大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

福井 西光寺から養浩館庭園へ

2018-08-30 | 

藤島神社から養浩館庭園に向かう途中、柴田勝家の墓がある西光寺に寄った。お寺だか、保育園だかわからない入口に躊躇する。境内は保育園入口の西方から東方への一方通行でその東側に勝家の墓があった。
 
 
お寺の説明に「「慶長年間山中山代の守長俊の創建によるもので勝家、お市の方、勝豊(勝家の甥で丸岡城々主)及び勝家の一子作次郎の墓が合杞されている」とある。越前国名勝志に「岡ノ西光寺天台宗右同断長享三巳酉年(1487)朝倉孫治郎貞景岡ノ保村ニ於建立ナリ開山は坂本西教寺真盛上人天正十四 三月北ノ庄ヘ引移ス寺内柴田勝家 山中山城守ト記シタル石垣アリ四尺ニ五尺程モ有ヘシ其中ニ五輪四ツアリ年号法号等摩滅シテ不見草苔露清シテ昔ヲ思ヒ出ラシケル」とあったが、柴田勝家と一族の五輪塔が綺麗すぎて、とても勝家の死(天正十一年・1583)から四百年以上も経っているとは思えなかった。永正13年(1516)の銘のある朝倉貞景公寄進の梵鐘とあったが、朝倉貞景が亡くなったのが永享八年(1436)、梵鐘の銘とは少し時代が離れている。名勝志には大願主藤原朝臣景満大工志比原山岸兵衛尉家次とある。墓所傍に、明治七年、北の庄城ノ内濠跡を整地した際、発掘された北ノ庄城礎石や福井市照手上町旧里程元標があった。
  
 
県総務部財産活用推進課作成の福井城今昔マップ掲載の福井城旧景(市立郷土歴史博物館蔵)に九十九橋(大橋)の絵図があり、この絵図の照手門側(右側)に石柱が描かれている。こんな感じで建てられていたのだろうか。

福井城の本丸から北東にある国名勝指定の養浩館庭園に寄る。
 
 
ここは御泉水屋敷と呼ばれていた福井藩主松平家の別邸で、福井藩士山崎英常が記した「続片聾記」によると、ここは重臣氷見右衛門壱万石の屋敷で、二代藩主直忠により氷見家を御取潰しになり、三代藩主の時、其跡を別邸としたという。元禄年間、七代藩主吉品によって大改修が行われ庭園も新たに造成された。屋敷の南東部から城下を流れる芝原上水を取入れ庭の北東部に排水路を設けた回遊式林泉庭園で、昭和20年の福井空襲により建造物焼失したが、旧態を残した庭園として昭和57年、国の名勝に指定された。復原整備が進められ昭和60年から約8年かけて平成5年に完成した。
 
 
  
明治十七年(1884)、松平春嶽によって養浩館とつけられた。この名は孟子、「敢問、夫子惡乎長。曰、我知言。我善養吾浩然之氣、敢問、何謂浩然之氣。曰、難言也、其爲氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之閒」から名付けたという。張り出し縁側で中年カップルが昼間からベタベタしていた。物事にとらわれない、おおらかな心持ちでという「浩然の氣」を養う雰囲気ではなかった。壁に金粉を施した「金砂子の御間」では、金粉を触りたいのを抑えるのが大変だった。宿に戻るのに福井城址の本丸を横切って行くと三国志にでも出てきそうな中国武将らしき石像が見えてきた。誰の騎馬像かと近寄ったら、なんと結城秀康公とあった。
 
 
馬の立派さに比べて甲冑姿のみすぼらしさが余計、目立ってしまう。徳川家達篆額「福井城墟碑」があった。
夜は近くの「善甚」に行く。
 
  
  
非常にフレンドリーなご主人で楽しい食事をすることが出来たが、ガサエビを揚げた殻が上顎に刺さり、ソバを食べても取れず、短時間でリタイヤ―したのは残念だった。

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福井 藤島神社

2018-08-23 | 

福井城の裏鬼門の方向にあたる足羽山を取り囲むように神社仏閣が多い。その中で新田義貞を祭神とする神社、藤島神社が在った。新田氏なのに藤島とあるのが気になって足羽山招魂社の帰りに寄った。
 
 
昭和16年発刊の福井市史に「新田義貞公御戦没地は、吉田郡西藤島村燈明寺畷なり。明暦年間此地より公の御兜を発掘せしを以て、萬治三年(1660)福井藩主松平光通此地に「新田義貞戦死之所」と刻せる石碑を建て、明治三年松平茂昭同地に一祠を建立し云々」とあり、明治九年十一月明寺畷の祠を別格官幣社に列せられ、藤島神社の社名を賜り、朝廷の祭祀を行はせられる。同十四年同郡西藤島村牧ノ島に遷宮したが九頭竜川の水害が頻りに起り、同三十四年五月、足羽山の現在地へ奉遷された。義貞戦死の時の兜の発見場所の地名が藤島だった。藤島神社で御朱印を頂いた。藤島神社の神紋なのか新田氏の家紋、大中黒が押されていた。武家の紋章は源平の白旗、赤旗の旗紋に始まり、幕紋などを通して家の紋がつけられ、定着していったと言われている。軍幕で使う幕は、ふつう幅五枚分の布で出来ており、中の三布を黒くして、上と下の二布を白くしたものが大中黒で新田の紋、白・黒・白・黒・白の五段にしたのが足利の二引両紋だという。藤島神社の大中黒の中黒が太いように感じたので藤島神社大中黒を計ると、幅六枚分の中四布を黒くしていた。中三布の大中黒を作って比べてみたら思ったほど差がなかった。
左)藤島神社の大中黒      右)中三布大中黒
   
義貞戦死の時の兜「鉄製銀象眼冑」は明治三十三年、国重要文化財の指定を受け、兜発見の燈明寺畷の旧藤島神社境内の福井藩主松平光通建設の碑がある場所は「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として史跡名勝天然記念物として国の指定を受けている。この兜は明暦二年(1656)、藤島郷の百姓が見つけて苧入れに使っていたのを藩士井原頼文が見て、錆を落としたら四十二間の兜筋に神々の名を列ね、裏に元應元(1319)八月相模国の八字が読みとれて、頼文はこの冑を燈明寺畷で自刃した新田義貞の冑と鑑定して四代藩主松平光通に報告した。この冑は「鉄製銀象眼冑」として明治三十三年、国重要文化財として指定されている。この冑を写真でしか見ることが出来ないが、庇の銀の象眼らしきものもあり、今でも非常にきれいな冑の原型を保っている。「義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る」また「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候」とは太平記(国民文庫本)の義貞自害の場面です。鎧が甲冑の甲だけを指すのかどうか不明ですが、鉄錆の1年間当たりの進行速度は、中性で微生物や電流の影響を受けない土壌中0.05mm/yと言われている。義貞自刃から冑、発見まで約三百年、約15mmの錆が出ることになる。松平光通は結城秀康の孫にして徳川秀忠の孫を正室としている。新田義貞遺物発見で、新田一門の世良田氏を家祖とした徳川将軍家を喜ばしたのか。明治に入り皇統は南朝が正統とされ南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが盛んに行われ、明治九年「別格官幣社藤島神社」として創建した。あちらこちらに気を遣うのも大変だ。
藤島神社から福井駅方向
 

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福井 足羽山招魂社

2018-08-16 | 

福井市内でタクシーに乗って観光客とわかると、恐竜博物館に行ったかと聞かれる。恐竜博物館には行っていないが足羽山の招魂社には行きましたと答えると、たいてい茲で会話が切れてしまう。足羽山招魂社は足羽山神社から350mほど登った所にある。訪問した日は朝から小雨が降っており、招魂社はうっすらと霧が掛かっており、小雨に濡れた芝生と草木の緑が綺麗だったが、人けが全くなく、マムシでも出てきそうで気が気ではなかった。
 
  
福井市史稿本に「当社は元治元年(1864)京都堺町御門に於て斃れたる越前兵七名及明治元年戊辰の役に於て国難に殉ぜし福井藩兵十二名等の忠魂を弔慰んが為に、松平春嶽、茂昭両公相談し、足羽山に各自の墓碑を建設して招魂場と称し、明治三年九月茂昭両公自ら招魂祭を執行し、明治六年七月墓碑に代ふるに社殿を造営し、始めて招魂社と称す」とある。その後、足羽神社の説明によると、西南の役、日清・日露戦争の国事殉難者をも合祀し明治三十四年に官祭招魂社、昭和十四年には足羽山護国神社と称したが、さらに大東亜戦争における戦没者の霊を合祀し、昭和三十六年十二月、現在の足羽山招魂社に改められたと言う。
 
 
拝殿一面に氏名が刻まれていた。おもわず会津では評判が悪い文四郎の名がないか探してしまった。福井藩は元治元年七月十九日、京都で起きた禁門の変では幕府軍として長州勢と京都御苑九門の一つで御苑の南側、丸太町通に面している堺町御門で戦い、戊辰戦争では江戸城の無血開城のあと奥羽・北越諸藩による奥羽越列藩同盟が成立、五月二十二日、松平茂昭は会津征討の越後口出兵を命じられたが、茂昭は「初夏以来宿疾之脚気相発、近来別テ手足麻痺、甚敷起居難相成、殊更難儀仕候ニ付」として、軍事総管(家老)酒井孫四郎(與三左衛門)を出張させた。軍務官からの会津征討申達のとき、春嶽私記に「諸藩兵追々之出兵座視罷在、甚心苦敷存居候處、此度之被、抑出は武門之本意に候得は」と記している。春嶽は京都守護職を会津藩に無理やり押し付けておいて、会津討伐に武門之本意はないだろうと思う。春嶽が言ったという「我無才略我無奇」、常に勝者に寄り添う姿はやはり賢者なのだろうか。「春嶽と按摩のような名をつけて上をもんだり下をもんだり」と当時の狂歌に歌われたのも解るような気がする。七月四日、茂昭が脚気のため重臣本多興之輔を名代として藩兵百五十六名、夫卒六十名を越後口出雲崎に出兵させた。九月十日、渡辺隼人隊は勝方村、武曽権左衛門隊は青木村、林藤五郎隊は山崎に出張、若松に侵入した。福井県史によれば「越後口での同藩の兵員総数二〇三四人のうち戦死一〇人・負傷三二人」だという。境内に明治十六年十一月に建立された西南の役従軍供養碑「西南之役殉難碑」、西南の役に従軍し、戦死した岡島佐三郎の「岡島君佐三郎碑」供養碑があった。
 
 
福井県の西南戦争の戦死者百五十三人、うち警察官二十九人、壮兵(志願兵)五十二人、徴兵五十二人、その他および不明者二〇人で警察官はすべて士族だったという。
  
鈴木貫太郎筆「為萬世開太平」碑や太平洋戦争「鎮魂之碑」があった。

 

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足羽山 瑞源寺から足羽神社

2018-08-10 | 

福井市は北に九頭龍川、西に日野川、中央に足羽川の越前三大川による扇状地三角州的な平野で福井城南西約2k、足羽川左岸に足羽山(117m)がある。島が陸地化したものと思っていたら、多くの古墳があることから、かなり古い土地であることが分かった。姓氏家系大辞典に阿須波、「越前国足羽郡足羽郷より起る。和名鈔足羽を安須波と註し、神名帳同郡に足羽神社あり、此氏の氏神たりし」とあり、この古墳群は古代の豪族「足羽氏」一族の墓とも言われている。市営の西墓地公園東側に万延元年(1860)、不要になっていた福井城本丸御殿大奥の小座敷を移築し本堂とした瑞源寺がある。
明治32年刊 「若越宝鏡」高照山瑞源寺之景より

 
 
 
瑞源寺は足羽川左岸、城の南西、裏鬼門にあり秀康公の菩提寺華蔵寺の法孫で、福井五代藩主松平昌親(七代吉品)先妣高照院追福のため建立され、また吉品死去後瑞源寺に葬られ、探源院と称した。本堂裏山に開基松平吉品公と生母高照院の墓があるというので、本堂左手の墓地を抜けて裏山の方へ行くと道が崩れていて通行禁止になっていた。ご住職にお話を伺うと吉品公の霊廟は昭和二十三年の福井震災で倒壊、高照院の霊廟は老朽化が激しく、平成六年に解体したという。松平家の墓所は非公開にしているという。堂内を案内して頂いた。本堂は十四代藩主斉承の大奥御座所の御殿として造られたもので部材などはほぼ建築当初のものを再利用し、庫裏の座敷に続く書院は大奥御座之間と呼ばれていた建物をほぼ移築したものだという。
 
境内墓地に小松宮彰仁親王篆額による「機業碑」があった。織物をつくる事業を機業と言うらしいが、機業を顕彰する碑は初めて見た。
足羽招魂社に向かう途中に足羽神社に寄った。
 
男大迹王が、越前国に在住のとき、この山に地を卜して、大宮地之霊(座摩五神)を祀り、日野川、足羽、九頭竜の三大川を掘り大治水興し、事業の安全を祈願し武烈天皇皇女馬来田媛を奉じて斎主となり社名を足羽と称して奉仕せられたという。
    
三光紋                 月星紋
社務所で頂いたパンフレットに足羽神社の御神紋が載っていた。「三光(さんこう)の紋」という珍しい紋章だという。この三光紋は北極星・北斗七星に対する妙見信仰から起こり、妙見菩薩を軍神として崇め、関東良文流の武士団千葉氏が使用した「月星紋」をバラバラにして並べ替えた紋みたいで、いつの時代から使用をしたのだろうか。
境内に飛騨高山の国学者田中大秀は継体天皇の御世系を研究し碑の建設を計画、大秀没後の弘化四年(1847)に建立した「継体天皇御世系碑」
 
継体天皇崩御千三百年を記念し、城下の富商等が文政十三年(1830)、亀趺に「足羽宮之碑」を建立、
 
 
「天壌無窮」碑は明治二十三年(1890)に建立、もともと境内にあった神宝神社の由来碑で、篆額は有栖川宮熾仁親王による。

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越前一乗谷

2018-08-03 | 

朝倉氏の居城であった一乗谷は九頭竜川の支流足羽川のまた支流、一乗谷川を挟むように住居部分を構成し、谷の両出入り、南北の狭い部分に巨大な石垣や土塁で城戸口(上城戸、下城戸)を設け外部と遮断している。
 
 
 
 
 
文化庁データベースによれば「一乘谷城山ノ南北麓ニ在リ今二箇所ニ其阯ヲ留ム一ハ三方ニ腰石垣土壘ヲ繞ラシ外方ニ濠阯ヲ存ス又園池石組等ヨク殘存シテ舊規ヲ見ルヘク正面ニ唐門アリ一ハ西南一町餘ノ山麓ニアリ諏訪舘トス義景ノ妻ノ別邸阯ト傳ヘラル園池瀧ノ石組等アリ上ノ園阯ト共ニ古園ノ形態ヲ留ム。朝倉氏舘阯ノ東方高所ニ南陽寺阯アリ義景ガ足利義昭ノ爲メニ觀櫻ノ宴ヲ催セシ處ト傳ヘラル舊時ノ庭園ノ一部ヲ存セリ。
 
昭和5年に朝倉館、諏訪館、南陽寺、朝倉敏景墓、城跡、上・下城戸跡が指定、昭和46年、さらに館跡、家臣居館跡、御所跡、寺跡、神社跡、櫓跡等と平地の東西に迫る山の部分を追加指定し、これに史跡西山光照寺跡を合わせ、戦国大名の拠点の形態を総合的に保存しようとするものである。なお、これを機会にあわせて特別史跡とするものである」さらに「一乗谷に拠地を構えた北陸の雄朝倉氏は、天正元年織田信長にほろぼされたが、かつては将軍足利義昭もここに庇護を求めた。南北に長い山[[間]あい]に一乗谷川が北流し、帯状の平地が続く。このような地形は、防備しやすく、中世豪族の拠地として好んで選ばれたのであって、その典型的な例が本史跡である。一乗谷川の右岸の[[館]やかた]跡は、すでに史跡および名勝に指定されているが、これに[[城戸]きど]跡および城跡を追加指定し、拠地の総合的な保存を行なおうとするものである。城戸は館の北(下城戸)と南(上城戸)にあり、谷を東西に横断する防壘である。この両城戸の間は、約1.5キロメートル、一乗谷の中枢部で城戸の内といわれている。いま一部は取り払われているが、旧観をとどめ、下城戸で巨石の石垣が[[喰違]くいちがい]を構成しているのは偉観である。城は館の東背部にそびえる一乗城山(標高435メートル)の頂上部に築かれた山城で、本丸等の四郭が尾根上にあり、また千畳敷、観音屋敷、調練場等の[[郭]くるわ]が配されている」と詳細な説明があった。
 
 
上城戸跡は土塁、下城戸跡には石垣が残っている。想像していたよりこじんまりした上城戸、下城戸間1.5kの隠れ谷みたいなところに何人の家臣が住んでいたのだろうか。今は跡地になっている所に井戸の跡がやたらと多い。人口密度が高かったのか、冬の積雪の激しさのせいか、山に囲まれた谷の城下では沢も多く、また一乗谷川も上城戸、下城戸間の標高差24mありかなり急な流れだが、水には困らなかったと思うが、一屋敷に一つの井戸と小さな区割りの井戸、主な家臣団の屋敷と城下内に町屋があったとしても、大した人数ではなかったのではないだろうか、井戸の数の多さが不思議に思った。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄った。年寄は無料なのが嬉しい。ここで出土された2万7千枚もの前漢から明時代の銭、85種が展示されていた。家に戻った時、急いで通貨カタログで価格を見てしまった。

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