大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

京都妙心寺塔頭 桂春院と大心院、大雄院

2019-04-24 | 

妙心寺には北総門から入る。塔頭の特別拝観は10時からだという。妙心寺の東側の小道は人通りも少なく、筋塀で無ければ、まるで武家屋敷にタイムスリップした感じになる。太秦が近いせいか時代劇の気分が味わいたくて、塔頭のある路地に行ってみた。
 
途中、史跡名勝天然記念物に指定された通年公開している桂春院庭園があった。
 
 
桂春院は慶長三年(1598)、織田信忠の次男、津田秀則創建した見性院を寛永八年(1631)、旗本石河貞政が、父光政五十年忌に桂南和尚を講じて桂春院と改める。ここの庭は、文化庁の説明によると「徳川初期ノ作ニシテ方丈ヨリ書院前ニ亘ル方丈ノ正面ハ南ニ向ヒ地形低下シテ狹ク斜面ニつじヲ刈込ミ平地ニハ庭石ヲ七五三ニ置キ石燈籠トもみぢ、さくら、もくせい等ヲ配シ生垣ヲ以テ背景トナス 方丈ノ東部ハ土地ニ高低ヲ作リ樹間ニ飛石ヲ巧ニ排列シもみぢ、あせび等ノ小樹ヲ添植セリ幽邃ナル庭園ナリ」という。お寺でいう方丈の東側に広がる「思惟の庭」と方丈南側にある「真如の庭」を指しているのだろうか。
 
 
桂春院から通年公開している大心院へ向かうと、桂春院のお隣の大雄院の門前に10人ほど並んでした。最後尾の人に聞いたら、特定の日に人数制限で御朱印を受け付けるという。10時から受付という事で先に大心院に行く。
 
大心院は寺伝によれば、文明十一年(1479)、開基細川政元、勧請開山は景川宗隆(妙心寺十世住持を務め、妙心寺四派の一つである龍泉派の開祖)として上京区大心院町に創建。のち細川幽斎により妙心寺に移転、龍泉派に属する。ここの方丈は蒲生氏郷孫の忠知が大心院七世嶺南和尚に帰依し建立したものだという。
 
 
 
庭の「阿吽庭」は通称で正式には方丈東庭と言い、長方形の枯山水庭園で三尊石を中心にして、築山の下は州浜形の曲線で白砂に変化を持たせ、十七個の岩を配して調和を取っているという。厩戸皇子が作ったとされる十七条憲法、十七回忌など十七という数に何か意味があるのだろうか。東庭のほかに本堂南庭「切石の庭」というのがあった。御朱印受付が10時からというので急いで5分前に着くよう、大雄院に向かう。
 
 
10時前なのに門前に誰も居ない。慌てて庫裏に向かう。室内には20人ほどの人が順番を待っていた。御朱印を頂くのに1人、15分ぐらい掛かるという。郵送をいらいする人もいたので、11時30分過ぎには出来ていると思うと云われる。このお寺は毎回、色々な御朱印を出しているようで、今回は涅槃の御朱印でした。

いつも数限定、期間限定という言葉に弱いが、本来の御朱印とはかけ離れてきたような気がする。大雄院は慶長八年(1603)、石河光元の嫡男光忠(尾張家臣)が父の菩提を弔うために創建、慧南玄譲を開祖とする。光忠の生母亀はのち徳川家康の側室(相応院)となり八男仙千代と尾張名古屋徳川家藩祖の九男義直の生母です、旗本石河貞政の父光政と尾張家臣石河光忠の祖父光重(家康家臣のち尾張直義に附属)は兄弟だという。

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妙心寺塔頭 退蔵院

2019-04-17 | 

退蔵院は通年公開しているので何度か訪れた。10年ぐらい前、秋の夜に退蔵院に尺八と琴の演奏を聴きに行った。
 
また、東林院も7.8年前に「小豆粥で初春を祝う会」に参加させてもらった。
 
非公開寺院の特別公開も毎年のように開催していると何か有難味が薄れてくるような感じがする。江戸時代の妙心寺領は塔頭分を含め四百九十一石余(元和元年、1615)とある。一石は大人一人が一年に食べる米の量だという。妙心寺当住領の石高が約八十八石、退蔵院が約七十五石、養源院が約四十二石、最も少ないのが聖澤院の約八斗(0.79石)。明治四年、社寺領上知令によりに寺領が廃止され全て政府に帰属し、寺の宗教活動及び経済活動に大きな影響を及ぼした。妙心寺とその塔頭寺院もおおきな墓域があるわけでもなく、全国の末寺への賦課金を課しても経済的に大変なのは変わりないところだと思う。妙心寺の塔頭や末寺は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の四名を派祖として「四派」分かれ、龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院を四本庵と呼び、①美濃正願寺、②尾張瑞泉寺、③龍泉庵、④東海庵、⑤霊雲院、⑥聖澤院を由緒寺院六ヶ寺として本派寺院の首班に置いている。塔頭寺院については、①天授院、②退蔵院、③養源院、④如是院、⑤衡梅院の順位で祖塔微笑庵(開山堂)に次いで推尊せよとしている。
2018年冬の特別拝観は天球院、麟祥院、龍泉庵の三寺であったが、時間が早かったので通年公開されている退蔵院に行く。
 
退蔵院は国宝「紙本墨画淡彩瓢鮎図」と「元信の庭」と呼んでいる枯山水庭園が名勝史跡記念物に指定されている。
 
瓢鮎図の原品は京都国立博物館に寄託され模写したものが展示されている。
 

如拙による日本最古の水墨画で、瓢箪で鯰をどうして捕らえるかという禅の公案(問題)を描いていて、上部に大岳周崇の序と禅僧三十一人による画賛がある。元は足利義持の「座右小屏」の表裏に絵と賛がそれぞれ表されていたものだという。この公案と賛は何を云っているのか意味不明で、まったく理解できなかった。参考に第一偈から第三偈まで挙げてみた。
(周崇)
用活手段瓢捺鮎
留更欲得妙重著
滑油
(梵芳)
瓢壓鮎尾可以羹之
奈何無飯欲把沙炊 
(妙冲)
一瓢因甚欲捺鮎魚
江湖水濶道術有餘
禅問答の珍重、万歳の世界は難しい。大辞林に禅問答「何をいっているのかわからない難解な問答」というのがあった。解らないのが普通なのだと安心する。
 
 
もう一つの庭「余香苑」。

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京都 不動堂町

2019-04-10 | 

京都駅近辺で居酒屋を検索すると北不動堂町にある「きさいち」という店がいつもヒットする。一度は訪れたいと思っていた。予約の電話を掛けた。男性が出たが、店の名前が違っていた。謝って電話を切った。店の名前をよく見たら自分が「さきいち」と誤って覚えていた。気を取り直して再度、連絡する。今度は女性が出たので助かった。この店は、泊まっているホテルと京都駅を挟んで反対側にある。堀川通りから向かう。京都駅付近で初めてJR線の下を潜った。「きさいち」への途中道祖神社の横に「新撰組まぼろしの屯所」の提灯を下げたお堂があった。
 
 
不動堂明王院と言い、浄土宗西山派のお寺だという。宇多天皇のとき、東七条御所(亭子院)に弘法大師が石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置した霊石不動を祀られたのを起源とし、現在も井底に封じられ誰も直々に拝したことが無いという。代わりに本堂に不動尊が安置されているが、内陣が暗くて何が安置されているのか分からなかった。新撰組が西本願寺の屯所から替わった三番目の屯所が不動堂村近辺だったという。正確な場所などは分かっていないが、この辺りではないかと考えられているという。
 
近くの「京湯元
ハトヤ瑞鳳閣」の角に「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」の石柱があり、歴史地理史学者という人の説明に「場所は宮川信吉の書翰に七條通り下ル、また永倉新八手記に七条堀川下ル」とあり、さらに「厳密な場所や規模・構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません云々」とあった。価値の低い記録ってなんだろうか。史実と虚構を区別し、史料批判が出来るかどうかが肝心だと思う。堀川通りを越えたホテルの駐車場入口にもう一つ「新選組・不動堂村屯所跡」という石碑があるという。なにか本家争いみたいな感じがする。幕末、紀州の医者、羽山維碩が情報を纏めた彗星夢雑誌に「此節京都へ相登り侯人に風評承知仕候処浪士千石其手下大勢東寺近辺に屋舗相構へ」とあり、幕末の改正京町御絵図細見大成をみると、ふ動堂丁の南側に大きな畑(空地?)が南側の伏見稲荷御旅所まであるので、その間に屯所があったのだろう。
「きさいち」の店近くまできたが、店が見つからない。路地を入っていくと、小さな祠があり、それらしき店がない。傍で立ち話をしていた人に聞いたら、指をさしてこの家の反対側が入口だという。私有地みたいな路地の奥に店があった。
 
店を探しながら歩いている途中、キョロキョロしながら歩いていた3人組とすれ違った。後からこの3人組も店に入ってきた。今日のお勧めメニュウーの一番上にトラフグがあった。主人から量が多いから2人で大丈夫と聞かれたが、フグ刺なら大丈夫と頼んだのが大失敗だった。食べても、食べても刺身が減らない。ふぐ刺でお腹が一杯になったのは初めてだった。
 
 
 
ツブ貝、ウニ、生ガキを頼むのが精一杯で、フグ唐揚げが追い打ちをかける。おかげで、酒がほとんど飲めなかったのは残念だった。

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仁和寺

2019-04-03 | 

仁和寺の東門から入った。非公開文化財特別公開拝観料は奥で払って下さいと云われる。龍安寺から歩いて来たので疲れた。そのまま南にある仁王門から出てホテルに帰ろうかと思ったが、観光客が殆どいなかったので、特別公開だという金堂・経蔵に向かう。
 
 
仁和寺は宇多天皇が光孝天皇の遺志を引継いで仁和四年(888)、完成させ、元号から「仁和寺」とした。その後、宇多天皇は阿衡の紛議や昌泰の変等により嫌気がさしたのか、出家し仁和寺初代門跡となり仁和寺伽藍の西南に御室(御座所)を建て住んだので「御室御所」の別称がある。応仁の乱が勃発、「碧山日録」応仁二年(1468)九月四日の條に「東兵焼北山仁和寺正印之悟蔵司来説寺中西兵擾乱」とあり、仁和寺に陣を構えていた西軍に東軍が攻撃を加え、兵火により堂宇すべて燒失し、宣胤卿記によれば「それ以来、仁和寺は御室始め悉く荒野なり」と嘆くほど荒廃した。寛永十一年(1634)、第二十一世門跡覚深入道親王(後南御室・後陽成天皇第一皇子)の時、徳川家光の寄進によって再建が進められた。この時皇居造営の事があり、朝廷からも紫宸殿、清涼殿、御御殿、唐門等数宇を賜り移築した。幕府はこの時の費用として金廿四万両を寄進している。明治二十年、宸殿、黒書院、勅使門等焼失し、明治二十三年から再建を開始し、現在に至っている。寛永の時、朝廷から下賜された紫宸殿は金堂に、御影堂は清涼殿の材料を使用して作られた。金堂(国宝)は壁に極彩色の浄土図が描かれ本尊の阿弥陀三尊像や四天王像、帝釈天像などが安置されている。堂内の須弥壇の裏にある五大明王壁画が見られなかったのは残念だった。重要文化財の経蔵は、寛永十八年(1641)に再建された「天海版一切経」を納めるお堂で、中央に摩荷車の親玉みたいな八角形の回転式輪蔵があった。
 
(2007年、春の御室桜)
 

   
金堂と仁王門の一直線上の中間に中門がある。金堂と仁王門を結ぶ直線は真南を向いているかと思ったら、気持ち西に向いている。延長線上に何があるのかと思ったら双ヶ岡古墳群がある三の岡(一の岡、二の岡、三の岡)にぶつかった。この双ヶ岡はもとの仁和寺の寺領だったが、昭和53年、一部京都市が公有化して公園として整備している。仁和寺はこの双ヶ岡の埋葬者となにか関係があるのだろうか。一の岡東麓にある長泉寺に吉田兼好の墓がある。双ヶ岡は兼好の隠棲した地と伝わり、一説には、この地で「徒然草」を書き上げたと伝わる。徒然草と云えば、その五十二段に仁和寺の法師が山麓の極楽寺・高良神社を石清水八幡宮の本殿と勘違いしたという失敗談を載せている。五十二段、五十三段、五十四段すべて仁和寺の法師の失敗談を載せている。なにか仁和寺に遺恨でもあったのだろうか。人の平均移動距離は一日十里(40km)として、仁和寺から石清水まで直線で16k、徒歩で真っすぐ南下して、桂川沿いに歩き、桂川か宇治川を渡り石清水山麓まで地図上の徒歩距離だと17kから20kある。往復を考えると仁和寺から山麓に着いてすぐ戻っても十時間近く掛かることになる。勅願寺である仁和寺の法師が都の裏鬼門にあたる石清水八幡宮の本殿の場所を知らないことはあり得ないと思う。「神へ参るこそ、本意なれ」というのであれば、なにも山頂に行かなくてもよいわけで、この五十二段は「少しの事にも、先達は、あらまほしき事也」という単純な話では、ないのではないだろうか。

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