大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

会津院内 正中石

2008-09-29 | 會津
会津若松東山町大字石山字墓山に会津藩主松平家墓所がある。
「此山高からずといへども満山松樹生茂り、蒼烟鬱々として」と
新編風土記の記述とおりだった。



墓山は南南西を向いており、碑石の亀首は北向きと、表石・鎮石との
向きが微妙にズレている。歴代藩主の埋葬場所の決め方等どうしたのだろう。








新編風土記に「享保十四年墓山の界域を定め東西二箇所に石を立て界を表せり
東西三百間、南北百四十九間」とある。
東と西の界域石、いま残っているのだろうか?

大規模な土木工事には、測量の起点となった基準石が必要となる。
この墓山にも基準石の正中石が今に残っている。
享保十四年、簗瀬三左衛門の名がある石原家文書と文化六年の
新編の記述とでは墓域の大きさに東西五十間の差がある。
八十年の間に地形に変化があったのだろうか?
現在の正中石と石原家絵図の正中石との位置は微妙に異なっている。




西之御庭の正之嗣子正頼公墓石



左奥に拝領妻(08/04/10記載)で有名な四代容貞生母
本妙院殿(伊知)の墓碑



石原家文書
正中石南北百四十九間
東西三百五十間
巽乾二百二十二間
坤艮百八十壱間

地磐石自是北墓山
自此石面到于墓山峯頭高四
三拾間峯周廻九百七拾四間
鳳翔院殿墓所百二十八間半
高□拾貮間半餘
正頼公墓所八拾五間高拾八間餘
正純公墓所九拾四間高拾五間餘


享保十四年巳酉十月七日
原田又助
牧原只右衛門
井深茂右衛門
田中三郎兵衛
簗瀬三左門
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会津藩士柴四朗

2008-09-20 | 掃苔
静岡県熱海の海蔵寺に、旧会津藩士柴四朗の墓碑がある。



幕末、東京湾防備のため警備についた会津藩士柴佐多蔵四男として
千葉富津の会津陣屋で生まれ、会津藩士として戊辰戦争に従軍、
のちに小説、佳人之奇遇を発表、数奇な人生を熱海にて閉じた
東海散士こと柴四朗の墓碑。墓碑は寺の墓域左手、丘の最上部にある。




このお寺に坪内逍遥夫妻の墓もあるが、この逍遥の邸の隣に
転居したのが東海散士、隣同士だったわけである。
陸軍大将柴五郎は弟。柴家代々の菩提寺は会津若松の恵倫寺にある。




東海散士碑文
我所思兮東海場欲往従之水 路難海端有國名扶桑俗與風
光□雅嫺婦々□王統垂萬世 昭□海名及避裔士重信義軽
未利小心翼々仰聖帝弧棹嘯 風琶湖船萬古含□芙峰□□
花香一日千樹春月高八百个 島秋此地英□□源洞隔天夜
々入吾夢仙登欲探循未□風 塵之中至秋仲月横大空千里
明風福近波達有馨夜寂々兮 望落々舩頭何堪兮夜情

東海散士柴四朗

碑裏
大正十一年九月二十五日逝
享年七十有一
川井たま建之

コメント (2)
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護国寺警部巡査戦死之碑

2008-09-12 | 會津
東京小石川護国寺、仁王門から真直ぐ本堂につづく石段にある中門、
不老門を潜り観音堂(本堂)を正面にみて、右側に幾つかの大きな碑がある。

この中に、明治十年、西南の役で戦死した東京警視第四方面第四分署員の
「紀念碑」がある。明治十三年一月建立、碑文の題額は東伏見嘉彰親王、
撰文・書は中村正直による。

碑表には「討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査従軍死之者二十人
同僚悼之碑記念碑」とあり碑裏には二十人の名が井亀泉により刻している。

戦死名
緒方惟典、  狩野山弼成、 喜多川亀太郎、 八重盛政尊、
高橋常太郎、 永井房之進、 川北悦介、   遠山錬三郎、 
小林明躬、  常木廣順、  上野太郎、  三枝吉廣、  
福井正利、  山口作次郎、 岩嵜 中 、  和田正一、  
籠楽正之助、 安楽正之助、 本郷雅郎、   関口孝久。

戦死二十名の中に、熊本木留で戦死した旧会津藩士常木廣順の名があり、
また戊辰後の会津高田謹慎者に名がある旧会津藩士永井房之進の名が
ある。同姓同名か?

この井亀泉は青山霊園にある旧会津藩士入江惟一郎の南摩綱紀撰による
「入江君之碑」も刻んでいる。

東京警視第二方面第一分署警部巡査之碑「表忠旌功」は愛宕神社内、
東京警視第六方面第一分署警部巡査之碑「戦死士招魂之碑」が青山霊園、
警視庁墓地の中に残っています。
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土津神社

2008-09-04 | 會津
会津藩祖保科正之公を祀る土津神社の社殿は、家老友松勘十郎が惣司となり、
奉行に木村忠右衛門,大沼市郎左衛門、棟梁に鷹谷弥十郎が任命された。

延宝三年(1675)八月完に完成。葬儀は延宝二年三月二十六日夕方から
正経公を迎え翌二十七日にかけて、山崎闇斎、服部左内、西郷頼母、
服部安休、井深浅右衛門、戸枝彦五郎、友松氏興が参列して行われる。


 

会津中将源君墓と刻まれた墳墓表石が建てられたのは六月十一日、
土津神墳鎮石と刻まれた頂上の鎮石は、十月十一日に建てられた。
今の社殿は明治十三年(1881)に再建された。

 


前の社殿は戊辰の八月二十二日、美禰山神社の社司が猪苗代の
亀ヶ城と会津の藩祖保科正之を祀る土津神社を焼いて退去した。

土津神社の御神体は鶴ヶ城に移され、その後、磐椅神社に仮遷宮され、
十二月十一日、猪苗代から斗南に向かい、十二月二十八日三浦家の御倉に
安置される。その時御神霊に共奉したのが、社司桜井豊記、長尾安之進、
鶇巣猪吉、秋山平治、長谷川兵治、樋口源介、青木平之介の七名。

明治五年より、長尾源治、林予平、森田七郎平、六角尚謙、五十嵐幸吾、
中島丈八、六人により土津神社地復古資金の募集が、旧会津藩領全域で始められた。

社地は明治六年に買戻しをしており、明治七年九月十六日、斗南から
猪苗代磐椅神社へ仮遷宮。社殿は明治十三年に再建され、七月二十八日に
仮遷宮先の磐椅神社から土津神社に遷宮されている。




本殿両側に、御末社東側に四社、西側に三社が建立されている。

東側
磐彦霊社 正之公二男正頼公 信彦霊社 御城代田中正玄
久彦霊社 家老井深茂右衛門 幸彦霊社 家老簗瀬三左衛門





西側
石彦霊社 正之公五男正純公 忠彦霊社 家老友松勘十郎
南側
進功霊社 初代土津神社神官服部安休




境内に正之公一生の御履歴、御徳行を書き彫った大きな石碑「土津霊神碑」がある。
撰文は山崎闇斎、筆は京都の上佐兵衛高庸。文字数、千九百四十三字。


 





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