大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

かすてあん会津葵

2010-03-27 | 會津
会津若松に会津葵という古いお菓子屋さんがある。
ここの栞によれば、「かすてあん」の 押文様は
藩公の文庫印「会津秘府」を写したものだとある。

会津葵は会津藩松平家の紋どころ。
今まで、この「かすれあん」を包んである包装紙の
会津葵が秘府の蔵書のなかに押印してある家紋を
押文様として使用したものとばかり思い込んでいた。

最近、会津秘府というのは会津藩の蔵書朱印の文面
そのものであることを教わった。秘府とは一般的には、
貴重な本を保管する書庫のことをさすので、会津秘府が
蔵書の朱印文言とは思いもよらなかった。

思えば会津の古本屋で会津藩蔵書印ありと高額で売っている
本があるのは、この「会津秘府」の押印のある本ということか!

新宿高島屋の味百選という催しでこの会津葵のお店が
出店していた。早速、会津秘府に会いにいった。

「かすてあん会津葵」表面の会津秘府押文。



外の包装紙やお菓子箱の包み紙にも葵紋が。

 


会津葵紋を作ってみました

 
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人相書

2010-03-15 | 掃苔
以前、刀の中子に大和守源秀國 秋月種明懇望帯之、
裏銘に「慶応二年八月」幕府侍土方義豊戦刀とある
土方歳三の持物だったと言う刀が話題になったことがある。

江上太郎こと秋月登之助種明という会津藩士のことを
調べていて、変った旧会津藩士の史料が出てきた。

大戦後、日本に進駐した米軍が押収した記録文書が、
昭和33年4月に米政府返還旧日本軍記録文書等として
防衛庁防衛研修所戦史室に返還された。

この文書の中に、明治六年四月、司法大小丞司法卿江藤新平
司法大輔福岡孝第連名による、秋月登之助の人相書による捜索
捕縛の手配があった。

旧会藩代官 伊上又八倅(ママ)秋月登之助
一、年齢二十七八歳  一、顔角ナル方
一、目三角ナル方   一、中背
一、耳鼻常体     一、色黒キ方
一、眉太キ方

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C07073103200、
陸軍省大日記秘史局諸課布告録第1局(防衛省防衛研究所)

この手配書にさらに三名の旧会津藩士の名があった。
旧会藩 武川一郎、旧会藩 竹村肇、旧会藩与力 山浦鉄四郎

山浦鐡四郎
一、年齢二十五六歳位 一、顔長キ方
一、目細キ方      一、背低キ方
一、耳鼻常体      一、色白キ方

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C07073103300、
陸軍省大日記秘史局諸課布告録第1局(防衛省防衛研究所)

山浦鉄四郎は一時、新撰組に在籍したとも云われており、
戊辰の戦いでは藩士として鶴ヶ城で一隊を率いて奮戦している。

戊辰後は、蒲生誠一郎と名前を変え斗南に移住した。
妻は鶴ヶ城籠城で活躍した中野竹子の妹ゆき子。

結婚したのが明治四年、明治六年四月にだされた手配書には
不容易企てとあり、各地方官は厳密捜索を行い捕縛の上、
当省に連絡しろとある。指名手配写真のない時代で良かった。
明治一四年旧斗南藩戸主人名簿に鉄四郎長男山浦武彦の名がある。

八戸市湊町字館鼻御前神社神葬墓地に蒲生誠一郎武輝夫妻の墓碑と、
その近くに、兄山浦鉄次郎武基一族の墓碑が建てられていた。
(御前神社神葬墓地入口)




蒲生家の墓碑は八戸市湊町を見下ろせる気象観測所のある
小高い丘の地元タクシー運転者も知らない小さな御前神社
神葬墓地にあり、はるか故郷の会津に向かって建てられていた。
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旧飯野藩士 澤田武司

2010-03-03 | 會津
箱根七湯の旧飯野藩士(続き)

明治戊辰の戦いの後、会津藩家臣首謀の者を処罰することにより、
会津藩では、寛典により藩公父子は死一等を減じて永預けとなった。

会津藩容保家臣の首謀者として家老神保内蔵助、田中土佐、萱野権兵衛の
三人を軍務局へ届けたが、内蔵助、土佐はすでに亡くなっており、萱野国老が
会津一藩の君臣に代わり戦争責任を一身に引き受けることになった。

明治二年五月十七日、保科家より軍務官宛の返事
昨臘依 御沙汰取調差出松平容保家来叛逆首謀萱野権兵衛今般刎首被 
仰付候条於其方致処置可及言上事 但叛逆首謀之内田中土佐神保内蔵之助
已ニ落命ニ付不能其儀候得共存命候ハゝ刎首可被仰付事 右之通被仰渡候
趣奉畏候右御請以使者申上候以上   五月十七日 保科弾正忠 軍務官御中


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09080101600、
軍務官記録諸願窺届留 波11(防衛省防衛研究所)

五月十八日 保科正益より軍務官宛
保科弾正忠 松平容保家来叛逆首謀萱野権兵衛刎首の件
松平容保家来叛逆首謀萱野権兵衛刎首被仰付候付則於弊藩□仕所重仕候
此段御届申上候以上    五月十八日 保科弾正忠 軍務官御中


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09080101200、
軍務官記録諸願窺届留 波11(防衛省防衛研究所)

会津松平家譜では「朝廷保科正益に命じ、萱野長修を斬に処せしめ
其の後を絶たる。実は保科家に於て自刃の方式に依り、武士の対面を
全うせしめたり」と記述している。

萱野権兵衛自刃のとき、藩公の親書及び照姫君の手書を渡したのが会津藩士
梶原平馬と山川大蔵の二人。

明治二年五月萱野大夫首謀ニ付死刑被仰候節祐堂様(容保公雅号)ヨリ御直書に
今般御沙汰之趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候右ハ全ク我等不届ヨリ斯ニ相至候儀ニ候
處立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至り不堪痛哭候扨々不便至ニ候面會モ相成候
身分ニ候ハヽ是非逢度候へ共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段厚心得候事ニ候間
後々ノ儀等ハ毛頭不心置此上為國家潔ク遂最後呉候様頼入候也
五月十六日           祐 堂(忠誠公致仕後の雅号なり)
                    萱野権兵衛へ

扨此度之儀誠ニ恐入候次第全ク御二方様御身代リト存自分ニ於テモ何共申候様無之
気ノ毒絶言語惜候事ニ存候右見舞ノ為進候
五月十六日           照(保科弾正忠正益の姉君にて忠誠公の養姉)
                    権兵衛殿へ
添えられていた一首
  夢うつゝ思ひも分す惜むそよ 
     まことある名は世に残るとも

保科家より権兵衛自刃の介錯を命ぜられたのが飯野藩士澤田武司(武治、武)。
武司は枕毅にして度量あり、撃剣及び柔術を能くす、のち武司、権兵衛の
自刃を「其の人死に臨み従容自若顔色毫も変ぜず平生の如し」と語っている。

権兵衛自刃の際介錯をなし又其前後に深甚なる厚意を致した保科家臣、澤田武の
好意を徳として容保公が贈った一首が平石弁蔵の「会津戊辰戦争」に記載されている。

 何くれと澤田の水の浅からす
        心をつくすほとそうれしき

澤田、常に之を一室に掲げ、権兵衛の命日には必ず香花を供へて其冥福を
祈りたりという。

明治三十一年、報知新聞の記者だった村井弦斎と福良竹亭により編述された
「絵入通俗西郷隆盛一代記」に澤田武司の事が載っていた。

「介錯の澤田氏は今尚ほ存生にして現に箱根底倉にて蔦屋と云ふ温泉宿を営み
居られたが、人に逢ふて当時の事を語る毎に萱野が最後の潔ぎよさを説きて
懐旧の涙にくるると云う」

明治二十三年、箱根底倉温泉旧家の蔦屋を引受けた旧飯野藩士は、
会津藩家老萱野権兵衛長修自刃の介錯をした澤田武司氏その人だった。

今、「そこくらの湯つたや」は戸田氏が昔の「つたや」の良さをそのまま
継承する形で、”箱根七湯伝統の湯治を基本”とした、気軽に立ち寄れる
日帰り入浴休憩施設をベースにした宿として経営を行っている。

  照姫が権兵衛に送った一首は「会津戊辰戦史」による。
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箱根七湯の旧飯野藩士

2010-03-01 | 會津

江戸時代初期の箱根には、湯本・塔之沢・堂ケ島・宮ノ下・底倉・
木賀・芦之湯の七つの温泉が開けていて「箱根七湯」と呼ばれていた。

江戸時代後期の文化八年(1811)、「七湯の枝折」という箱根七湯の
案内書が作られこの浄写本として、つたや本「七湯の枝折」が残っている。

この箱根七湯の1つ、底倉温泉は箱根登山鉄道宮ノ下駅から徒歩10分にある。
この底倉は豊臣秀吉が小田原攻めで参陣の遅れた伊達政宗を幽閉した所で
「底倉深谷の地」と言われていた。


(底倉の蛇骨川渓谷沿いの遊歩道)


この七湯案内本に「宮の下堂ケしまも共に底倉の一郷にして惣名底倉村」とあり、
湯屋は梅屋亦左衛門、蔦屋平左衛門、萬屋伊平衛、住吉屋源右衛門の四軒の
記載がある。浄写本「七湯の枝折」は、この蔦屋に残されていたものです。

(写真中央の橋が八千代橋、正面建物が明治末~大正年間の蔦屋
現在の「そこくらの湯つたや」は蛇骨川の手前南側に在ります)

(現在の「つたや」から八千代橋方向)


今、「そこくらの湯 つたや」として営業しているが、前の経営者が澤田氏。
関東大震災で全館倒壊した実家である箱根底倉のつた屋旅館の復興に
尽力したのが、植物研究家の澤田武太郎。この武太郎の母親は旧飯野藩主
保科正益の娘、建子。この建子の姉が三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の
長男岩崎久弥の妻、寧子。武太郎の妻は「日本紋章学」の著者、沼田頼輔の
四女、吉備子。



「澤田武太郎植物日記解説編」の久内清孝氏故澤田武太郎君追想記に、
「祖父ハ旧飯野藩主、保科家ノ藩士デ起倒流柔道指南役デアッタガ、
明治ノ中葉ニ至リ、故アリテ、箱根底倉ノ旧家蔦屋ヲ引受ケ、祖母ガ
多年経営ニ当ラレタ」とある。

この武太郎祖父という飯野藩士は誰だったのだろうか?(つづく)

旧飯野藩士 澤田武司

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