大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

函館 東浜桟橋(旧桟橋)界隈

2023-04-28 | 

新島譲渡航地碑から赤い靴の女の子像へいった。函館の埋立地、緑の島と海上自衛隊函館基地の間の岸壁に新島襄海外渡航の地碑がポツンと建っていた。新島譲はここから上海経由で米国に密航したという。


碑文
男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家
却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花
明治十六年一月一日録旧作 新襄
IN MEMORY OF
JOSEPH HARDY NEESIMA
1843-1890
FOUNDER OF DOSHISHA
UNIVERSITY
元治元年1864AD七月十七日旧暦六月十四日夜半
新島襄
海外渡航 乗舩之處
昭和廿七年1952AD 七月二日建之 函館市同志社

碑裏
新島襄ハ天保十四年二月十二日江戸ニ生ル 元治元年七月十七日箱館ヨリ乗船シ北米新英洲ニ渡リ修学十年明治七年皈國 八年同志社ヲ創立 二十三年一月二十三日歿ス 享年四十八  明治二十九年七月十七日建之    同志社函館市

密航という手段をとった新島譲の信仰への興味、自由平等という新しい価値観、新しい知識に対する要求の強さに今更ながら驚く。新島襄と妻八重は明治二十年夏、北海道旅行の途中、函館の遺愛女学校に勤めていた会津藩家老簗瀬三左衛門娘で雑賀繁村と結婚した雑賀浅と再会した。八重は札幌で開拓使内藤兼備(旧薩摩藩士)と結婚した日向左衛門娘で幼馴染の日向ユキとも再会している。
金森赤レンガ倉庫に向かう途中の西波止場の前に赤い靴の少女像 「きみちゃんの像」があった。

きみちゃんというのは野口雨情作詞の童謡「赤い靴」のモデルとされる少女で、ここは、お母さんのかよさんと静岡から函館へと移り住むため、初めて北海道に降り立ったとされる場所だという。2009年の函館開港150周年に合わせて設置された。モデルのきみちゃんの実像については諸説あるようで、野口雨情がこの「きみちゃん」の実像についてどの程度、知っていたか不明ですが、二歳で東京麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられ、箱館には行っていないという説もある。きみちゃんが生まれたのが明治三十五年、亡くなったのが明治四十四年、「赤い靴」が童謡として発表されたのが大正11年、異父妹・岡そのがきみの妹と新聞に投書したのが昭和48年(1973)。明治四十一 年(1908))撮られた永坂孤女院集合写真が残っている。2,3歳で孤児院に引き取られたとすればこの中にきみが写っているのではないだろうか。青山霊園の鳥居坂教会墓地の墓碑に佐野きみの名が刻まれている。
赤い靴(2014年2月15日付)

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函館高龍寺 会津藩士田中玄純墓

2023-04-20 | 會津

会津藩北方警備の蝦夷会津藩領の巡察からの帰途、途中の裕富津(ユウフツ)、現苫小牧市勇払で病死した会津中老田中玄純の墓域を訪ねた。この田中家の墓域にたどり着くのが大変だった。高龍寺の墓地はかなり大きく、墓域の半分以上函館山斜面に沿って造成されている。高龍寺を訪ねるまえに殆どの場所で坂を登るか、傾斜地を上がるかして体が悲鳴を上げていた。庫裡の右側、墓地の中央の道を直進、約70mで塀にぶつかり、塀にそって左に約25m、山の斜面に沿った墓地道の手前、ヘヤピンを右手に折れて約40m進んだ左にブロックで囲まれた田中家の墓域がある。
(写真家横山松三郎墓案内板の右側、道の奥)


 
会津田中氏は太田亮「姓氏家系大辞典」によれば「伊勢の田中氏で玄儀に至り武田氏に仕える。その孫正玄、会津候に仕え」とある。諸士系譜に田中清右衛門玄重二男三郎兵衛正玄が初代、その四代正顕の三男源吾玄通子玄純の嫡男が銕之丞玄純となる。田中玄純は蝦夷地若年寄・陣将代に任じられ万延二年二月(1868)、会津より箱館に渡り蝦夷封域を巡察し、六月に樺太に渡るも病に罹り裕富津に還り文久元年七月晦日没す。法諡は賢徳院殿忠光玄純居士。蝦夷にたび立つおり「ことしあらは鎧の袖をかたしきて戟の枕に死すもいとはす」の歌を残している。田中家墓所の入口に昭和五拾年拾壹月弐拾弐日会津中老田中玄純末孫田中清玄建之とある。清玄は玄純の四女八重の娘、愛の長男、玄純からみて清玄は姪孫にあたる。昭和五年(1930)日本共産党中央委員長から転向後、経済界、政治活動のフィクサーとして活躍した。
撰文の橋爪盛道は昌平学舎で学び、のち西遊して肥薩を極め、儒者見習勤となる。猪苗代に転任、のち若松に帰住し忠誠神君(松平容保)に侍講し、その後京都で公用局勤となる。書は会津藩祐筆を勤めた庄田坦(荘田胆斎)によるものです。

会津中老田中玄純墓文
我藩若年寄陣将代田中君以文久元年七月晦病終于裕富津
年止五十有五令嗣玄直奔喪盡哀與其弟玄忠葬君于箱館高
龍寺法諡曰賢徳院殿忠光玄純居士喪訖還国 公特命為奏
者番數来余舎乞文表其墓余嘗受君知遇故贈其行以文則其
没也亦悪可無言君諱玄純通稱鐡之丞田中其姓也故老職三
郎兵衛正玄君事 土津公名聞於当世土井候稱為天下三家
老之最君其支孫也考玄俊君稱鐡次郎豪遭不群善兵法為軍
事奉行以撰為相州番頭妣石川氏長久女君以文政八年承家
行襲禄三百五十石為家老組外士除物頭遷組頭以疾辞官既
而復起為目付歴公事奉行轉郡奉行進大目付拝学校奉行嘉
永六年擢為奉行與参政事許乗與行封内前後恩賜不可勝□
安政三年加禄賞其功労四年五月 公就封也命君報諸 大
府乃赴江戸謁  大将軍睨縐紗二疋六年又加賜禄時蝦夷
地未闢洋虜不測 官乃分賜於我及仙臺等諸藩君撰為蝦夷
地若年寄勤陣将代進班増禄 公手賜麾及韁憤盃酒累賜饌
食酒肴己而公覲江戸又手書慰勉之萬延二年正月為若年寄
寄陣将代如故二月発会津三月至箱館五月発戸切地而巡視
封域六月済北蝦病而還裕富津 公遥致書而問之且賜金及
歿又賜賻銀葬金蓋異敷也君状貎豊碩懐無滞吝才兼文武膂
力絶人然謙虚不夸勤敏温恵故人感其恩而服其才余嘗謂我
藩敵水府藤田氏者二人而君其一也其往也必能斉績顯□□
始如遠祖而使言国有人矣不幸溘焉不能有一所施為誠可惜
也君嘗自言吾至彼地必不帰嗚呼知死而不畏見害而不避可
不謂忠哉配伴宗馮女生二子長即玄直稱源之進次即玄忠稱
金次郎女二人玄忠随君而行君歿猶留而未還兄還而奉公事
母弟留而展墓終服君其可謂有後
       文久二年壬戌二月七日            会津橋爪守道撰
                                                          庄田 坦書

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函館高龍寺 傷心惨目碑

2023-04-13 | 

函館高龍寺の庫裏左手前に傷心惨目の碑がある。

碑文に「傷心惨目 撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉 会津残同抱共建 明治十三年」とある。傍の函館市説明板に「明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した」とあった。

碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華「弔古戦場文」の日光寒兮草短月色苦兮霜白 傷心慘目有如是耶からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものだという。函館病院の頭取医師高松両凌雲の経歴談に「高龍寺分院は敵の来襲を受く、此地に来たし兵は松前、津軽等の弱兵にして院内の意外に静粛なるに疑惧の念を起し突然乱入して懲む可し、病院掛り木下晦蔵を殺害し、医師赤城信一を捕縛せり」、また「無情なる拙劣漢は残酷にも病者十有余名を屠りて後、火を放ちて院を焚く」。凌雲は「嗚呼此両隊の如き無情拙劣漢何ぞ厚顔士と云を得んや」と怒りをぶちまけている。5月初旬の松前戦争の際、松前藩は捕虜とした者を水牢に繋ぎ、健全無恙なる者も水腫を病み、患者の大半は水牢中にて鬼籍に入りしと云う、と凌雲は書き残している。
「弔古戦場文」は、唐玄宗皇帝時代の人、李華が古戦場の悲惨な有様を想像し、戦死者の霊を弔うため作ったと言われている。岳飛は中国紹興十一年(1142)に宰相の秦檜に冤罪を被せられ謀殺された南宋の武将で、のち冤罪が晴れ八十年後に岳廟が建てられた。現在、杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立されている。李華の弔古戦場文を岳飛が書き残した真筆から傷心惨目の文字を写したとあるが、李華の歿年ははっきりしないが、神護二年(766、唐大暦二)歿ともあり、岳飛の歿年は康治元年(1142,南宋高宋十二年)なので、その間、三百七十六年になる。傷心惨目碑が建立された明治十三年(1880)まで岳飛歿年から数えて638年になる。岳飛の真蹟なるものが何処にあったのだろうか。昭和十年発行の「志ぐれ草紙」に「島津家に宋の岳飛の真蹟を所蔵せりとぞ、こは征韓軍の時彼地より縦掠し来りよしを、後世左字に刻して摺りたるを見しが頸強いふ計りなく岳飛が気象も筆意に溢れいように見えき、その文は唐の李華が弔古戦場文にて岳飛の跋文あり、その文によれば拐司馬(拐子馬?)の軍に一部將の戰死せしを弔ふため記したるものにて」とあり、この書西郷隆盛等みなこれを習ひ熟せるものと思わるとあり、「南洲翁逸話」にも南洲先生の書風、岳飛の書いた出師表の拓本などを学ばれとある。また、薩摩造士館館長山本正誼「岳飛真蹟取しらべ覚」によれば、天明四年(1784)、琉球飢饉の時、藩士が琉球で岳飛真蹟を購入し藩に献上したという。杭州の岳王廟にある岳飛の書は岳飛真蹟と伝わるとある。文禄・慶長の役は1590年代、岳飛が没してから448年も経つ、朝鮮から略奪した岳飛の書が真蹟だとどうして判定できたのだろうか。碑の中に落款みたいな文字があった。

不鮮明なので色を付けて強調してみた。最初の文字、岳(小篆)しか解らなかった。

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函館實行寺 馬前一死

2023-04-04 | 會津

本堂の左側、墓地にむかう道に七基の墓碑と石碑が並んでいる。手前に海軍中将榎本武揚篆額による日向真壽見の招魂碑がある。

碑文の終わりのほうに「馬前一死」という強烈な言葉が眼にとまった。榎本武揚はこの言葉をどんな気持ちでみたのだろうか。だれがこの碑の撰文をしたのか気になった。新井田良子著「日向内記の斗南救援工作」にこの招魂碑は大槻修如電撰并書とあり、「明治二十九年仙台の青葉神社境内に建立されたが、青葉神社を公園に拡張した際、撤去されて公園の隅に転がされたままになっていた。これを知った子孫の方が、碑を真壽見のはかがある函館実行寺に送り云々」とあった。昭和50年代に実行寺に移築し、のち住職の望月正一氏が本堂横に再移築したという。大槻修如電は仙台藩士大槻磐渓の長男で弟に国語辞典『言海』を編纂した大槻文彦がいる。日向真壽見は戊辰会津戸ノ口原の戦いで一人戦線を離脱したと言われなき汚名を着せられた白虎士中二番隊隊長日向内記の長男で、陸軍による死亡通知は「山形県酒田居住福島県士族日向真壽見、明治二十八年三月三十日於朝鮮国龍川病院病死義州陸軍埋葬地ヘ埋葬」とあるので、家族は酒田に居住していたのだろう。翌年十二月の陸軍省への嘆願書では凾館区幸町山村友三郎方同居寄留故日向真壽見妻 日向タマとなっているので、二十九年当時、弟山村友三郎方に身を寄せていたと思われる。


日向真壽見について碑文以上の事は分からなかったが、實行寺本堂裏手墓地の山側を少し上った左側に大正六年、日向又太郎建立の日向家の墓があり、傍らに幼く夭折したと思われる娘常盤(二番目の娘)の古い墓石があることから、妻タマの実家山村家の菩提寺が實行寺だったのか、それとも旧会津藩士が多く眠る實行寺を菩提寺としたのかは判らない。会津白虎隊の顛末が軍部に利用され、その原因だと非難された日向内記の長男真壽見一家も苦労の連続だったに違いない。

古者武士道於君之馬前一死盡本分以為臣節全(古は武士道、君の馬前に於いて一死し、本分を尽くし、もって臣節を全たしと為す)。戊辰戦争のあと僅か三十年、今から百三十年ほど前だが例えが凄すぎる。

日向君招魂碑
魂可招乎魂在於天致処無不可招也日向君従外征之軍為異郷之客今茲丙申小
祥忌辰知友旧僚相謀建招魂碑于仙台市青葉祠畔以欲傳君功績未徴余文按状
君諱真壽見会津藩世臣考稱日向内記食禄七百石為大組頭妣諏訪氏君甫十歳
入藩校日新館修行甚勉敷有賞賜十四歳擢世子扈従明年為戊辰之変與父俱従
軍守城乱平因于東京尋赦明治六年為開拓使電信生学一年擧電信局員爾来於
北海道各地従事其職者十年使廃轉工部省技手又補電信修技校助教其後歴任
岡山新発田酒田等電信局長二十三年七月更任仙台電信建築技手駐在酒田及
日清軍起属第一軍兵站部入朝鮮架軍用電線会羅悪疫至平安道龍川遂不起實
二十八年三月三十日也年四十三官追賞其功賜金参百円配山村氏函館人挙両
女長橾次松栄倶幼戊辰之乱君始致身日清之役君終致命雖不負東奥武士之本
分亦誰不壮其行而愍其志余甚賛友僚之擧也乃係以招魂碑辭辤曰
 古者武士道於君之馬前一死盡本分以為臣節全凢奉臣職者不可不皆然
 精神在于比而事業愈堅君今斃其職功名可以傳立石旌君志魂其不高焉
     海軍中将農商務大臣従二位勲一等子爵榎本武揚篆額
            明治二十九年三月三十日有志者建立

 

「会津藩士日向内記の事」

参考文献
新井田良子「日向内記の斗南救援工作」
飯沼一元 「白虎隊士飯沼貞吉の回生」
好川之範 「北の会津士魂」

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