大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

敦賀 水戸天狗党

2012-01-31 | 掃苔

東京を朝一番で出かけると越前敦賀に8時40分には着くことができるが、1時間程遅くなるが今回も京都駅0番ホームに拘り特急サンダーバードを使って敦賀に向かった。敦賀は水戸斉昭の子一橋慶喜を頼って筑波で挙兵し京都に向かった水戸天狗党終焉の地で、処刑地来迎寺と処刑された武田耕雲斎らの墓を訪ねた。

 

尊王攘夷を唱えて筑波で挙兵した水戸藩「天狗党」は、その志を朝廷に伝えるため京へ向かったが、幕府諸藩に追われ越前に入ったところで、彼らが頼みとした一橋慶喜が討伐の総指揮を摂っていると知り、待ち受けていた加賀藩に天狗党約八百人が投降した。幕府は身柄が移されると苛烈な処罰を行った。敦賀の十六棟の鰊倉に閉じこめ、来迎寺で三百五十三人が斬首された。この時のことが徳川慶喜公回想談に載っていた。「武田耕雲斎が降伏をした。もし助けると言い出すと、とてもちゃんとしているわけにいかない。水戸の奸党の方へ幕府では肩を持っている。どうせ何といっても助かぬのだ。助からぬ者を救おうといい出しても何にもならぬ。それをやると自分自身がやられる。自分の手に殺すということは誓ってできない。そこで加州へ降伏した。降伏だけは承知した。田沼玄蕃が受け取りにきた。降伏した者は今日受け取り申します、お渡し申します、さようなら、それっきりだ。それですぐに首を斬ったとこういうわけだ」こんな相手だとやり切れなさだけが残る。目的や手段方法は別として、天狗党は頼る人を間違ったようだ。

松原神社の入口に神社の由緒案内板があった。

「祭神 正四位武田伊賀守以下四百十一柱 徳川幕府の末葉、勤王の大志を抱き尊攘論を唱えて京都に趣き、素志を貫徹せんと意を決した武田伊賀守他同士達は各地に轉戦しつつ、元治元年十一月大雪の中、新保の地にて加賀藩の軍門に降り、敦賀の鰊倉に幽閉され慶應二年二月斬罪により松原の露と消えた。大政奉還後王政維新明治の聖世となり命等の勤王の大志が天日を見るに至り慶応三年敦賀の修験行壽院が神祇伯白川家の許可を得て院内に諸士の霊を祀り、明治七年十一月水戸の人根本彌七郎が墓地付近に一小祀殿を創建して松原神社と穪し、大正四年十一月現在地に御造営竣功し、白砂青松の浄域に御霊代を奉還、永く英霊の鎮り座すこととなった」

 

  

この神社の向側に武田耕雲斎等の墓地があり、敦賀水戸烈士遺徳顕彰会による説明で「武田耕雲斎等の刑死」として第一回処刑元治二年二月四日武田耕雲斎以下二十五人、第二回処刑仝年二月十五日秋山又三郎生元以下百三十四人、第三回処刑仝年二月十六日濱埜松次郎忠正以下百三人、第四回処刑仝年二月十九日綿引誠一郎忠保以下七十五人、第五回処刑仝年二月二十三日朝倉三四郎景敏以下十六人、合計三百五十三人とあり、此の墓地は当地の刑場にして遺骸を埋めて土盛り方十二間高さ八尺、西面して十五基の墓が建てられている。

 

 

  

 

墓域の中には刑死の353名の姓名が刻まれた墓が十三基、病死31名、討死21名の姓名が刻まれた墓が各一基、計十五基の墓標がある。

 

天狗党の処刑が行われた来迎寺。

 

 

敦賀 天狗党墓域名簿

 

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敦賀 天狗党武田耕雲斎等墓名簿

2012-01-31 | その他

敦賀天狗党墓域略図

 

1、武田伊賀守、朝倉源太郎、井田平三郎、川上清太郎、川瀬専蔵、國分新太郎、須藤敬之進、瀧平主殿、竹内百太郎、武田魁介、武田彦衛門、田丸稲之衛門、内藤昇一郎、根本新平 長谷川通之介、畑弥平、藤田小四郎、前嶌徳之介、三橋半六、村嶋萬次郎、山國淳一郎、山國兵部、米川米吉、高埜長三郎、

2、相田健之介、青木孫之允、安掛藤十、安藤繁之介、安藤政之介、□津木七之介、大内雄之介、小沼弥一郎、梶山敬介、加藤木雄之介、亀山大介、川嶋森之介、栗飯原久七、栗飯原留吉、小貫藤介、小沼栄介、佐々木鉄之介、高橋辰三郎、寺門周吉、藤田秀五郎、宮本安五郎、横田藤四郎、築井右門、中崎真介、

3、浅山一寿、安嶌鉄次郎、飯村晋三郎、梅川竹四郎、小澤辰之介、加藤柳之助、金澤啓蔵、唐津俊蔵、北川元三郎、楠帯次郎、篠原造酒蔵、関雄之介、高木徳右衛門、田邑源太郎、塚原五郎、中庭力蔵、萩原造酒之介、平山良太郎、松崎熊之介、宮本孫四郎、森兵五郎、山口庄介、大嶋新介、立花新吉、

4.石嵜彦作、磯部春之介、今野勇、鹿島盥、樫村平太郎、加藤積次郎、兜宗介、栗田源左衛門、小嶋重次郎、小松崎荘之介、坂本源介、笹目福次郎、笹目平三郎、嶌田文右衛門、関口熊五郎、高橋一楽、瀧広次、武井惣吉、堤三次郎、難波源之進、幡谷善七、平山藤之介、藤田平太郎、松原彦兵衛、三鴨善七、森寅松、山田才介、米川又蔵、綿引誠一郎、定之介、

5(病死)、渡邊霞湖介、後藤子之吉、橋本彦三郎、梅原喜作、猿山又三郎、松本富蔵、内田藤吉、宇佐美孫兵衛、沖藤良之介、小栗重蔵、伊藤久蔵、箕輪圓次、石川治介、中村惣兵衛、上田藤□郎、岡田主水、田口儀八郎、小林久次郎、朝田啓三郎、石上佐介、栗飯原三蔵、塩嶌□左衛門、□邊庄吉、高井伊兵衛、山崎定介、横山甫右衛門、今泉丹次、福田為之介、庄司常三郎、大和田熊吉、福田國太郎、

6、高松與四郎、秋野源兵衛、飯田定五郎、大越小市、大谷包太郎、大出大介、鹿嶌茂兵衛、木内真五郎、栗俣新次郎、黒澤利八郎、小森好右門、佐川捨五郎、高橋鎌太郎、林由之介、渡邊金次郎、市郎、源介、定吉、庄三郎、清七、清四郎、清介、彦蔵、

7、浅野善十郎、飯島喜介、石井蔵之介、石川甚五郎、石嶋秀之允、岩戸常蔵、内野啓兵衛、岡野彦四郎、岡山藤介、刑部熊太郎、片岡武左衛門、片波見善一郎、金平與三右門、金輪清之介、香内彦三郎、小嶋彦次郎、小林勇次郎、坂本啓介、佐野信一郎、茂木浅吉、關友七、中村延之介根本熊太郎、萩野利兵衛、前嶋雄三郎、箕輪又次郎、望月義太郎、森山藤衛門、吉川忠蔵、吉川半兵衛、

8、青山新太郎、飯島與三郎、石井宗介、大久保信之介、大久保半七、大關弥平、加藤政介、鴨志田伴七、小橋新作、斎藤安之進、坂東蔵、櫻井辰之介、佐々木久介、佐山覚之進、鈴木信蔵、高橋元次郎、武田孝蔵、武田春吉、田中重蔵、長谷川幾之介、服部庄介、福田誠一郎、藤田中務、星彦吉、武藤宇兵衛、邑上栄五郎、野牛熊吉、山田龍之進、横田弥四郎、吉田藤蔵、

9、井坂貞蔵、大津雄太郎、大和田外記、大和田秀次郎、春日秀太郎、亀山祐衛門、川崎鉄之介、川澄鬼平、木村雄六、近藤伴蔵、酒井八三郎、佐々木重蔵、白須伊平太、関口直次郎、關登一郎、千葉貫一郎、直本藤平、中村清之允、中村東一郎、埜木久次郎、野口主馬、富士申十郎、本田巳之太郎、宮田勝三郎、宮本清蔵、森真之介、森庄三郎、森誠八郎、横田藤十郎、寄金真次郎、

10、飯泉芳之介、石井政之允、伊藤與十郎、内山小六、大分太介、大塚亀次郎、岡部仙介、小川新三郎、加固新太郎、加藤本宗吉、楠要介、清水八次郎、谷村與左衛門、都賀厚之介、永田兵介、成井藤九郎、原田武左衛門、深谷四郎、藤田啓介、三田徳兵衛、渡邊雄之介、右門、大崎新蔵、黒澤八郎、小松主殿、斎藤太介、霍田善五郎、寺門善次郎、原辨之介、渡邊直次郎、

11、伊介、吉兵衛、銀蔵、蔵介、啓一郎、孝太郎、貞七、真介、定蔵、重四郎、七蔵、清吉、清三郎、惣次郎、宗八、忠介、長吉、長次郎、藤四郎、徳兵衛、兵介、又介、道之介、安兵衛、與三郎、良介、定吉、留吉、鎌次郎、吉兵衛、

12(討死)、藤咲源三郎、石橋彦七、大久保重次郎、福田三右門、飯田忠四郎、戸牧孝蔵、豊田彦之丞、菊池鼎次郎、大津彦之丞、野村丑松、大江雄之介、青木源八、石川茂三次、武石良之介、大曽根繁蔵、根本兵介、浅野彦喜、片岡源次、田邑長右衛門、加藤栄次郎、小嶋新作、

13、荒井辧次郎、上野六兵衛、大高要介、岡野亀太郎、小田部十兵衛、川俣清左衛門、菊池忠兵衛、桐山伊介、久保田久蔵、栗又鉄之介、小泉芳之介、坂本勝次、櫻井茂介、高橋庄五郎、田中三之介、多邑右三郎、堤清八、坪山源介、永井小四郎、中埜平介、登戸藤之介、萩谷庄三郎、二方舎人、本田作久之介、本間信三郎、溝口太三郎、山口四郎左衛門、山本儀平、渡邊久介、富谷徳三郎、

14、石神三次郎、伊能彦八郎、小今田平介、小岸亀吉、鬼澤熊次郎、小埜馨之允、加藤庄吉、川嶋五郎、河津丑之介、神田宗介、澤田信之介、高瀬秀之助、高崎新兵衛、土子竹次郎、寺門左右吉、富川虎三郎、内藤利兵衛、萩津甚兵衛、前嶌武次郎、皆川亀松、宮崎安五郎、山口新介、山澤啓介、羽黒□之介、

15、秋山又三郎、阿久津小太郎、朝倉三四郎、安藤彦之進、市毛孝之介、岩間久治郎、小野藤五郎、木邑園三郎、桑屋元三郎、小泉虎次郎、下埜廉三郎、杉山弥一郎、鈴木秀太郎、芹澤助次郎、庄司與十郎、高橋市兵衛、瀧口六三郎、玉造誠之進、中村親之介、萩谷金次郎、濱野松次郎、檜山三之介、平埜重三郎、前木六三郎、

 

注1、11の墓に吉兵衛という名が2名あり、同一人か別人なのかは不明、本表では2名としてカウントしている。処刑353名、病死31名、討死21名、計405名

注2、この名簿は敦賀武田耕雲斎等墓の写真から姓名を転記したものですが「真と貞」「庄と荘」「三と五」等、異体字も混ざり判別が出来ず誤写もあるかと思いますので、その時はご勘弁頂きたいと思います。

注3、2中崎真介、5山崎定介、10大崎新蔵、14宮崎安五郎、4名の崎は旧字

 

敦賀 水戸天狗党

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長浜のお寺さん

2012-01-17 | 

余呉から京都に向かう途中、長浜駅で下車、お寺さんを何軒か廻った。最初に訪れたのは長浜駅の北へ徒歩10分位にある長浜城の搦手門を移したという山門がある宝生山勝安寺知善院(長浜市元浜町)。本堂には阿弥陀三尊を祀られているがお目当ては重文の十一面観音坐像。残念ながらここは撮影禁止で観音様のお写真はなし。

 

 

知善院から車で6,7分位にある長浜最古のお寺という日出山神照寺(長浜市新庄町)に廻る。ここには法会のとき華を盛り本尊様に散華の供養に用いられる皿である金銀鍍透彫の華籠(国宝)と秘仏木造半肉彫千手観音立像(重文)が祀られている。

 

 

知善院で赤い六瓢箪という幟があるのに気が付いた。「むびょうたん」「むびょうたん」と会話の中で何度か出てきてなんだろうかと思っていた。六瓢箪とは長浜城主だった秀吉が合戦の旗印として千成瓢箪を掲げ、戦いに勝つ度に瓢箪を加えたという。この故事から瓢箪六つで「むびょうたん」、「六瓢箪」は無病息災のお守りとして、さらに蔓が伸びて果実が鈴なりになる事から、開運招福・子孫繁栄の象徴ともされ、六瓢箪めぐり(神照寺、八幡宮、知善院、舎那院、豊国神社、総持寺)で瓢箪を6つ集めて六瓢箪、なるほどね~。

本堂や大広間などが伏見城の遺構とされる別名「長浜の御坊さん」、無礙智山大通寺(長浜市元浜町)に向かう。このお寺の山門や大広間の大きさにビックリして廻っているうちに境内の西側にあった旧長浜城の追手門と伝えられる脇門(台所門)に気が付かなかったのは心残りだった。この扉金具の裏には天正十六年(1588)の銘があるという。

 

 

 

  

残りの時間もあまりなかったが宮前町の六瓢箪寺の一つ、舎那院(長浜八幡宮別当寺)にも寄ったが、ご住職が不在で本堂には入れなかった。

 

駅前の豊国神社にも寄りたかったが時間がなく、京都駅に向かった。

 

 

奥びわ湖の観音さま 

 

 湖北の観音路

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奥びわ湖の観音さま

2012-01-12 | 

通勤客に混ざって湖西線を使って京都から永原駅に向かう。途中までは学生で賑わっていたが永原に着くころには誰もいなくなった。東側の対岸が見えると思ったら20キロ近くあるそうでお日さまが現れたらまるでどこかの海岸線を通っているみたいだった。やはり琵琶湖は大きい。永原駅のホームは高い所にあり、高架駅だと思い、長い階段を下り改札を出て見上げると何か土手の上にホームを乗っけたような変な造りの駅だった。二日目は永原駅の近くの西浅井町山門地区からスタートした。

 

 

 

和蔵堂(善隆寺・西浅井町山門)十一面観音菩薩は頭上に頂上仏面と10の化仏を配した一本作りで平安時代後期の作という。

 

山門地区の公民館(西浅井町山門)で今回の旅で初めて馬頭観音菩薩に出会った。この地区に馬頭観音が多く祀られていることは古より都と北陸を結ぶ道として物資の輸送の多かったことを物語っている。ほとんどの観音様は穏やかな表情なのに対し、馬頭観音は目尻を上げ、髪は逆立ち、怒ったお姿なのは何に怒っているのだろうか。

 

 

 

 

普門山徳円寺(西浅井町庄)馬頭観音菩薩はこのお寺のご本尊で足指を揚げ踵で立っている珍しい立像で、堂内で同じように真似をしたが指先はまったく上らなかった。

  

腹帯観音堂(西浅井町大浦)十一面観音菩薩はびわ湖百八霊場、また湖北二十七名刹霊場の第六番に指定され、安産祈願の観音として多くの信仰を集めており、皇室からも腹帯祈願を求められた観音様として有名。

 

 

白木山地蔵堂(余呉町川並)聖観音立像は琵琶湖の北端にある周囲約6、4キロの余呉湖、その西岸の集落が川並、そこに、地元の人に白木の観音様と呼ばれている観音が川並地蔵堂に祀られている。

  

久澤山全長寺(余呉町池原)全長寺境内観音堂に、池原村別所山上にあった別所万福寺の本尊であった馬頭観音菩薩像が安置されている。全長寺は賤ヶ岳合戦で柴田勝家の身代わりにとなり、討死にした毛受兄弟の菩提寺で大きな達磨画が有名。

 

 

光勝庵(余呉町国安)片岡山安養寺十一面観音菩薩は現在、光勝庵に収蔵されている。安養寺は神仏離廃令により破却、廃寺とされ円通庵に遷仏、さらに明治九年に円通庵から光勝庵に遷仏され、この観音像は国安の「氏仏」として地区の六斎と呼ばれる人達によって交代で光勝庵を管理している。

  

余呉駅から長浜駅へ

 

  湖北の観音路

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湖北の観音路

2012-01-09 | 

琵琶湖周辺の村落に観音さまが沢山あると聞いていたが、村落毎にこんなに多くの古い観音様が信仰の対象として残っていると思わなかった。しかし信仰するということは、地域の人々の内において頼らなければならない何かがあった訳で、観音信仰は法華経の「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、衆生を救うために観音菩薩を唱えると、称名者に応じて観音は三十三の姿に変身して救済すると説かれている。各人が深く観音を信じ自分の願いを観音に向かい祈ると、その願いに応じて、仏や毘沙門、長者や童目天女となって姿を現し現世で目的を達成できるとするが、長い歴史のなかで、争いなのか、飢えなのか、その頼らなければならない何かが分からないまま湖北の高月・木之本にある観音様を廻ってきた。

スタートは高月駅から始めた。高月には京都0番線から1度乗車したかったので「ワイドビュ-ひだ」で米原に出て北陸本線で高月駅に出た。

    

最初は天平時代の秦澄作の仏像と伝わる国宝でもある渡岸寺観音堂(向源寺・高月町渡岸寺)十一面観音菩薩から。肉感的で腰を軽く左に捻ったお姿は官能的でもあり美しい。

 

  

 

西野薬師堂(充満寺・高月町西野)重文・十一面観音菩薩はふっくらとして穏やかで堂々とした重量感のある観音様だった。

 

湖東山正妙寺(高月町西野)十一面千手千足観音菩薩はかっての豪族の奥方の守り仏と伝わり、千本の手と足を持つ忿怒相の観音様は全国で唯一とのこと。

   

唐喜山赤後寺(高月町唐川)重文・聖観音菩薩・千手観音菩薩、長年秘仏であったが昭和四十四年に重文に指定されてから一般公開されるようになった。本尊はコロリ(転利)観音として親しまれている。

   

己高山石道寺(木之本町石道)重文・十一面観音菩薩、平安後期の作で、かたく結ばれた唇にほのかに残る紅色と眉目流麗な御姿をしている。

    

己高閣・世代閣(木之本町石道)重文・十一面観音菩薩、県指定・魚籃観音菩薩、いずれも紅葉の名所で知られる鶏足寺の参道上り口にある文化財収蔵庫の己高閣・世代閣に収蔵されている。

    

紫雲山医王寺(木之本町大見)重文・十一面観音菩薩、本尊は一本彫で、閉じているようなやさしい目がやわらかなお顔立ちを感じさせている。

 

霊贋山観音寺(木之本町黒田字保崎谷)重文・千手観音菩薩、伝教大師の作で千手観音像と伝わるが、説明では形姿から諸菩薩の母、准胝観音像とあった。

  

帰りは木ノ本駅から新快速で京都へ。

 

奥びわ湖観光連盟発行のパンフレット「奥びわ湖観音路」を参考させてもらった。このパンフレットは奥滋賀にある観音様の24の写真、56のお寺と地図の記載があり観光パンフレットのなかでは秀逸。無住職のお寺もあり前もって予約が必要な所があるので注意が必要。

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