大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

虎に翼(三淵家の事)

2024-03-19 | 小田原

朝はお茶を飲みながらNHKの朝ドラをボ~としながらみている。家人が4月からの新しい連続ドラマは「虎に翼」だという。翼のある獅子と、どちらが強いかと馬鹿な話をしながら、誰の話かと聞いたら、なんでも小田原にいた三淵という名の女性裁判官の話で、何日か前の新聞に出ていたという。小田原で三淵氏と云えば戊辰戦争で責任を負い自刃した会津藩家老萱野長修の弟、三淵隆衛一族の事だと思った。慌てて新聞を探した。朝ドラ主人公のモデルは日本初の女性裁判官(東京地裁判事補)で隆衛の子、初代最高裁長官三淵忠彦の長男乾太郎後妻の三淵嘉子だと云う。
小田原三の丸ホールに写真パネル約10点、展示しているというので飛んで行った。以前、住んでいた近くの橋の架替え工事が平成18年(2006)に始まった。近くに会津藩江戸下屋敷があり、この橋が昔、肥後殿橋と呼ばれていた。近くのお寺には江戸で亡くなった会津藩士の墓碑が多く在ったが、年を追うたびに継承者が途絶えたのか、会津に改葬したのか、東京のある藩士の墓が無縁墓地として処分されてきた。今、残っているだけでも画像に残そうと「会津いん東京」というサイトを立ち上げた。諸士系譜や明治過去帳、東京掃苔録等を参考に東京にある会津藩士の墓標を探し回った。平成18年(2006)、新宿の正受院を訪ねた。ここ正受院は会津藩主松平容保公と二人の子供が大正六年(1917)、会津の院内に改葬されるまで埋葬されていた寺院で、何名かの会津関係者の菩提寺でもあった。ここに在るという三淵家の墓域を探したが、それらしき場所に見当たらなかった(現在ある湯河原出身の俳優、船越家の墓碑付近だったと思われる)。どこに改葬したか、お寺の若い僧侶に尋ねたが、分からないとのことだった。静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、偶然白虎隊にいた西川鉄次郎のことを知った。新聞で昭和七年六月一日付、西川鉄次郎の葬儀広告を見つけた。葬儀が小田原板橋の興徳寺で行われたのを知り、興徳寺を訪ねた。住職の話では西川という檀家さんいないとの事とのだったが、近所に偉い裁判官が住んでいたと教えてくれた。小田原板橋地区のお寺を端から西川家の墓を捜し回った。偶然、広徳寺のお隣のお寺、霊寿院で見つけたのが新宿正受院から改葬された「三淵家の墓」で、しばらく立ち竦んでしまった。今年、近くの本屋の店頭で復刻版、三淵忠彦著「世間と人間」を販売していた。この随筆集の事は、北海道教育大学教授佐野比呂己氏による「教材 ろくをさばく考(三淵忠彦中心に)」で、存在は知っていたが、古本でも見つからなかった。「世間と人間」の中の「ろくを裁く」が昭和三十年(1955)発行の柳田国男監修高等学校国語教科書に収められている。忠彦が斗南藩所有の西洋型風帆船(栄丸、安渡丸)の操船技術を教えた軍艦運用石渡栄次郎の子、敏一の家に寄宿していたのを知って驚いた。「虎に翼」とは、強いものにさらに威力を加える例えだと云い、原典の韓非子難勢篇に「勢者便治而利乱者也、故周書曰、毋為虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之」とある。四文字熟語でいえば「爲虎傅翼」(虎の為に翼を傅(つ)く)で、五文字熟語では「毋為虎傅翼」と毋(なかれ:毋は母と別字)と否定の助詞が付いて、虎に翼を付けてはならぬと周書にあると韓非は云う。翼のある虎は人をえらんで食うとある。逸周書·寤儆解三十一篇では「無為虎傅翼、將飛入邑,擇人而食」とある。NHKの連続ドラマ「虎に翼」の作者吉田恵里さんが意図したタイトルとは少し意味合いが異なる様に思うが、どんなドラマになるか楽しみが増えた。いま小田原板橋に残っている三淵邸は甘柑荘と名付けられ保存会が設立されている。

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小田原 徳川家康陣地跡の碑

2024-03-12 | 小田原

箱根登山バスの小田原今井バス停のすぐ近くに徳川家康陣地跡への入口があり、60mほど入った所に今井権現神社と「神祖大君営趾之碑」がある。


今井の御陣場跡(現小田原市寿町4)は新編相模国風土記稿に「今村民市郎左衛門が宅地是なり、濶東西一町半、南北二町餘、廻りに土手あり、(高一丈餘、鋪八間)其外に堀蹟あり、(幅十二間餘、今は水田なり)又西南の方數十歩を隔てば、惣構の土手蹟あり、(今は田間の小徑となる)東の入口を御馬入場と唱へ、西の出口を御馬出し場と呼り、又東入口の外、南に寄て御馬立場蹟あり(今は陸田なり)此地は市郎左衛門が祖、柳川和泉守泰久、住居せし時、天正十八年、東照宮御出陣に、彼が宅地を御陣所に定められ、百餘日御滞留あらせられし御舊蹟なり云々」とある。

今井権現神社の中に葵紋を付けた甲冑すがたの座像が安置されていた。「御陣場蹟の構内西方に在、御躰は、幣束及尊影(御甲冑卯を著し給ふ、)を安置し奉れり、是は元和三年、和泉守泰久の子、忠兵衛と云者、御舊蹟たるをもて、御宮を造立し奉ると云、其頃松平右衛門大夫正綱・伊丹播磨守康勝、参拝し御宮造立の由緒を尋問せしに、忠兵衛巨細に言上せしかば、聽て、台徳院殿の高聽に達し、(市郎左衛門家蔵、寛永中正綱が寺社奉行安藤右京進重長、松平出雲守勝孝への書翰に、先年小田原御陣の刻、權幻様御陣場の御屋鋪、今井と申候所に、忠兵衛と申百姓、御ほこらを建守護いたし罷在候、其子、台徳院殿様御耳、奇特成事をいたし候と被仰出、其場所高二十石餘拝領申候と見ゆ)同八年、領主安部備中守正次へ、御宮御造營の事を命ぜられ、御本社(三尺に二尺五寸、)覆殿(二間に一間半)御拝殿(三間に二間)等落成す、此時、御宮地(方十二間)大門(長二十間、幅二間)の間數をも定らる、其後元禄十六年、地震の時、御宮破損せしかば、市郎左衛門の家にて、假に御本社(三尺に二尺五寸)覆殿(二間に三間、拝殿は造込なり)を造立し、今に至る、稲葉丹後守正道、領主たりし頃、御太刀馬代を献備して参拝あり、」と新編相模国風土記稿に東照宮御宮の記載がある。神社の横に「神祖大君営趾之碑」がある。

この碑は天正十八年(1590)の小田原合戦で徳川家康が布陣した場所に、小田原藩主大久保忠真が天保七年(1836)九月に造立したもので、碑文は大久保忠真、揮毫は儒学者で書家でもある藩士岡田左太夫光雄
による。

碑文

神祖大君営趾之碑

相模国足柄下郡今井邨
神祖大君営趾碑
      従四位下侍従加賀守小田原城主大久保忠真製文并題額
天正庚寅豊閤小田原之役   我神祖大君率師援之従間道踰箱根陥新荘足柄鷹巣三城遂軍
于酒勾十一世祖七郎右衛門諱忠世與其子相模守諱忠隣共従戒行忠隣子加賀守諱忠常別陪 
台徳大君軍営時年十一歳是役也諸将皆陣于箱根而   大君獨保今井一色海濱當時有柳川
和泉泰久者居今井邨   大君據其宅地権設営壘其遺趾今尚存焉一色邨中有一柵壘亦當時
忠世所築今為邨長四郎右衛門宅地家蔵刀匠康春鍛造刀一口並古鏡一面伝為刀忠世所与鏡春
日局所與云営趾之東北繞酒勾川四方有塁高丈餘遶壘有塹今為水田西南行数十歩有城脚今為
畛畦有地稱御馬入口有稱御馬出口又有稱御馬立場有一松稱御幟桂松在 祠之南偃盖老蒼龍
鱗挺秀其為當年物不容疑也又有一松稱御馬繋松蓋旧株朽頽後更裁新株以標其処耳泰久之子
称忠兵衛元和三年私就営壘剏   大君祠焉事 聞八年 官因 命改造焉至寛永七年 賜
営趾地於忠兵衛永除租入元禄中地震 祠壊又損私貨修造之子孫相継奉祀事以至于今今稱市
郎左衛門者實為泰久九世孫也其家寳蔵   大君所御之刀一口槍一幹刀則係刀匠則宗鍛造
盖方 大旆凱旋之日所 賜泰久之物云恭惟   大君営趾之存于他方者為不復少而存吾封
域者亦不可不表見焉但雖有記載歴歴可微如此恐楮墨易敞不能×保於是謹掇記顛末耈諸貞珉
以謀永傳爾
   天保七載歳次丙申九日辛巳朔十七日丁酉建      家臣岡田左太夫光雄謹書
                              刋字入宮亀年 以


注)本文、後ろから二行目×の一字、削られていました。

 

 

                              

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小田原福厳寺 天桂院墓

2024-03-07 | 小田原

JR小田原駅から北東に約1k、山王川右岸に曹洞宗圓通山福厳寺がある。


ここに久松俊勝と再婚した徳川家康生母伝通院の娘で、竹谷松平六代目家清に嫁いだ天桂院の墓が残っている。家康関東入国に伴い、家清は武蔵国児玉郡八幡山に一万石を与えられ、天正十八年(1590)十月、その国替えの途中、小田原今井の陣屋で天桂院は亡くなった。遺言により福厳寺に埋葬されたと伝わる。

新編相模国風土記稿福厳寺項に「圓通山と號す。曹洞宗(駿州阿部郡敷地村徳願寺末)、永正元年僧大用晨甫起立(本山世代、大永二年五月廿一日卒)、其頃は福門寺と號す(按ずるに古戰録に蘆子川角櫓より一町許上に當り、小田原城構の外に、昔福門寺と云る寺院の蹟方一町が程、小高き地に、塀を懸土居を作ると見ゆれば、往古と寺地の轉遷せし事知べし、今の地域小高き地にあらず)、三世徹巌の時、皆川市正通嚴、中興開基せしかば、大永二年今の寺號に改めしと、寺記に見ゆ。天正十八年十月、六世安州闔宅、台命を受、天桂院殿の御導師を勤め、則境内に葬し奉る、客殿に御位牌を安置す。天桂院殿御寶塔一基。本堂の背にあり、五輪塔なり、(高一尺五寸許)天桂院殿は、東照宮の御妹にて高瀬君と稱し、松平玄播頭家清か室とならせらる。(寛永譜曰、松平與次郎家清、後に玄播頭と稱す、天正九年、大權現御妹を娶せ、御諱の字を賜る)寺傳に天正十八年十月十七日、今井の御陣屋(郡内今井村に御舊蹟あり)にて逝去し給ふ(按ずるに、天桂院殿此御陣所にて逝せられし事疑ふべし、蓋御國替の折なれば、御旅中御不例に因て、御陣所の未毀たれざりしを以て、幸に爰に入奉り、御養生などありしにや)、時に曹洞宗寺院に葬るべきの御遺言に任せ、當寺に御葬埋ありしと云、御法名天桂院殿月窻貞心大禅定尼と稱し奉る、是より年毎に、佛供料を其家より(今子孫旗下の士、松平主水清良なり)贈り、且海道通行の序には自拝あり、又毎年の忌日に小田原城主より代拝の儀あり、(按ずるに家譜に據に、玄蕃頭家清室 神君御妹、天正十八年十月十七日死、廿二、號天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、號月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同國西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年、天桂院全榮寺を一箇寺に仕、龍臺山天桂院と改と見ゆ、 されば始武州兒玉郡八幡山に、天桂院を建て御葬地とし、後三州へ改葬せられしなれば、當寺御葬地なりと云事覺束なし、されど今に主水の家、及び領主より香火の奠あれば、別に故あることなるべし)」とある。「別に故」とはどんな理由なのだろうか。

小田原城天守閣跡から福厳寺を結びさらにその延長上560m先に小田原北条氏と豊臣秀吉との小田原合戦で徳川家康が布陣した跡に「神祖大君営祉ノ碑」がある。

蒲郡 龍台山天桂院

 

 

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南足柄 東山北駅界隈

2021-09-25 | 小田原

香集寺から国道246を横切ってJR御殿場線のガード(中里函渠)を潜った先の左側角に大正十三年と比較的新しい馬頭観音と道祖神があり、写真を撮っていたら、ゴミを出しに来たお婆さんと眼があった。

近所に念仏塔がないか聞いてみたら、御殿場線に沿って30mほどの角にあると親切に連れて行ってくれた。



六字名号塔、廻国供養塔、庚申塔、地蔵菩薩があった。六字名号塔は小田原市東町の道場院門前にある芝増上寺三十六世祐天上人と同じ書体だったが、名号塔は風化で摩滅しており、碑表文字は、一部しか判読できなかった。六字名号の右側に金躰寺、左側にはかすかに祐天との文字が読みとれたが、道場院門前にある六字名号塔の祐天上人の花押と異なるのが気になった。嫁に来た時には、まだ念仏講が在ったというので、昔、山北向原にあった金躰寺の事を聞くと、この辺りが、むかし金躰寺があった処で、この奥にお堂があると連れて行ってくれた。この金躰寺は新編相模風土記稿に「西蓮山向原院と号す。浄土宗(足柄下郡矢作村春光院末)寛永十二年(1635)に草創、僧吟道を開山す本尊弥陀を安す」とある。いつ廃寺となったがはっきりしないが、皇国地誌村誌川村向原に維新の革命に方りて廃せらるとある、慶応四年(1868)の神仏分離による廃仏毀釈により廃寺となったのだろうか。1、2分だったが、しらない家の庭先を抜けてドンドン進むのでビックリしてしまった。ちいさな建物とその傍に無縫塔、地蔵菩薩、寛文七年板碑(供養塔?)があった。

建物の中に、阿弥陀如来像、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を左右に従えた三尊形式の仏像が安置されていた。この石仏の上の道脇に左から不動明王、六字名号塔、富士講碑、西山孝行?大我碑の石碑が並んでいた。


唯念の六字名号塔だったが、左側面に安政五戊午年(1858)九月大安日 行念六十七歳とある。行念って名前なのか、宗教用語なのか検索で調べてしまった。年齢の入っている名号塔で計算しても満年齢と数え年が混ざっているのか、唯念の生まれが寛政元年なのか、寛政三年(1791)なのかはっきりしない。唯念は明治十三年(1880)八月の死去と伝わる。

朝、出かけた山市場にあった行幹の六字名号塔も安政五(1858)年に建立されたもので、安政五年五月、長崎に寄港した米艦乗組員がもたらしたコレラが東に広まった時期で、七月下旬には江戸に達したと言われている。伊予松山藩主松平隠岐守勝成参府のおり、小田原宿にてお供の面々、二,三十人即死しそれから小田原に流行したと伝わる。このコレラ騒動で、人々は流行り病を除こうと、念仏真言題目、道祖神祭り、正月行事の復活など氏神の祭祀で対応しようとした。西相模に安政五年に造られた石仏が多いのもこんな理由があるのかも知れない。山北向原の薬師堂に向かう。途中東山北駅東側のがらんと何もない広場前のお堂に道祖神(向原1875−2)、

そこから100m位に本村薬師堂(山北町向原1881)があった。




地蔵菩薩、如意輪観音、馬頭観音、道祖神、反対側に庚申塔が残されていた。もともと、これらの石仏はどこに祀られていたのだろうか。

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相模 山北

2021-08-28 | 小田原

神奈川県西部、山梨県道志村と接する山北町にある丹沢湖は昭和53年(1978)三保ダム建設により出来た人造湖で、ここから南に河内川が流れ酒匂川に合流する。昔、この河内川をさかのぼり、川村関所から川村山北、皆瀬川、都夫良野、湯触村、川西村、山市場村、神縄村を通り奥山家三ヵ村(玄倉・世附・中川)に通じる奥山家道(おくやまがみち)があった。道幅は六尺から四尺(1.8m~1.2m)だったという。今は県道76号山北藤野線となっている。この76号の山市場にある六字名号塔を見に行った。山市場へは小田急線新松田駅からバスで行った、午前中7時台に2本、8時、9時台に各1本で、1日でも8本と本数が少ない。新松田駅から約40分位で山市場に着いた。途中、四軒屋、瀬戸六軒屋と寂しい名のバス停を通り谷峨駅上流で酒匂川と離れ河内川左岸をさかのぼって行った所に山市場の集落がある。山市場は昔、河村郷に属し、この地名は水産物の集積場と陸産物の取引場所があったことからこの地名が付いたと言われている。藤原秀郷の後裔で、相模の波多野遠義の子秀高は遠義から同国足柄郡上河村郷などの所領を与えられ、河村郷を本拠として河村氏を称した。民俗学者の柳田国男の遠祖がこの河村氏だと知って驚いた。バス停の斜め前の山市場公民館の横に六字名号塔があった。


表は南無阿弥陀仏、行幹(花押)とあり、裏面は安政五(1858)の他は殆ど判読できなかった。


横に享保十二年五月(1727)の庚申塔、萬霊塔、廻国供養塔、石仏等が並んでいた。
行幹の六字名号塔は初めてだったが、その書体は小田原の心光寺の徳本六字名号塔書体と非常に似ていた。念仏聖として有名だった徳本行者の書体を真似たのだろうか。中)心光寺徳本六字名号塔、右)関本龍善寺徳本六字名号塔
            
バスで東山北の向原バス停まで戻って歩いて5、6分の安能寺を訪ねた。



安能寺は新編相模国風土記稿世附村に「通永山と号す、曹洞宗川村向原香集寺末、元亀三年(1572)創建す、開山行翁本寺五世云々」とあり、世附川を堰き止めた三保ダムの建設に伴い、昭和52年(1977)山北町向原に移設されたという。安能寺には大数珠を巨大な滑車に取り付け、数珠を回転させる念仏信仰が残っている。「世附(よづく)の百万遍念仏」として県指定無形民俗文化財に指定されている。安能寺入口の石造物。萬霊塔(寛政四・1792)、廻国供養塔(文化十三・1816)、供養塔。
隣の安能寺の本寺であった香集寺の山号は如意山、曹洞宗小田原久野の総世寺の末寺で、応仁元年(1467)、僧永相が此処に在った観音堂に寄宿し堂宇を起立、一滴庵と号し如意輪観音を安置したことから如意山と号したと言う。



駐車場から境内への石段の途中にお寺を守るように萬霊塔・天明二年(1782)と禁牌石・安政三年(1858)があった。「不許葷酒入山門」を「 許されざる葷酒、山門より入る」とか「許されざれど、葷酒山門に入る」などと、訓読みしていたら破門になりそう。

境内に永平寺六十四世管主の性海慈船禅師篆額「功徳聚」、明治三十八年建立の重修如意山香集寺伽藍記碑があった。

重修如意山香集寺伽藍記 碑文
創業守成固為難矣継絶興廃豈亦易哉吾於如意山香集寺益知其然焉寺舊稱一滴奄無
方永相師所創立有青松自観二支院足利将軍施寺田五十石叢林規模備具二世休庵永
艮為兵禍所侵遂不能守成伽藍亦罹燹災時忠室宗孝和尚董総世主席観其惨状不禁痛
惜発憤拮据従事興復併二支院改稱今之寺号故以和尚更為本寺開祖二世香山良聞以
休菴之徒承開祖附属守成有功三世天光正玖徳望超羣朝旨特賜微号曰佛覚大光禅師
自是寺門漸盛比至六世有末寺十三儼然為一方巨刹慶長中有祝融之災再造堂塔百廃
復興爾来三百餘歳柱梁朽頽不可復支現住穎哉長老企図重修興諸檀越胥謀同心協力
鞅掌経営明治三十三年起工明年告竣仍卜是年四月二十四日特請永平性海慈海禅師
挙開堂遷佛之典禅師手裁白檀一株以為後昆丰標項曰長老来微記文于吾吾請経不言
乎諸佛滅度巳供養舎利者起萬億種塔金銀及頗梨硨磲與碼碯攻瑰瑠璃珠清浄廣厳飾
乃至如是諸人等漸漸積功徳具足大悲心皆己成佛道今夫長老及諸檀越重修梵刹供養
三寳其功徳其深豈可堪随喜哉仍紀梗慨以應其請寺住相模足柄上郡川村西對富獄足
初金時函根諸山連旦其西南鞠子川貫流其前風光佳絶真為相南勝境云

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小田原根府川 岩泉寺

2021-08-11 | 小田原

根府川の寺山神社から130m程坂道をあがると、左側に下りる急坂がある。
ここがちょうど新幹線の片浦トンネルと南郷山トンネルの間にあたり、海岸側に東海道線の白糸川橋梁がみえる。急な坂道を進むと斜面に建つ岩泉寺の本堂の境内にでる。

 
海岸側からの石段

新編相模風土記稿に「岩泉寺 巨岳山と号す。曹洞宗(早川村海蔵寺末)開山通國門泰(本寺十三世の僧)慶長九年(1604)建(旧家長十郎の家系には元和七年先代広井長十郎重次開基すとあり)」さらに「當寺昔は海辺にありしが、萬治二年(1659)の洪水に流失して、同五年今の処へ転す(長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此地に転ずと云)」とある。根府川村名主広井長十郎と村民が寺の維持費、畑七畝二歩・山林三町歩を寄進し本堂庫裏を再建したという。金堂前の急な石段の途中に手前から寛文七年(1667)建立の観蓮社縁誉至道上人碑、安政五年(1858)建立の秀学六字名号塔、文政元年(1818)と言われる広井長十郎が建てた「南無大師遍照金剛 木食観正」碑があった。


寺山神社の前にあった釈迦堂入口の石標につられて急な石段を下りて行った。根府川は小さな集落でどこを通っても白糸川にぶつかってしまう。釈迦堂を探して海岸の国道まで出てしまった。

帰り道のJRの白糸川橋梁真下の柵の陰に入口の案内板があった。私有地みたいな所を進むとgoogleマップに表示のない橋が架っていた。橋から20mほど先にみえる小屋がマップに白糸川の釈迦如来とあるのが釈迦堂だった。



お堂は半地下で岩に釈迦如来像があった。元自治会長の内田一正氏による「白糸川の釈迦如来」の説明があった。広井家文書によると、広井家二十二世広井長十郎重友の代に度重なる地震への不安から村の安泰を祈り、明暦二年(1658)、当時の岩泉寺境内の岩盤に像立し、右側に彫られた「寛文九歳七月十二日 元喜道祐庵主」は長十郎重友の命日と戒名だという。その左に「普明暦二歳仲秋月」「広井左衛門敬」と彫られているという。岩泉寺は万治二年(1659)の大洪水で万治三年から五年にかけて現在の高台に移転し、岩盤に彫られた釈迦如来像はそのまま残されたという。また子の釈迦像は弘法大師の作とも伝わっている。明和三年(1766)に釈迦如来像が野ざらしのため、お堂建設の願いが出されている。残念ながら釈迦如来像の周りに彫られた年号や名前は全く気が付かなかった。風土記稿は旧家として広井氏家系を載せている。上総介平良兼を遠祖として、良兼五代孫広井太郎致房を初代として、二十一代が寛永十二年江戸城普請採石を任され、岩泉寺開基の長十郎重次、その次の記載が重次孫宅左衛門重光(二十三代)となっている。風土記稿に「岩泉寺、當寺昔は海辺にありしが、万治二年の洪水に流失して同五年(1662)今の処へ転す、長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此の地に転ずと云」とあり、二十二代宗左衛門重友一人だけが風土記稿から抜けている。重友の命日が寛文九年(1669)だとすると、万治五年(1662)、寺に持地を寄附した時の広井家の家長は誰だったのだろうか。寛永九年(1632)、正保四年(1647)、慶安元年(1648)の地震、万治二年(1659)の大洪水など度重なる災害や、岩泉寺無住の期間享保年間(1716~1735)を考えると、あまり古文書も残されていないように思われる。

駅に戻る途中に日正上人の題目塔があった。

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小田原根府川駅周辺

2021-07-22 | 小田原

JR東海道線小田原駅の二つ先に根府川駅がある。この根府川駅は昭和60年代、オレンジ輸入自由化により根府川地区はみかん園の転換跡地利用方策により福祉施設が建設され、いくつかの遍歴のあとリゾート施設となった。根府川駅より無料シャトルバスが運行するようになり、乗降客数も少しは増加したと思われるが、現在でもJR東日本東海道線区間の唯一の無人駅で乗車人員は非公表の珍しい駅となっている。大正12年(1923)、関東大震災による大規模な地すべりが発生、8両編成の6両が駅舎、ホーム共に海中に没した。改札横に、関東大震災殉難碑、寺山神社に大震災耕地復舊記念碑、岩泉寺に大震災殃死者供養塔がある。


この地区に植えられた、カンヒザクラとマメザクラを交配させて誕生した早咲きの桜「おかめ桜」が有名で、花が下を向いて咲くのが特徴で色が濃くて華やかさがある。京都の大報恩寺(千本釈迦堂)の阿亀桜とは別種だそうです。根府川(ねぶかわ)の地名は古く、一説によると広井を氏とする家系に上総介平良兼五代の孫、広井太郎致房の次子重房、その次子太郎重門、始めて当所に住まい、根府川太郎と称したという。その後、広井を氏とし北條氏に仕え、天正十八年(1590)小田原落去のあと民間に下り、慶長九年(1604)頃より江戸城普請の採石御用を務め、代々採石の御用を務めている。この地区で産出する根府川石、荻野尾石は小松石と同じ箱根外輪山の中腹部より噴出した溶岩が主成分のため採掘者でもなければ区別するのは不可能に近い。
根府川駅から根府川郵便局の前の坂道を150m程歩くと根府川公民館の入口がある。この公民館の駐車場の片隅に木食観正碑と小祠があった。


県道740号小田原湯河原線を挟んで旧村の鎮守、寺山神社がある。新編相模風土記稿では「寺山権現社祭神詳ならず」とあったが、境内の案内板に「神社の草創は不明であり、古くは寺山権現と言われていたが明治初年寺山神社と改称した。祭神は武甕槌命(たけみかずちのみこと)であり、浅間神社、山神社の二社を鎮座している」とあったが、境内社の看板は天三社と姥社となっていた。


本社横に明治十二年建立の月日・三猿の庚申塔(石祠)と小田原市指定重要文化財に指定された丸彫単座像合掌型二基と彫単座像合掌型の一基の道祖神が祀られている。

境内に浅間大神塔、地鎮神塔があった。

元帥公爵山縣有朋書「日露戦役」彰忠碑

名号塔のある岩泉寺に向かう。

岩泉寺の大震災殃死者供養塔
大正十二年九月一日午前十一時五十八分俄然
大震災アリ同時二山津波起リ老若男女二百餘
人殃死セリ甚夕悲惨ノ至リニ堪ヘス茲二遺族
一同共ニ丹悃ヲ協セ殃死者菩提ノ為大供養塔
ヲ建立シ以テ永ク精霊ヲ祭ル者也
大正十四年八月十二日   
     遺族一同建之  
         海蔵實英書

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小田原真鶴 岩地区

2021-06-18 | 小田原

久しぶりに真鶴にいった。江戸時代の関東にある武家の墓はほとんどが真鶴の岩地区の山で採れる小松石を使っていた。会津藩諸士系譜に出でくる会津藩士の江戸での菩提寺で、藩士の墓を見つけるのに役にたった。真鶴半島自体、30万年ほど前に箱根外輪山の中腹部より噴出した溶岩で形成されたと考えられている。伊豆石、小松石、根府川石などは溶岩が固まった火山岩で玄武岩、安山岩、デイサイトなどで何度みても区別する事が出来ないでいるが、なんでも珪酸の量が違うらしい。新編相模風土記稿に「小松石、小松山より産する以て此名あり。石理至て緻密にして、且堅牢剥落の患なし。故に碑石に用る是を最とす。故に故より御寳塔にも是を用らると云。又御三家方及松平阿波守の采石場あり是は寛永二年よりの事云う云々」とあり、根府川石は根府川・米神兩に產し、小松石は岩の小松山に產し、眞鶴石は眞鶴で採掘したという。荻野尾石は根府川の荻野尾山より產し、磯朴石は根府川の海岸より產したという。玄蕃石は江ノ浦の產、其餘は小田原石と稱したという。平成の小田原城馬出門修復で馬出門左側は真鶴産の小松石、右側は早川産の安山岩が使われたという。

小松石(門左側)

早川の安山岩(門右側)

小松石は研磨すると独特の灰色から淡灰緑色の密な石面を見せるが、荒削りの石垣ではどこ産の石だか見当がつかない。
小田原本町にある明治天皇宮ノ前行在所跡碑は総磨の小松石で建立された。

弘法大師の草創と伝えられる多寶山瀧門寺に行く。

古くは密寺院だったのを、後年僧原行が曹洞宗に改め、天正元年(1573)僧林屋中興した、と風土記稿にある。参道入口には明和四年(1767)、瀧門寺十三世了吾和尚の発願、造立の関東最大といわれる宝篋印塔がある。この石塔は小松石で造られているという。山門に向かう石段の手前に廃寺となった岩松山光西寺にあった承応三年(1654)建立とされる五層塔と上野寛永寺の宝塔造営した宮石工三津木徳兵衛の頌徳碑(1533)がある。


山門を入って驚いた。本堂、庫裏、鐘楼すべて茅葺で建っていた。補修の時にはかなりの資金が必要になるなと余計なことを考える


瀧門寺から南に山際の道を5分程歩くと児子神社の入口に着く。



御祭神は「惟喬親王と惟喬親王之御子神」で、境内の碑に「延喜年間(十世紀初)の創立と伝えられるが天保年間大災のため社殿を焼失し古記録等はこの時に失った。御子神は親王の御後を慕い、従者二人を従え二才になられた若宮を擁して当所に来られたが、若宮、病を得て夭折されたので御父と伴に奉斎したと伝えられ、以後子供の流行病の厄除けの参拝が多く見られた云々」とあるが、風土記稿に兒子神明社「土肥次郎實平の外孫、萬寿冠者の霊を祀る。神体木像なり。傳云治承四年八月廿八日、頼朝實平等を引具し当浦より乗船して安房国へ落し時、冠者實平の跡を慕い当所に来たりしが既に出帆して及ばず、よりて涕泣し終に自殺せしを岩松山光西寺へ葬り其霊をここに祭りしとなり」「岩松山光西寺今廃して其跡詳ならず、社地に立る承応三年(1654)の五輪塔に岩松山光西寺と題し云々」とある。何時から土肥次郎實平の外孫、萬寿から惟喬親王の御子に替わってしまったのだろう。神社入り口右手に大正八年建立の元帥公爵山縣有朋書による忠魂碑、その隣に昭和三十年建立の円覚寺管長宗源書による護国塔がある。




源頼朝が房州に逃れた場所と伝える「船出の浜」碑と塩谷温題「開帆の碑」がある岩海岸より真鶴駅に戻る。

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小田原の六字名号塔

2021-04-23 | 小田原

関本の龍福寺にあった徳本六字名号塔は小田原では数が少ない。慶応三年(1867)、徳本五十回忌に刊行された知恩院七十六世、増上寺七十世で初代浄土宗管長に就任した行誠の編纂「徳本行者伝」によると、諱は徳本、号は名蓮社誉弥阿弥。宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀庄久志の生まれだという。唯念が寛政元年(1789)生まれなので、約三十年の開きがある。徳本行者は江戸後期の代表的な捨世派(念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達の総称)念仏聖で文政元年(1818)、六十一歳小石川の一行院で亡くなっている。ちょうど唯念が恐山や羽前の月山、湯殿山、羽黒山を登り修行していた頃である。享和三年(1803)、四十六歳で初めて関東下向。文化十一年(1811)、増上寺称誉典海の招請を受け関東に下向する。十一代将軍家斉実母慈徳院の御悩を平療、江戸でも評判は高く、以後、文化十四年に至るまで、関東諸国の各地を廻っている。文化十一年秋、巡教遊化のため伊豆相模を巡り、小田原の心光寺を訪れている。

心光寺門前の徳本六字名号塔

心光寺は新編相模風土記稿に「月窓山護念院と号す。浄土宗京都知恩院末、文安元年(1444)僧門栄起立す(松蓮社貞誉と号す)、當寺元は小田原古新宿町(山王川右岸海寄り)に在り、寛永七年(1630)回録の後、当所へ移れり」とある。この心光寺門前に徳本六字名号塔があった。中世以降の浄土宗では宗門における長老、学頭などの指導者を能化者と呼び、この能化者が何々蓮社という法号を用いるようになり、蓮社号は浄土念仏実践の団体・信者を蓮社と呼んでいる。増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺六十世を経て、元文三年(1738)、知恩院四十九代住職に就いた称誉は号を名蓮社称誉円阿としている。小田原では唯念六字名号塔が多い。気が付かなかったのか徳本六字名号塔は少なく、国府津より西大友に至り、曽我、金子、などを経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、千津嶋、怒田、苅野を通り矢倉沢関所前の矢倉沢往還道に合流する甲州古道に面した小田原梅林の中心地の曽我にある東光院の門前に徳本六字名号塔がある。


東光院は風土記稿に「瑠璃山南谷寺と号す、古義真言宗(国府津村宝金剛寺末)、古は剱澤川の東に在しが(旧地は陸田を開き寺畑と字す)文禄二年中興恵誉今の地に移すと云」とある。現在は真言宗の宗派のひとつ、清荒神清澄寺を大本山とする真言三宝宗のお寺です。参道に笠付六角柱の六面地蔵があった。

六面地蔵はどこかで見たことが在ったが思い出せなくて、10年分のお寺の石仏の写真を見返しても分からなかったが、小田原藩の処刑地だった北條稲荷神社近くに行ったとき、扇町にある小田原藩のもう一つの処刑地跡に建立された地蔵が六面地蔵だったのを思い出した。

小田原 扇町

秀学六字名号塔については手持ちの写真を見直したらいくつか有った。
東町の昌福院門前(安政六年:1859)、


上多古公園内(安政五年:1858)の秀学六字名号塔と石仏群

小田原、山北には
秀学、行幹、祐天、覚誉などの六字名号塔が残っている。

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南足柄 関本界隈

2021-03-04 | 小田原

神奈川県道78号御殿場大井線、いわゆる足柄峠を越える東海道の旧街道で、足柄古道、甲州道や矢倉沢往還の別名がある。いずれも伊豆箱根鉄道大雄山駅の先から足柄峠への道は狩川の左岸を通っている。弘行寺から大雄山駅に向かう街道に沿って石佛、石碑が多く残っている。市営グランド駐車場入口(学校前バス停50m手前)に道祖神と五輪塔(上宿の道祖神)、学校前バス停25m手前(雨坪と関本の境)関本地蔵尊があった。

この地蔵は「子育て地蔵」ともよばれ、関本公民館に置かれていたものを平成24年(2012)に「関本宿を語る会」により旧関本村地蔵堂の近くにお地蔵を修復して新たに祠を建立したものだという。関本の三福寺は関本地区にある福がつく三つの寺院で、廃仏毀釈で廃寺となった善福寺が上寺、中寺と呼ばれてきた長福寺、下寺の龍福寺を関本の三福寺と呼び、財産(上寺)、健康(中寺)、智慧(下寺)の三福を願う人々で賑わったという。廃寺の関昌山観音院善福寺の御本尊等は同じ真言宗寺院である弘済寺に移されたという。


長福寺は新編相模風土記稿によれば「開雲山と号す、臨済宗 狩野村極楽寺末、開山子文、文明二年(1470)八月廿七日寂」とあるが、文政四年(1821)に鎌倉円覚寺の直末寺となった。ご本尊は十一面観世音菩薩、円覚寺百観音霊場第二十番札所となっている。本堂屋根に正三角形の三鱗紋があった。臨済禅 黄檗禅の公式サイトをみると、円覚寺の寺紋は二等辺三角形の三鱗紋(北条鱗)で建長寺は正三角形の三鱗紋だという。



山門前に馬頭観世音、百番観世音、万霊等の石碑があり、境内に古そうな宝篋印塔と五輪塔がたくさんあった。隅飾がほとんど垂直で古い小さな宝篋印塔や五輪塔をみると、名もなき中世相模武士の供養塔に思えてくる。長福寺から歩いて4,5分の龍福寺に行く。
   
龍福寺は瀧澤山吉祥院と唱え時宗にて国府津蓮台寺末、開山は遊行二世他阿真教、真教は一遍上人の最初の弟子で、「他阿弥陀仏」の他阿の名を授かったという。門前の寺号標石に龍澤山龍福寺、遊行七十三代 一雲□とある。一雲とは時宗の七十三世法主、藤沢清浄光寺五十六世の法燈を相続した河野憲善氏の号。寺号標石の山号の瀧澤山が龍澤山に、どっかでサンズイ(三水)が抜けてしまった。天保三年(1834)の龍福寺地誌取調書上帳に瀧澤山吉祥院とあり本堂の山号額も瀧澤山とあったので、瀧と龍は違うなと思いながら、瀧と龍の音が一緒なので、細かい事は考えないことにした。「隅折敷に三文字紋」が本堂の屋根にあった。隅折敷に三文字紋は時宗の宗紋で一遍上人の出自である伊予河野氏の家紋から採られたのだろう。


境内に大正11年に建立された大きな「下田隼人翁碑」があった。下田隼人と云う名前、最近どこかでみた名前だと思いながら、碑文を読んでいたら、一時間ほど前に訪ねた雨坪の弘行寺の境内に下田隼人「観理日圓」と戒名を贈られた供養塔があったのを思い出した。

小田原藩は万治年中の検地により新しい麦租徴収令を発布、これに反対した足柄上下郡二百余村の代表として近郷の大庄屋を務めていた下田隼人が一身を犠牲にして藩主稲葉正則に強訴したという。大正13年発行の足柄上郡誌には「万治三年十二月廿三日死罪、龍福寺の重阿上人は亡骸を引き取り境内に葬り「相阿弥陀」の法名を授けた」とある。


この下田隼人翁碑の下部に墓標なのか、中央に「南無阿彌陀佛」、右側に「相阿彌、萬治二年十二月廿□」。左側に「利佛房 延宝五巳年十二月二日」 下に「施主下田□□」とあり、「相阿彌 萬治二年」となっていた。雨坪の弘行寺にある下田隼人の供養塔の日付も万治二年か三年かはっきりしなかった。文政十年(1827)の下田隼人施餓鬼供養を呼びかけた文書には萬治二年十二月廿三日死罪とある。処刑日が萬治二年か三年かはっきりしない。萬治元年から同三年の小田原藩の総検地と萬治三年(1660)の大災害による減免が直訴事件と結びついて、近世に処刑が萬治三年になってしまったのだろうか。

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