大佗坊の在目在口

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函館七面社脇戦死者墳墓地

2023-03-10 | 掃苔

グーグルマップで山上大神宮の場所を探していたら、神社の東側に史跡で「己巳役海軍戦死碑」があった。恥ずかしいが「己巳役」、なんと読むのか解らなかった。「己巳役(きしのえき)」とは、明治二年(1896)の箱館戦争の事だと云う。碑のある海軍墳墓地は市電「大町停留所」から函館で一番長い坂、弥生坂を約700m上った右側(案内板あり)奥にあった。墓地の標高約75m、平均すれば10度程度の坂だが、途中から急に角度がついて、スキーのジャンプ台を登るようで気持ちが萎える。この旧官修墓地はなんと呼ばれていたのか気になった。旧官修墳墓地はよく民博の研究報告「全国陸海軍罰墓地一覧」を参考にするが、函館の海軍墓地の記載はなかった。明治九年から同十三年までの公文書では、函館表戦死者墓地、函館七面社脇戦死者墳墓地、函館七面山海軍戦死者墳墓地といろいろあったが、明治十二年、海軍省から開拓使へ函館表戦死者墓地名称問合せに、開拓使は明治七年の地所名称区別により、海軍墳墓地として百二十五坪(縦十間、横十二間三尺)の図面を添付して回答としている。文政十二年(1829)奥州箱館之図に旧実行寺裏手の野道が七面山への道で、安政二年(1855)、箱館港市街地図の旧実行寺裏手に七面社の記載があった。


己巳役海軍戦死碑と追刻文
戦死碑の説明板があった。「ここは、明治2年(1869年)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府脱走軍に攻撃を開始し、5月11日箱館湾海戦で新政府軍軍艦「朝陽」は、旧幕府脱走軍軍艦「蟠龍」の砲弾を受けて沈没した。この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。建立年月は記されていないが、明治2年(1869年)に建立されたものと思われる。碑の石は、「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部である。高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えられていたものである。嘉兵衛が、貧民救済の目的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。護國神社(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じ亀石を割って作られたものであり、いずれも箱館戦争新政府軍戦没者を祀った記念碑である」。碑の左下に春日艦水夫上野太郎と追刻されている。
裏に追刻文があった。
余乗筑波艦航北海到函港也来吊此墓碑矣而碑中脱
春日艦水夫上野太郎姓名因茲追刻之於碑端
明治十六年十二月       伊東海軍少将誌
伊東祐麿海軍少将は元薩摩藩士で箱館戦争のとき、春日艦の副館長だったと云う。初代連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨は弟。
同じ墓地内に函館府在住隊の碑もあった。
 

「九名の姓名」と「明治二年龍集己巳五月十一日戦死于函港者也」とあり、箱館戦争の五月十一日の箱館網港海戦で沈没した朝陽艦中で戦死した函館府在住隊九名の姓名を石に刻したという。

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