。
ここはれっきとした国土地理院発行の
2万5千分の1の地形図に認められた山。
もっとも標高50m未満の山で超低山といわれている。

ここに西南の役で戦死した東京警視第二方面第一分署
警部巡査の「表忠□功」の碑が残っている。
(3文字目の□は、古い書には旌の文字を当てているが、判読できず)

この警部巡査戦死之碑は、明治十年、西南の役で死事した、
東京警視第二方面第一分署員30名の氏名が刻まれている。

この碑は西南の役鹿児島県逆徒征討総督、有栖川熾仁親王題額、
鷲津宣光撰文、巌谷修書で明治十二年六月に建てられたが、
碑文の端に再建之記と追刻がある。

此碑ハ元南方広場中央ニアリシモノナルカ大正十二年九月一日大震災ノ
為倒壊セリ今回社殿造営ニ際シ碑中ニ記セル忠勇無双ナル警官諸氏ノ功
績ヲ後世ニ傳ヘント企画セル建設者ノ芳志ヲ継承セント欲シ上司ノ許ヲ
得テ再建シタルモノナリ
                 昭和九年五月
                 愛宕神社社掌松岡□□

この碑で会津関係戦死者と判別出来たのは5名
巡査  栗城瀧三郎   熊本城戦死    北会津郡上荒井村
警部補 田原重文    二重嶺戦死    北会津郡御山村
巡査  宇月平作    木留戦死      耶麻郡猪苗代町
巡査  佐藤左久次郎  宮原戦死     青森県旧藩士
巡査  吉川七郎    木留戦死      若松栄町

碑面の破損をコンクリートで固めてあり、裏面に
愛宕山建碑損貨姓名記と数百名の姓名を刻んだとあるが、
補修で今はまったく見ることは出来ない。
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落城

2008-05-07 | その他
珍しく朝寝坊してしまった。
前夜、時間を忘れ、ある作家の小説を夢中で読んだ。

部屋を掃除したとき、何気なく手に取った本が
角川昭和文学全集、田宮虎彦の落城という作品だった。

異母兄弟、絵本、菊坂、足摺岬、落城、霧の中と物語は続く。
抒情的で、悲しく、暗く、不条理で、読書後心が重くなる。

足摺岬という作品の中で、老人に
「黒菅はな、戊辰の戦ひで官軍に滅ぼされた奥路の小さな藩のことよ、
黒菅では藩士は錦の御旗にさからって、一人のこらず死んだ。
女も子供も斬死した。赤児まで死んだ。、、、、、、、、、、、」
さらに
「黒菅三千の魂がい生ながらのいのちをささげた
かんじんかなめの徳川様は公爵様にをさまるし、
世の中は黒菅などにかゝはりもなしに移り変っていったよ。、、、、、、、」
と語らせている。

「慶応四年十月十六日、仙台にあった奥羽追討の西国勢主力に
ついに北上の動きがみえた」で始まる作品「落城」は、
黒菅(くろすげ)という戊辰の奥羽の架空の小藩の設定。

戦後間もない昭和二十四年に発表した落城という作品は、
まさに戊辰の会津藩、会津若松城の攻防戦を描いている。

戦後の悲惨さを戊辰の会津にオーバーラップさせたのだろうか?


昼間、谷中霊園にいった。中にある
松平容保公篆額を見たあと、徳川慶喜の墓地に寄った。
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御田の綱

2008-05-02 | その他
東京三田、旧松平肥後守と旧松平隠岐守屋敷の間に綱坂という坂がある。
綱は源頼光の四天王の一人、羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱。

以前、この辺は三田綱町と呼ばれ、綱の井、綱の手引坂、
綱の駒繋松、綱塚と渡辺綱の旧跡と称する所が多くある。

ここは明治五年に武家地を併せて出来た町。
近くの神社も御田八幡神社と呼ばれ、渡辺綱の氏神とも伝えられている。

三田の起りは、公田を意味する御田と御田八幡の旧名、
式内稗田神社の神領の御田に、説がわかれる。

三田は、御田、美田、箕田、箕多と表記され、
さらに姓名では三太、見多、見田、参田の各氏がいる。

この三田に、産湯をつかった綱がいたのだろうか?

平家物語に「武蔵国に、聞えたる大力、御田八郎師重、
卅騎ばかり出できたり。巴その中へかけ入、
御田(おんだの)八郎におしならべて、むずととてひき引き落し、
わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、
ちとも働かさず、頸ねぢきて棄ててげり」

この武蔵の御田氏は武蔵荏原郡御田郷の住人と云われている。
風土記に「箕田源次、武蔵守経基の臣となり、
あと頼光に仕えて摂津渡邊に移り渡邊を氏とす」とある。

この箕田氏は武蔵国足立郡箕田庄の人。
どうも武蔵荏原郡御田郷の御田氏は分が悪い。

伝承で町名が付けられた頃が羨ましい。
今の三田2丁目では味気なさ過ぎる。
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