大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

中根明校長排斥運動(二)

2013-04-24 | その他

徴兵令は明治二十二年に公布された大日本帝国憲法以前は太政官令によって定められていたが、明治二十二年二月法律第一号として徴兵令が公布された。第一條は「日本帝国臣民にして満十七歳より満四十歳迄の男子は総て兵役に服するの義務あるものとす」という国民皆兵の原則によるものだった。
ただし例外条項があった。学校関係については十三条に満十七歳より満二十八歳以下にして官立学校(小学校除く)、府県師範学校中学校、文部大臣が認めた私立中学校の卒業証書を所持したもので予備後備将校たる希望を有する者は志願により一箇年間陸軍現役に服することを得」また官立公立小学校の教職にある者にも服役の優遇条項があった。明治六年一月徴兵令常備兵免役概則の一条から十一条まで免役条項があり、また徴兵雑則並扱方に代人料上納による免除規定もあり合法的な徴兵回避が出来るようになっていた。
このため国民の兵役義務の平等化とは程遠いものだった。荒っぽく言えば、徴兵忌避にありとあらゆる手段が使われた。こんななか、下野新聞(大正十三年九月十三日付)「下野中書記が大正八年から卒業証書七十八枚を売ったことが発覚」(栃木県教育史年表)と報道、この偽造卒業証書が徴兵忌避に使われ、騒ぎが大きくなったことは前に述べた。下野中学校船田校長は創立者協議の結果、下野中学廃校を決意した。しかし内閣書記官という要職にあった長男船田中氏の奔走によって一旦は事なきを得たが、十三年十二月、病気療養中だった船田兵吾氏が五十七歳の生涯を閉じた。
二代校長には船田中氏が就任したが翌十四年三月、僅か三月半で退任した。栃木県教育史によれば官憲の圧力に抗し得ずとある。三代校長として烏山中学校長を退職した中根明を迎えた。作新学園の百年誌は「私学の建学精神を理解できない輸入校長の着任は、船田兵吾に教育された生徒たちにとって快く思う筈はなかった」とある。就任した中根校長は直ちに学業成績を順位別に発表し、成績不良の生徒二十五人を落第処分にした。当時の新聞はこれを中根の大英断として評価したが、校長事務取扱の修身授業中の失言問題や教職員解雇問題も絡み、これらを良しとしない生徒達が同盟休校、校長排斥運動へと発展していったが排斥運動は事前に知れ中根校長の排斥は不発に終わった。
この時、成績発表の用紙を撤去し破棄して中根校長叱責第一号の栄誉を受けることになった昭和二年卒の五十嵐栄次氏の「中根校長排斥運動」の思い出が百年誌に載っている。排斥運動は学校内外からの影響もあって、その気運が最高潮に達したころ、血判状が作られた。血が余ったので、半紙判用紙に「中根排斥」「校長排斥」と書き黒板に貼られた。ところが「中根排斥」五十嵐と署名入りにしたため、その写真が大きく引き伸ばされ、額に収められて校長室に飾り置かれた。陸上競技の新記録、兵式教練観閲最優秀に選ばれ、その度ごとに校長室によばれ、署名入りの写真を眺めながら「君という奴は偉いやっちゃのう」と褒められたり感謝された。私は兵吾先生に対する心服とは別の意味で、中根先生は忘れ得ぬ先生である」と書かれていた。卒業生の一人は、中根明氏は直情径行の人だったと述べている。中根校長は理ことわりに適かなったことを曲げるのを極端に嫌ったのだろう。中根校長は昭和三年三月で下野中学を退職、そのあと福島県史によれば東京の梅香女子校長になったとあるが、梅香という女子校を見つけることが出来なかった。

中根明校長排斥運動(一)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中根明校長排斥運動(一)

2013-04-22 | その他

大正十四年三月、烏山中学校を退職した中根明は、どういう経緯か判らないが、同年四月より宇都宮の下野中学校校長として赴任した。
この下野中学校は栃木県教育史によれば、宇都宮の英語を主とする私塾を明治十八年九月、校名を下野英学校と定め船田兵吾氏を校長としてスタート、明治二十一年九月、明治四年廃藩により黒羽藩校作新館の名を継いで、私立作新館と改称した。藩校作新館は勝海舟が書経の「作新民」により命名したという。同二十八年、省令により尋常中学作新館と改め、同三十二年、正式に中学校と認定を受け、私立下野中学校と改称、同四十四年三月、烏山中学校と共に徴兵令第十三条資格の認定を受ける。大正十四年三月より財団法人下野中学校と組織変更した。
創立者でもある船田兵吾氏が校長として心血を注いだ私立下野中学校の第三代校長として赴任したのが旧会津藩士の中根明だった。明治後半から大正にかけて全国的に学校紛擾が多発、下野中学校でも明治三十二年十月、文部省から正式に認可を受けて半年後に設備増設と教師処分撤回で不登校が発生している。
読売新聞大正十三年八月二十八日付け記事は「下野中学校の書記が卒業証書を売る」とのセンセーショナルな見出しで三百円から五百円で五十余枚乱発、警視庁活動を始めたと報じた。売買された下野中学校卒業証書が徴兵忌避に使われ、騒ぎは大きくなった。東京朝日新聞大正十三年九月一四日付け記事は「船田校長に令状執行、卒業証書廉売の事件で校長の不正も発覚、下野中学校不正卒業証書乱発事件は、愈々××書記の犯跡暫時判明すると同時に、校長船田兵吾氏も之に関連する事実判明十二日東京地方裁判所から令状を執行された為め、監督の地位にある栃木県当局者も捨て置かれず右の不始末を文部省に報告同校の閉鎖又は極度の厳罰を加へる手続に出でんとしたので同校では十二日職員会議を開き善後策を協議した結果、同校創立者にして三十余年間同校長の職に在った船田氏は同日直に校長の職を辞し、後任校長として元歩兵第六十六連隊長予備歩兵大佐××氏を推薦することとなり、其旨十三日本県当局者に許可を願ひ出でたが、同校経営は依然として船田氏之に当り、××大佐は同校の急務を救ふ為め校長の任に当たったものである。尚船田氏は目下病中で令状を執行されても之に応じ難い状態である」と報じている。船田兵吾氏の関連する事実とはなんだったのだろうか。監督者としての責任を問われたのか、それとも教育者としての信念を貫いた結果だったのだろうか。
百年誌(作新学院)は、某書記による卒業証書偽造について、地元の新聞はここぞとばかり書きたてた。船田兵吾氏と政治的対立にあった当時の県知事の干渉を受け、官尊民卑の風潮が強い時代であったため、兵吾氏自身には法的責任のない、ただ病気中の隙に付けこんだ一書記不祥事件ではあったが、校長としての監督不行届きを責められ、官憲の圧迫を一身に受ける結果となった。このため世評は甚だ悪化し、学校の浮沈にも関係してきたと記述している。事件が発覚したのが八月、同年十月この書記の裁判判決があった。異様な速さの判決である。同時に、この贋卒業証書を利用して一年志願兵に志願したものは軍法会議に移牒されることになった。

中根明校長排斥運動(二)
校長中根明

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

校長中根明

2013-04-10 | 會津

川俣英夫氏が創立した烏山学館から明治四十四年、私立烏山中学校に変わった時、校長に就任したのが旧会津藩士で農学士中根明であったことは前に述べた。中根明を知ったのは、「川俣英夫先生傳」と云う本に出会った事に依る。明治時代に地方で官立でない学校を経営維持するのは多額の費用を必要とし、経済的に非常に苦しい。この本に素晴らしいエピソードの記載があり、引用する。第何回かの卒業式場に父兄のひとりが、自製の障子紙を手にして壇上に立ち、「自分はこの紙を持参して、これから後川俣先生の本宅の障子を張ってあげようと思う、先生は年に千円も二千円も中学校へ寄附されるので障子は破れたまま張れないのである」と絶叫して降壇されたという。
校長として烏山に赴任した中根明は札幌農学校(現北海道大学)の第三期農学士として卒業(明治十五年七月)、その後は教職についている。明治三十年四月はまだ栃木県尋常中学校長であったが、どのような理由か判らないが、明治三十年九月に青森大林区署長に任官した。ところが官林貸下竝立木特売に関する手続き不備の責任を問われ、明治三十一年十二月非職となり、文官高等懲戒委員会の決議により明治三十二年十一月、免官となり、正七位の位記返上させられている。

(アジア歴史資料センターレファレンスコード A10110628700)
明治三十二年八月十六日附東京朝日新聞に「青森県野平予約払下取消事件の後報を聞くに当事者中村新助氏が該契約には取消すべき瑕疵なければとて取消命令書を書留郵便にて突戻したるより農商務省にては更に同地開墾の障碍たる樹木約四千円の払下を随意契約(五百円以上は随意契約を許さざるは会計規則の定むる所なり)にて取結びたる件を非とし当時の大林区署長中根明氏を懲戒処分に附したる上該契約は取消さしめんとの方針なりしが右の随意契約締結の責任者は中根署長上京中柴田林務官代理として此れに当り居たる由にて農商務省は又此処分を猶予せざるを得ざるに至り(柴田林務官を懲罰する能はざる事情ある由今以て其のままとなり居ると関係者の一人は物語れり)」との記事が掲載された。さらに同年十月二十七日附同紙に「大石氏農商務大臣当時の青森大林区署長中根明氏は目下非職の身分なるが曽禰農相青森県下山林払下取消命令に失敗したる復讐として今度懲戒処分に付せらるる事となれり情状重しとの事にて位記返上の命令までも発すべしと云へり」とある。記事が掲載された訳でもないだろうが、林務官柴田義雄も免官されている。ちなみに曽禰農相とは長州藩士宍戸潤平の三男の曾禰荒助です。事件直後に柴田義雄林務官を懲罰することが出来ない事情とはどんなものだったのだろうか。
免官後、岡山、福岡、栃木で実業に従事したという。明治四十四年から烏山中学校校長となった中根明は川俣英夫氏が亡くなった大正十三年の翌年三月、烏山中学校を退職、同年四月より宇都宮の下野中学校校長として赴任している。この大正十四年三月に高等官五等待遇公立中学校校長として叙従六位の叙位を受けている。

(アジア歴史資料センターレファレンスコード A11113480800)
下野中学校は今の作新学院で、大正十四年三月、事務員による卒業証書偽造事件もあり、今までの私立下野中学校から財団法人下野中学校と新組織に変わった時で、中根明校長は赴任早々、激しい校長排斥運動に見舞われることになった。

中根明校長排斥運動

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び烏山

2013-04-02 | 掃苔

栃木の烏山に出かけた。昨年は太平寺や龍門の滝に行った。下野烏山の医師で教育者でもある川俣英夫氏の奥さんが旧会津藩士蘆澤直道の長女房子である事をご教示頂き、今回は県立烏山高等学校(旧私立烏山中学校)や川俣家菩提寺の一乗院などを訪ねた。
 

川俣英夫氏については何も知らなかったが、幸いな事に、古書店をブラブラしていて1冊の本が目に付いた。昭和16年発行の「川俣英夫先生傳」と云う本で、皇紀二千六百年記念事業として編纂されたという。驚いたことに川俣英夫氏が創立した私立烏山学館から私立中学烏山学館を経て、明治四十四年、私立烏山中学校に組織変更したとき、初代校長に赴任したのが旧会津藩士で農学士中根明だった。中根明は明治二十三年に一高教授、その後、林務官、会津中学校長等を歴任して烏山中学校長(今の県立烏山高等学校)として大正十四年三月まで勤め、同年四月から下野中学校長(今の作新学園)となった。中根明を校長として招聘した川俣英夫氏の経歴が凄い。烏山藩学問所から東京英語学校を経て、明治十一年、帝国大学医学部別科に入学、同十四年医術開業試験に合格、十八年、警視庁雇検疫医から警察医となり明治二十三年警視庁を依頼退職して郷里で開業した。
 
以降、地域医療・教育に貢献することとなる。英夫氏が本庁内医務部に勤めていたころは、警視庁に旧会津藩士も多く、入江惟一郎、丹羽五郎、海老名季昌、角秀翁、藤田五郎(元新選組齋藤一)や蘆沢直道、内村直俊(直道の甥)が勤めており、英夫氏と蘆沢直道、内村直俊は顔見知りだった事になる。一方、中根明と内村直俊は京都黒谷にある会津藩墓地明治四十年修理の募金発起人に名を連ねており周知の間柄で、川俣英夫氏の烏山中学の校長に中根明を推薦したのは内村直俊だったのかも知れない。中根明は中根幸之助の三男で兄、直が開拓使に出使した関係で北海道に渡り、札幌農学校予科から本科に進み(4名のみ)明治十七年、3期生として卒業した。前年の2期生には内村鑑三、新渡戸稲造がいる。北大文書館年報によれば、中根明は京都、長野、栃木等の中学の教師を勤めている。大正二年、会津会会報に投稿した中根明によると、三男四男と共に中学校の校長住宅に住み、二男三女は妻に監督させ、京都の高等学校にそれぞれ入学の為京都にいかせていると近況を報告している。中根校長は会津会会報に、烏山について「此所は元三万石の城下にて、城山は山嶺にあり、町は山腹にある、四面殆ど山に囲まれたる一小都会に侯。旧藩校のありし一小山を切り広めて六千余坪の敷地を得、中学校を建設し、近傍一町五ヶ村の青年子弟を教育致し居り侯、生徒数は僅かに三百に過ざれども、皆質朴剛健、其の中には至極末頼母敷者有之侯」と書き送っている。高校には川俣氏の胸像があり、学校に断って写真を写させて貰う。

 
図書館から烏山高の始まりとなった川俣英夫氏が創立した烏山学館跡に寄り、
 
愛宕台の裾野にある一乗院の川俣家墓域に向かう。丁度、本堂の前にご住職がおられ、中根家について尋ねたがこのお寺の檀家さんには居ないとのことだった。

 
泉渓寺の墓域にも寄っていたら、予定していた帰りの電車に乗り遅れてしまった。
 


参考
「川俣英夫傳」「閉校記念誌寿亀ヶ丘に学ぶ」「百年誌・作新学園」

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする