大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

御室 傳法輪寺と蓮華寺

2019-03-28 | 

仁和寺に向かう途中、「京の冬の旅」特別公開中だという傳法輪寺に寄った。傳法輪寺は山号を獅子吼山(ししくさん)とし、知恩院を総本山とする浄土宗のお寺で、寺伝に宝暦八年(1758)、関通上人が北野下ノ森に創建し、現在地には昭和四年に移転した。
 
 ここには坐像ながら丈が二丈四尺(約7.5m)という京都で一番大きいといわれる大仏(阿弥陀如来像)と宝暦十四年(1764)に作られたという縦が一丈七尺五寸(5.3m)、横は縦一丈六尺二寸(4.9m)の涅槃図が公開されていた。座っている大仏はまだ修行中の悟りを会得している段階で、寝ている大仏は、その肉体がなくなるすなわち死の寸前の横になっている状態が、最も悟りを開いている状態を表しているという。ならば、立像立っている大仏は何だと云うと、救済の道を広めている姿だという。どんな姿にでも理由があるものだと感心する。
 
釈迦の入滅を描いた涅槃図あまりじっくりと見たことはなかったが、殆どの涅槃図に描かれている月は横たわっている釈迦如来の中心線上に懸っているのに、傳法輪寺の涅槃図は向かって右上部の阿那津に先導されて飛来する摩耶夫人の傍に描かれているのと、右下に猫が描かれているのが珍しい。八本の沙羅の木(四双八本?)が1本おきに枯葉と常樹に描かれていた。四方の双樹のそれぞれ一本は枯れて一本は繁茂させた。四本残った沙羅双樹の樹で「四枯四栄」を表しているのだろうか。平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」の沙羅双樹の花の色は何色だったのだろう。日本の沙羅双樹の木は白い夏椿の事だそうで、白から無色となれば色即是空の世界に入ってしまいそう。
 
 
傳法輪寺に入る時、潜った鐘楼門の上にある釣鐘は一千貫(約四トン)あるそうです。
傳法輪寺から仁和寺に向かう途中、東門の手前に五本線の筋塀のお寺があった。
 
山門に近畿三十六不動尊第十五番霊場 真言宗御室派別格本山 五智山蓮華寺と寺院表札があった。蓮華寺の五智不動尊縁起によると、御冷泉天皇御願いにより天喜五年(1057)、藤原康基が創建、応仁の乱の兵火で荒廃したが、江戸の豪商樋口平大夫が発心入信して常信を名乗り寛永十八年(1641)、蓮華寺の伽藍堂宇を再建、仁和寺門跡第二十一世、覚深入道親王よりの改めて五智山蓮華寺号を賜ったという。
 
境内に大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、宝生如来の五智如来石像が安置されている。この石造群は蓮華寺が過って鳴滝音戸山に移されたとき、山中に離散・損傷していたものを収集、修復して昭和30年に境内に遷座安置されたという。
 
 
土用丑日に「きゅうりふうじ」の行事があるという。これは空海が唐より伝えた厄除けの秘法で、病魔悪鬼をきゅうりに封じ込めて、無病息災を願う秘儀だという。変わった行事だと思ったら、各地のお寺で同じような行事が行われていた。どんな民俗信仰から土用丑日と胡瓜が関連するのだろうか。

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宇多源氏始祖追遠之碑

2019-03-20 | 

龍安寺から「きぬかけの路」を西に300mほど行ったところに小さな神社がある。
 
ここは住吉大伴神社といい、境内の由緒書によれば、間口一間、奥行一間半の縮小型住吉造で日本唯一の建築であるという。住吉造の建物がどうゆうものか分からないので普通の神社にみえた。
 
 
住吉大伴神社は承和元年(834)、伴宿祢が山城国葛城郡上林郷を賜り、氏神を祀り伴氏神社としたのが始まりで、大伴氏の没落後、徳大寺家により住吉神が祀られ、住吉神社となった。伴信友の「神名帳考證」によれば、「伴氏神社、今龍安寺にありて住吉と云う」とある。以来住吉社と呼ばれていたが、昭和17年、前身の式内社伴氏神社の称を加えて現在の住吉大伴神社に改称したという。この住吉大伴神社前の山側に市営住吉山墓地の石柱がある。横から80mほど登ると右側に石鳥居が見える。
 
 
ここに宇多源氏始祖追遠之碑がある。碑文に明治天皇は明治九年、華族の家系の分類を命じ、源雅信末裔の宇多源氏に分類された二十一家は同族規則を制定し、明治十年、山城国葛野郡谷口村朱山の始祖一条左大臣雅信公の墓所に石碑を建てた。
 
 
雅信公八百五十年忌の天保十三年(1842)、京都在住の数家が集まり、木の標識を建てたとある。宇多源氏の始祖源雅信の墓は朱山だとしている。この場所は京都市遺跡詳細地図によれば古墳時代後期の住吉山古墳群1号墳に当たる。龍安寺北東の一条天皇圓融寺北陵・堀河天皇後圓教寺陵は朱山古墳群(古墳時代後期)の南斜面にある。現在の行政区画では追遠之碑の場所は御室住吉山町、朱山古墳群は龍安寺朱山にある。しかも、仁和寺西北山腹第二十七番大日寺霊社の傍に石柵で囲まれた一大石塊があり、源雅信墓とも伝わるという。追遠之碑の北側は一部、森林伐採などされていたが、東側は小高い丘があり、五輪塔が見えた。
 
知らず知らずのうちに住吉山古墳群に紛れ込んで、墳墓に入った様である。慌てて小山を降りると龍安寺領の境石があった。この五輪塔は深仁法親王撰文并書により、御室と呼ばれた仁和寺二世門跡性信入道親王(三条天皇第四皇子)、七百歳遠忌の天明四年(1784)に新たに一塔を建てたとあった。安政元年(1854)作成された陵墓の位置と形状を見取図風に画いた「聖蹟図志」に、住吉社の北に、守覚・覚法之内中之御室覚行親王墓と記載がある。守覚は喜多院御室と呼ばれた四世門跡覚法法親王(白河天皇第四皇子)、覚法は喜多院御室と呼ばれた六世門跡守覚法親王(後白河天皇第二皇子)、中之御室は三世門跡覚行法親王(白河天皇第三皇子)で、昔、この住吉山古墳群の場所は仁和寺門跡の埋葬地だったのだろうか。「聖蹟図志」の京郊諸陵方位之図に龍安寺東側は昔此辺仁和寺之地とあった。いまの龍安寺朱山は、以前は仁和寺領だったのかも知れない。碑文の一類制定規則とある宇多源氏宗族条約には「宗族協和家政ヲ整へ履行ヲ正クシ勅諭ヲ永遠二服膺スヘシ。太祖ノ祭祀八月廿四日云々」とあった。

龍安寺・仁和寺付近の行政区画略図
 
① 住吉大伴神社②宇多源氏始祖追遠之碑③性信入道親王五輪塔
④轉法輪寺⑤蓮華寺
㋑圓融天皇火葬塚㋺一条天皇圓融寺北陵・堀河天皇後圓教寺陵
㋩禎子内親王圓乗寺東陵㋥後朱雀天皇圓乘寺陵㋭後冷泉天皇圓教寺陵
㋬後三條天皇圓宗寺陵㋣宇多天皇大内山陵㋠村上天皇村上陵㋷伝源雅信墓

宇多源氏始祖追遠之碑(碑文句読点で改行)
今上御極大業鬱興百度具挙顧軫  宸慮于族法命史臣釐系譜修舊典明治九年丕令華族分、類集合各奉其祖相匡正相保護以傳永世靡亡絶之患於是宇多源氏二十有一家合為一類制、定規則越十年八月同社協議建碑于山城国葛野郡谷口村朱山始祖一條左大臣公之塋謹案、
公諱雅信、
宇多天皇第九子一品敦實親王第一子妣藤原氏左大臣時平公之女也其嶽降延喜二十年譜、缺月日公夙以皇孫累官貞元中任左大臣叙従一位正暦四年七月二十九日薨寿七十有四贈、正一位世稱一條左大臣公高邁勤恪諳練世故早朝晏退克理機務旁善和歌蹴鞠工音律以、三朝台司位望隆重及薨朝野愛惜事具于家譜曁諸史公齢甫十七賜姓源朝臣實、朱雀天皇承平六年十二月一日也而来孫子蕃庶由其所出稱宇多源氏以別諸源云天保十三、年當八百五十年祭期星霜遼遠亟経乱離祀典久不挙宗族在京者僅数家権建木標表之今也、遭際昌代餘慶汪流奉戴  明詔同宗集結追遠帰厚鐫之貞石傳之不朽可謂盛事也哉乃掲大、要以告後裔其二十一家姓名録在碑背銘曰
 天潢之派 宇多之源 洋洋厥流  實顕實蕃  亂離紊綱  人紀喪部 
 同祖相忘
 孰禦外侮  皇有殷憂 誕修墜典 糸統分條  古道維闡  曰咨華族
 皇室羽儀 除爾習染  永衛本支  大明宣昭  和気発越  翼翼一宗 二十有一
 会盟肆筵 莫遠具通  克親克扶 克謀克軌  朱山之腰  豊碑森厳  奕奕祖光
 闔族具瞻 各淑爾止  勿誤厥途 千秋萬祀
 皇命弗渝
明治十年九月  正七位阪谷素撰文  従二位大原重徳題額  従四位黒田長知書

碑背銘(宇多源氏二十一家姓名録)
正三位   慈光寺有仲     正四位   大原  重實
正四位   五辻  安仲      従四位   綾小路有良
従四位   黒田  長知      従五位   京極  高厚
従五位   三宅  康保      従五位   京極  高富
従五位   京極  高典      従五位   森川  俊方
従五位   黒田  長徳      従五位   竹腰  正舊
従五位   庭田  重文      従五位   西五辻文仲
従五位   山崎  治敏      従五位   朽木  綱鑑
従五位   京極  高徳      従五位   亀井  茲明
                                               谷      益道
                                               毛利侃次郎
                                               建部   釥子

 

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京都 龍安寺石庭

2019-03-13 | 

京都北西部の名所旧跡を結ぶ主要道路、京都市道183号衣笠宇多野線と云うよりは、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺をめぐる散歩路「きぬかけの路」を龍安寺から仁和寺まで歩いた。その昔、宇多天皇が真夏の衣笠山(別名きぬかけ山)に白絹を掛けて冬景色を楽しんだとの古事から由来するという。龍安寺は相変わらずの人気で、外人が大勢いた。先ずは龍安寺北側にある後冷泉天皇、後三條天皇などの陵からと、山門から砂利道を右にいったが、途中で関係者以外通行禁止とあり、宮内庁関係者でもないので引き返して石庭に向かう。
 
 
石庭と呼ばれる龍安寺方丈庭園は何時、誰によって作られたか分かっていないが、「虎ノ子渡しの庭」「七五三の庭」とよばれていた。昭和五十年(1975)五月、ここを訪問されたエリザベス女王が称賛され、その美しさが世界に知られるようになったという。
 
特別名勝に指定された龍安寺方丈庭園(石庭)とは「本園ハ細川勝元カ寳徳二年徳大寺家ノ山莊ヲ請ヒ受ケ龍安寺ヲ建立スルト同時ニ眞相ニ命シテ方丈前ニ築造セシメタル砂庭ナリ。庭中數個ノ頑石ヲ布列スルノミニシテ一樹ヲ植エス世ニ龍安寺ノ虎ノ子渡シトス寛政九年本院火災ニカヽルモ猶ホ善ク古態ヲ存シテ今日ニ及ヘリ室町時代ニ於ケル特殊ノ名園トシテソノ保存ノ緊要ナルヲ認ム」「方丈の南庭であって、矩形の白砂敷に15の石を巧に配置した石庭である。独特の手法による枯山水として価値の高いものである」とは文化庁のデータベース情報にある説明です。作庭記は「池もなくやり水もなき所に石をたつること、これを枯山水となづく」だという。二か月前に石がたくさん使われた、醍醐寺三宝院庭園を眺めた後に、この石庭を見ると、実に質素な庭である。ここをなんど訪れても禅の精神的な美意識を感じられず、その程遠さにガッカリする。
 
 
 
方丈に入ると縁側に座って庭を眺めている大勢の人が視界にまず入る。石の数より人の数の方が断然多い。白い砂の庭にある石を数えた。ある一点から15の石が見えるというが、だいたい13個から14個ぐらいしか数えられない。15個の石を、左から5個.2個.3個.2個.3個と5ヶ所の島とみるか、5+2の7個、3+2で5個、最後3で7,5,3と数えるのか分からなかった。
黒川道祐の近畿游覧誌稿に「方丈ノ庭ニ石九ッアリ、是ヲ虎ノ子ワタシト云ヘル畳ヤウニテ、庭ヲ作ルモノ是ヲ手本トス」とある。九個というのは、平石を数えないのか、後から加えた石があるのか分からないが、砂をどけたら石の根張りの下が繋がっていたり、隠れていた石が出てきたら面白いと思う。どう贔屓目に眺めても非対称の石組が母虎が子供を咥えて川を渡っている様には見えなかった。作者の作庭の意図が抽象的で難解で理解できないのであれば、考えこむより、その場を直ちに立去るのが一番の解決法だと何かに書いてあった。
 
 
方丈の北側の小庭にある吾唯足知の四文字があるレプリカの蹲踞と日本最古だという赤地に白斑の小さい花を咲かせる侘助椿をみて轉法輪寺に向かう。
 
残念ながら、石川重正に嫁いだ幸村の娘が建立した真田幸村墓は非公開の龍安寺塔頭大珠院の中にあり、訪ねることは出来なかった。

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相国寺秋の特別拝観

2019-03-06 | 

2018年、秋の特別公開で拝観できたのは、相国寺の法堂、方丈、開山堂、それらに併設されている庭園。傍に同志社大学があるせいか、自転車に乗った学生がお寺の境内を通学路みたいに横切っていく。大きな緑の多い公園の中にお堂があるように感じる。臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹で、正式名称は萬年山相國承天禅寺、室町幕府三代将軍の足利義満により花の御所の東側に足利家の菩提寺として永徳二年(1382)創建された。義満は左大臣であり、中国風に相国(しょうこく)であることから、義満のお寺は相国寺と名付けたという。それにしても、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)や真如寺が相国寺の山外塔頭だとは気が付かなかった。

 
今回、相国寺の目玉はポスターにもあった「蟠龍図」と呼ばれる法堂の天井に描かれた龍の絵で、慶長十年(1605)、相国寺の法堂が五回目に再建された際、狩野光信によって画かれたという。案内の人がどの位置から天井を見上げても龍と目が合うと説明していた。天井を見上げると、どこが龍の頭だか直ぐに分からなかった。当然、頭が分からないのだから目と合うこともなく、上を向いていて首が痛くなった。大徳寺や妙心寺の龍に比べると少し迫力に欠けているように思う。この本堂(法堂)附玄関廊は国の重要文化財に指定されている。
 
 
相国寺開山堂の「龍淵水の庭」、昔、庭を流れていた水が「龍淵水」、そこから出ていた水路を「碧玉構」と呼んだという。色々な名をつけるものだと感心する。
 
相国寺の建物に足利家に関するものがないか探した。やっと足利の家紋、ニ引を1つだけ見つけた。方丈に展示してあった綺麗な観音菩薩の絵画にびっくりした。この絵の線が拡大鏡で見なければ分からないほど、小さな法華経の経文で全て描かれていた。写真撮影不可のため紹介できないのが残念だった。
 
境内に弁天社があった。この弁財天は延宝四年(1676)建立され、御苑内久邇宮邸にその守護神として奉祠されていた。明治十三年(1880)に宮家が東京にご移転された時に相国寺が朝彦親王より寄進をうけ、当所に明治十八年に移築され、平成二十五年解体修復落成したものだという。因みに東京の久邇宮邸はいま白金の聖心女子大学となっている。
 
弁天社の隣に宗旦稲荷社がある。境内に雲水に化けて住みついた一匹の古狐がいて、千利休の孫千宗旦に化けて茶席に現れ見事なお点前を見せたという相国寺に伝わる化け狐民話で、開運の神として信仰を得て宗旦稲荷として祠を築き、狐を僧堂の守護神としたという。
 
 
弁天社と鐘楼の間に明神の石板が二基あった。1つは「美(艸+屯+日)姫明神」、もう1つは三名の明神「相国薬彦明神、豆八明神、藤□明神」左の明神名は剥離していて判読できなかった。他所に豆八という狸を祀っている社もあるので、宗旦狐に対抗して豆八狸を祀っていたのかも。

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相国寺惣墓地

2019-03-01 | 掃苔

相国寺塔頭大光明寺と相国寺浴室との間に狭い横道があり、この先に相国寺の墓地がある。丁度、瑞春院の北側に当たる。Googleマップに藤原定家之墓の記号があったので、お参りという事で墓地に入らしてもらった。墓地に入って直ぐ左手に藤原定家、足利義政、伊藤若冲と歴史上の大物の墓が並んでいた。

 
 
相国寺の塔頭が室町期における足利家歴代将軍の香火所であったことから、慈照院は始め大徳院と称し、延徳二年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は義政の法号「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶大禅定門」から慈照院と改称されたという。足利義教の影堂として相国寺塔頭乾徳院を普廣院に改めた。その後荒廃したが、足利義政が再建、冷泉家の旧邸地が藤原定家の墓所を併せて冷泉家より寄進され、墓の管理を委託された。天明の大火の後、長く復旧が遅れ、嘉永元年(1848)五月に漸く再建、大正九年(1920)に旧鹿苑院跡の現在地に移転して今日に至っているという。藤原定家や足利義政の墓がいつ相国寺の墓地に移されたのかはっきりしないが、大正四年発刊の「京都名勝誌」にはそれぞれの塔頭に墓があると記載されているが、大正十五年発行の「古社寺をたずねて」に、慈照院足利義政の墓、普廣院藤原定家の墓は明治三十八年の墓地整理に当たって延寿堂の墓地に改葬されたとある。藤原定家、足利義政、伊藤若冲と現状の墓域になったのは、戦後の昭和26年の寺境内地積換地の時にでも整理されたのだろうか。この墓域の隣に長藩士戦亡霊塔があった。
  
長藩士戦亡霊塔は元治元年(1864)、蛤御門の変での長州藩戦死者二十数名の首を薩摩藩がこの地に葬り塔を建て目印としたものを明治四十年、毛利公が、この塔を整備したという。
傍に藤原頼長の首塚があった。
 
桜塚といわれ捨遺都名所図会にも記載があり「聖護院森の西東二町計にあり、是則ち宇治悪左府頼長の社地なり、塚上に小櫻を植えたれば世の人桜塚と呼ぶ実は左府塚なり」。横の絹絲紡績株式会社の碑文に、上京区東竹屋町の白川北殿東部の崇徳上皇と頼長を祀る神社の旧地にある紡績会社の敷地に桜塚と呼ばれ、藤原頼長の首塚と伝える三層の石塔があり、会社増築のとき、塚を発掘したが何も出なかった。その土と塔を相国寺に運び新たに墳塋と塔を完修し、その霊を慰めたとある。

長藩士戦亡霊塔福碑文
相国寺境内長藩士戦亡霊塔碑  元治甲子之変薩藩士與長藩士
戦於  皇城蛤門獲首二十餘級  乃葬於此建塔標之然経年所之
久世人知者太尠明治三十九年  山口県人桂半助偶見此塔報之
毛利公邸公聞之派人攷覈事実  或曰葬首二十一級或曰葬二十
九級而其姓名亦未得詳之葢湯  川庄蔵有川常槌等在其中也公
命修塔域寄祭資当寺永祈冥福  野衲勤記事由以諗後人
  明治四十年九月      現相国寺東嶽誌

藤原頼長首塚:藤原頼長墓副碑
絹絲紡績株式会社在上京区東竹屋町五十三番地蓋当白川
北殿東部有一古冢安三層小石塔頗為旧物称桜冢或云桜左
府訛宇治左府首冢也按此地蓋 崇徳上皇及左府霊社旧地
元暦元年四月十五日勅建至嘉禎二年以水害少移其東初保
元之乱左府負傷奔殞於奈良阪就葬差使検屍後贈太政大臣
則此地祠廟而非其墓歟事在吉記愚管抄百錬抄等中古荒廃
僅存此塔世人以為左府首冢都名所図会亦記其事而年代既
久少識者頃会社有増築之事以故準允発掘地中無一物乃卜
此攸運搬其土新築墳塋安塔完修更行法儀以慰其霊因建石
誌其事冀永以無毀損
明治四十年六月         絹絲紡績株式会社

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