大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

楓のような手を合せ

2009-07-23 | その他
「お手々のシワとシワを合わせて幸せ~」と言うテレビCMがある。
それを見ると「お手々のふしとふしを合わせて不幸せ~」って、
バカなことを言っていた。
フッと「楓のような手を合せ」という小書を思い出した。

楓のやうな手を合せ
血煙はさわと紅葉に志ぶき
秋陽西に傾きて晩鴉の声悲し
あわれ勝方山中一場の惨劇
誰か袂を絞らさらん

柴五三郎著「辰のまぼろし」のなか、会津藩士町野一家の自刃の
様子を記述した「勝方山町野一家の自刃」に納められている。
頭書に「楓云々血煙云々記者の形容に依て小書す」とある。

戊辰、若松城下の戦いで、勝方村に逃れた町野主水の家族が、
家僕の誤った戦況報告により、母きよ子、妻やよ子、姉ふさ子、
長女なを子(七歳)、長男源太郎(三歳)の五人が自刃した。

姉と母とは之を聞き自ら死後きたるを慨し、直に自刃す。
余の妻も直に幼児源太郎三才を刺殺し而て自刃す。
時に長女なを子七才はこの有様を見て幼心にも一度御城に入り、
祖父様の顔を拝し然る後母様の後を追わんという。依て、
祖父は討死成されし故、面会も叶わしと云しも聞かず、
然らば入城し得るよう東方に向て城を拝すへしと云えるに、
女は跪きて殊勝にも遥に東方と伏拝みける。(金子)豊之助、
涙ながらに心を鬼になし、首をば打落す。
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その夜の侍

2009-07-14 | その他
戊辰の鳥羽伏見の戦いの後、鳥羽伏見から大坂・紀州に
逃れた会津藩士の足跡を追いかけていて、西条八十が
昭和二年に発表した「その夜の侍」と題する詩のことを知った。

その夜の侍
              西条八十
宿貸せと
縁(えん)に刀を投げ出した
ふぶきの夜のお侍。

眉間にすごい
太刀傷(たちきず)の
血さえかわかぬお侍。

口数きかず
大いびき
暁(あさ)までねむってゆきました。

鳥羽のいくさの
すんだころ
伏見街道の一軒家 。

その夜、炉ばたで
あそんでた
子供はぼくのお祖父さん。

ふぶきする夜は
しみじみと
想いだしては話します。

「うまく逃げたか、斬られたか。」
縁に刀を投げ出した
その夜の若いお侍。
                (昭二・三)

少年倶楽部名作選の「短編少年詩ほか」(講談社昭和四十一年)に
収録されている。
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西伊豆の旧会津藩士

2009-07-10 | 會津
静岡県松崎町岩科に伊豆地域では最古の小学校として知られる
岩科学校が残されている。



明治十年四月、函南小学校から岩科学校訓導として着任したのが、
旧会津藩士山口昌隆、号を磐山といい、五十八歳の時であった。

伏見、奥羽で奮闘、維新後は開拓使会育英校で漢学の教員を務め廃校後、
伊豆にきて明治十六年に六十四歳に病没した。

明治二十五年、かっての門人達が師を追慕して天然寺に
「磐山山口先生之墓」を建立、撰文は旧仙台藩士岡千仞。



磐山山口先生墓誌銘
君諱昌隆称勇三号磐山姓山口氏世籍会津藩以文学用事伏見之戦列隊奮闘
奥羽之乱出戦各所維新以後来東京官于開拓使会有栖川宮与同志諸子開育
英校君列漢学教員校廃来伊豆為函南学校訓導後転岩科校病歿于明治十六
年二月六日享年六十四无子一女以考母受県賞君幼学於藩黌尋学於昇平黌
強記博聞厳于制行其在岩科設義塾授経学遠近来学惇惇教導無少捲色門下
諸子追慕不己将建碑紀徳請余銘銘曰
嗟呼戊辰事 余不欲明言 君尽忠所事 奮力矢石間 而大政維新 
不屑就仕官 授業於郷黌 隠居終其身 君出処大節 可不愧先賢 
   明治二十五年十一月        仙台 鹿門岡千仞撰
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会津藩士 旧姓上田元四郎

2009-07-09 | 會津
明治初期、静岡県西伊豆の近代教育に尽した旧会津藩士の足跡を探しに、
西伊豆の松崎町を訪ねた。松崎で教育に携わった会津藩士は西郷頼母、
林繁樹、山口昌隆、大嶋篤忠、墨田直水の五名。

明治五年(1972)三月、西伊豆一帯の子弟教育のため、近隣名主
依田佐二平、佐藤源吉、福本善太郎、奈倉惣三郎が協力して、郷学校、
旧江奈陣屋跡を利用して謹申学舎を開校して、当時、静岡学問所の
旧会津藩士林三郎の処に身を寄せていた保科頼母を招いた。

松崎町町制施行100周年記念して発刊された「松崎の人物史」に
大嶋篤忠の履歴が載っていた。(松崎小学校沿革誌)

生年月日 安政元年十月十一日
静岡県士族旧斗南藩旧姓上田元四郎
明治六年七月十三日 大沢学舎
明治十六年三月九日 江南黌

大沢村戸長の依田佐二平が自邸内に私塾大沢学舎を設立した明治三年五月に
旧会津藩士大嶋篤忠を招いたとある。

戊辰の戦いのとき、白虎隊より年下の少年たちで編成された西郷寧太郎を
組頭とする中軍護衛隊のなかに当時十四歳の上田元四郎の名があった。

上田元四郎こと大島篤忠が大沢学舎に招かれたのが、十七,八歳の時、
どうゆう伝手でこの西伊豆にきたのか興味は尽きない!
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