大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

丸子 大窪山徳願寺

2018-06-28 | 

丸子の誓願寺から安部川に向かう途中、右岸の向屋地山の中腹に徳願寺というお寺があるのを知った。町中の徳願寺参道入口に行ったら、歩いて1kとあった。標高差約100m、かなりの急石段で、古い本には登り六町(654m)とある。
 
 
 
駿河志料に「大窪山徳願寺は今川義忠朝臣の室、北河殿菩提所なり、北河殿は伊勢備中守盛時時娘、北條早雲入道の姉、治部太輔氏親母堂なり、義忠歿後一族家臣騒乱せしに、幼主を抱き、家の傾廃せんとせしを旧復し、後に北河辺に閑居す、故に北河殿と称す、徳願寺での法諡は徳願寺殿慈雲妙愛大姉と云。慈雲夫人香花所なり」という。同書に「大阪より鐘銘の事陳謝として、片桐市正、同主膳正貞隆、大野修理亮治長等、駿府に下著すといへども、本多上野介が内意に依て、大神君の御憤りを憚り、安倍川を越ずして、丸子の徳願寺に寓居し畢ぬ」とあるが、駿河国新風土記に「はじめ徳願寺に居りて此所も駿府に近き所なればとて後に丸子なる誓願寺に幽居せしと云」とあり、徳願寺では駿府を見下ろすのを憚り、場所を移ったという話も伝わる。しかし三川後風土記編年集成等の書に「片桐且元徳願寺といふ小寺に居のよしを記す徳願寺は向敷地にありて府より近き所なれば、神祖の御気色をかしこみて此寺山中幽閑の地なればここに蟄居せしならん其時同しく来りし清韓長老(方広寺鐘銘書)の居たりし柴屋寺は此寺に近き所なるにも思合すべし又徳願寺誓願寺名の似たるよりしかあやまれるにや今徳願寺には片桐氏の居たりという小傳なし」とつれない。駿府政事録慶長十九年八月十八日、片桐市正到丸子之寺参着由云々とこれもそっけない。片桐且元がどこに泊まろうが、どこで亡くなろうが徳川にとってたいした事ではなかったのだろう。徳願寺の本堂の前に門番のようにアヒルの一団が昼寝していた。
 
 
 
徳願寺は標高120m位のところにあるが、ここから静岡市街、駿河湾、そして伊豆半島が一望に見える景色が素晴らしかった。
 
もっとも徳願寺境内から駿府城の方角がよく分からなかったが、気になったので家に戻り地図上で計ったら駿府城は北東の方向で、駿府城から見ると徳願寺は裏鬼門(坤:南西)にあたる。今川館が駿府城と同じ場所にあったとすれば、今川館の鬼門の方角(艮:北東)に今川氏関係のお寺がないかと探したら、今川義元の母、寿桂尼の菩提寺龍雲寺があった。徳願寺と龍雲寺を直線で結ぶと、いまの駿府城二の丸巽櫓の内側を通った。偶然なのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸子 大鑪山誓願寺

2018-06-22 | 

静岡、丸子の柴屋寺から南西の方向に約1k位に大鑪山誓願寺がある。この「大鑪」の読み方が難しい。誓願寺のさきにある大鑪不動尊へ向かう国道一号の二軒屋交差点にある道路標識は大鈩不動尊(おだたらふどうそん)とあったが、国土地理院地図の表記は大鑪(おおだたら)とある。市木武雄氏編集「梅花無尽蔵注釈 1」では大鑪山(だいろざん)としている。結局、なんと呼ばれているのか分らなかった。
 
誓願寺の創建は建久年間、源頼朝の両親追善のために建立されたと伝わる。天文年間の丸子城の戦火(今川家と武田家)で類焼した。しかし、永禄十一年(1568)、武田信玄が同寺を再建したと静岡市の説明にあった。駿河国新風土記に「古寺なりといひ傳れども中古の兵火にかかりて絶たるを今の関山文益和尚中興して今の宗の寺(臨済宗臨済寺末)とはなせしなり古の宗旨詳ならず」とある。
 
 
寛政重修諸家譜によれば慶長十九年(1614)八月、豊臣家大仏供養の事により、東照宮の機嫌を損ね、豊臣家の申し開きのために使者となったのが片桐且元であったが、府内に入ることを許されず、誓願寺に籠居していたという。豊臣方より反逆の疑いを懸けられ茨木に引き籠った。大阪夏の陣で豊臣家は慶長二十年(1615)五月八日に滅亡、諸家譜では「同年五月二十八日、駿府において卒す、年六十三、英宗元顕孝院と号す、鞠子の誓願寺に葬る」とある。秀頼が自害して僅か二十日後の片桐且元の死、病死だったのか、それとも自刃だったのだろうか。
 
 
片桐且元の墓所に向かう途中に「三浦氏 駿州横山城主味知雅楽之助正勝墓」と石柱のある味知家の墓域があつた。
    
 
姓氏家系大辞典に味知氏、「加賀石川郡に味知郷を収め、美知と註す」とあったが、駿州横山城は今川の被官となった興津氏の居城で、駿河の国人は今川没落後、信玄に仕え、武田滅亡後、家康に仕えている。味知雅楽之助正勝が横山城主(城守将)となったのは武田か徳川が駿河を治めた時期だったのだろうか。武田先方衆として三浦右馬介、三浦兵部の名が出てくる。家紋も「丸に横三引」、墓域の石柱に三浦氏とある。味知姓の本姓は三浦氏で、駿河三浦氏は三浦義村の孫、朝信の子孫だという。三浦正勝呈譜に雅楽助正勝は上野介範時が長男、貞勝、氏俊の三子なりという。「寛政譜」もこの系譜に疑問をもちながらも、正勝、今川義元に仕え、義元討死ののち、東照宮に仕え、駿河宇渡郡広野村に田宅を賜うとある。正勝娘を娶り養子になったのが直信で、広野村の宅地を譲られ、子孫彼地に住すとある。広野の三浦氏が味知姓に替わったのは、この頃で出来事であろう。鷹狩りの途中、家康が昼飯のため立寄った家臣の家で、食事と出された柿が美味しかったので、味知姓を授けられたとか、道案内をしたので道が味知に替わったという話が残っている。
 
本堂の裏手にモリアオガエルの生息地がある。産卵期に訪れたようで、オタマジャクシが孵っていた。
 
寺の駐車場の端に白い清楚な花が咲いている大きな樹があった。近づいてみると「なんじゃもんじゃ」の樹だという。「なんじゃもんじゃ」の花を初めてみた。和名は「ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ」というらしい。タゴはトネリコ(複葉)のことで、トネリコは「戸に塗る木」が転化したという。「なんじゃもんじゃ」は不思議な感じのする樹だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡丸子 柴屋寺

2018-06-14 | 

静岡市の葵区の南西側と駿河区が接する安倍川と宇津ノ谷峠との間に旧東海道、江戸から20番目の宿場、丸子宿(鞠子)がある。その北側、宇津山の麓に史跡名勝天然記念物指定の天柱山吐月峯柴屋寺の庭園がある。柴屋寺は「さいおくじ」という。慌てて字典を調べると、音で柴(サイ)とあった。自慢するわけではないが柴の音読みを初めて知った。また字典に柴漬(ふしづけ)というのがあった。柴漬け(しばづけ)は京都名産の漬物だが、柴漬け(ふしづけ)は柴や笹を束ねて海や湖川に沈めておき、隠れた小魚や小エビを獲るもので、似ていることから人を簀巻すまきにして水に投げ入れる事ともあった。「しばづけ」と「ふしづけ」ではえらい違いだ。
 
 
柴屋寺については文化庁の国指定文化財等データベース柴屋寺庭園の解説文を引用させてもらう。「柴屋寺ハ永正元年連歌師柴屋軒宗長草庵ヲ結ビ間居セシ所ニシテ吐月峯ノ名ニヨリテ多ク世ニ知ラル 同寺ノ庭園ハ宗長手記ニヨリ彼ノ自作ナルコトヲ肯定シ得ベシ本堂ノ西方平地ニ小池ヲ穿チ東北方ニ湧出スル清水ヲ引キテ之ニ注ギ池畔ニ樹石ヲ配シ西方ニ聳立スル天柱山ヲ巧ニ利用セシ借景園ナリ。昭和11年9月3日指定。昭和31年5月15日、滝囲いと表門の一帯を追加指定したが、近年この泉ヶ谷の地域には、いわゆる[[吐月峯]とげつぽう]の景勝を利用して旅館・料亭などが増加し、環境の俗化が目立ってきた。それで寺後の山林(竹林)のほか、借景として欠くことのできない天柱山をも指定し、宗長法師がこよなく愛した静寂閑雅な草庵の風物の保存に支障のないよう措置することとした」とある。
 
 
吐月峯柴屋寺は臨済宗妙心寺派、本尊は十一面観世音で、お寺で貰ったパンフによると「その庭園は宗長が自から禅味と詩魂を打ち込んで築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧に取入れた借景庭園」とある。文久元年(1862)、新宮高平によって著された地誌、駿河志料に「大永年中、宗長法師閑居の古跡にて、一休禅師、柴屋の扁額を賜ひ、寺号となれるならん、泉石は法師の作れる儘にて、石を七曜にかたちどり居る、庭中に手植の樹木も残れり、池に石橋あり、庭の乾方に墓あり、石檀の上に梅の朽木残れり。東の峰を吐月峰と号し庭中に平石あり、法師の月を待し石なりと云ふ」。
庭園の写真は西から東へ
 
 
 
 
柴屋寺を訪ねたのは、5月連休の前で、丸子宿附近から地元の人も観光客の影も形もなく、静寂そのものだった。柴屋寺の表門から中を覗くと、荒れ果てた山荘みたいで、入るのを躊躇する。データベースの解説文や駿河志料は自宅に戻ってから読んだ。借景庭園というだけの知識で柴屋寺を訪ねた。4.5月は草木の成長が一段と早い季節、西方にそびえるという天柱山が本堂からは庭の伸びた樹木で全く見えず、庭に配した七曜の石に墓一つずつ説明の木札があり、なにか刺身の盛合せの魚名の説明木札のようで、閑雅な庭の景色とは程遠かった。本堂の正面が正確にどの方向を向いているのかわからないが、西に天柱山、東の峰が吐月峰だとすると、月は東側本堂屋根の上か、繁った竹藪から現れ西側の樹木に隠れることになる。延暦山を借景とした京都の正伝寺を思い浮かべていただけに、趣がだいぶ異なってしまった。
 
柴屋寺庭園の良さを理解するのはかなり時間が掛かりそうである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡 松樹院から瑞龍寺へ

2018-06-07 | 

井宮神社から松樹院に向かう途中に松平忠明の墓所に寄った。Google地図で大体の場所は分かっていたが、住宅の軒先というか、庭先みたいな路地を入るのに躊躇する。
 
 
 
急な石段の先に墓所があり、横の説明板に「九州の大名の子としてうまれ、信濃(長野県)の松平家の養子となる。(信濃守)1798年幕府の命で北海道の奥地迄調査した」とあり、駿府城代となり、浅間神社再建の途中死去。浅間神社の木遣の音頭が聞こえるところに葬ってほしいということでこの地に墓をつくったという。これでは松平忠明って誰という感じ。寛政重修諸家譜にあり松平氏系図は九十家近い系図が記載されている。慈悲尾増善寺に墓のある松平勝政の出身にも手こずったが、駿府城代だという松平忠明にも苦労した。松平忠明(鶴次郎)の父、豊後岡藩八代藩主中川久貞は三河吉田藩主松平信祝(大河内松平氏)の次男で、久貞の四男、鶴次郎は旗本松平忠常(藤井松平系)の娘を娶り松平忠明を名乗る。義父忠常は信濃上田藩初代藩主松平忠周の孫にあたり、松平忠明二男忠学(栄二郎)は信濃上田藩五代藩主となり、藩校明倫堂を創立している。講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に、松平忠明、駿府で自害とあるのが気になる。忠明の墓の近くに、その死後、松樹院の境内に庵を結び、三年間墓守りをしたという家臣の廣瀬更山の墓があるとあったが、付近蜂がかなり飛んでいて近づけなかった。
 
松平忠明の墓を管理している井宮山松樹院智全寺は寺伝によれば、永久三年(1115)、井宮神社の別当寺院として創立、永禄三年(1560)、善蓮社大誉光公上人によりを真言宗から浄土宗に改宗して中興したという。松樹院の寺号も以前は「西照寺」だったが、現在は「智全寺」に替えている。駿河志料に境内に竹中半兵衛重治一族の竹中貞右衛門重賢の古墳があると記載があったが気が付かなかった。
松樹院のお隣が泰雲山瑞龍寺で、駿河国新風土記に「曹洞宗駿河七ヶ寺内開基は東照神祖御台所豊臣太閤の御妹旭御前瑞龍院殿光堂総旭大禅定尼なり」とあり、駿府志料に「草創詳ならず、寺記に曟時何宗旨たる事を知らず、永禄八年(1565)、能屋藝公を開山として、弊寺址を弘め、天正十八年(1590)太閤豊君の賢妹総旭大姉に肇すと見えたり、堯山清梵を中興と稱す」とある。
 
旭姫が亡くなったのが天正十八年、「肇す」とあるのは瑞龍寺の寺名の始まりの事だろうか。旭姫の墓は本堂の裏の中腹にある。
 
小さな石柵に囲まれた六層塔でビックリするほど貧弱な塔墓だった。笠も宝篋印塔の笠で色々な石を集めて墓にしたような不思議な墓碑で、しかも駿河志料に「端龍寺殿御寳塔并尊碑」とあるのに現存の墓碑には碑銘がなにも無く、不自然さを感じさせる墓だった。法名も「瑞龍院殿」なのか「瑞龍寺殿」なのかはっきりしなかった。
 
本堂に向かって右前に駿府切支丹の遺物ではないかと言われている切支丹燈籠、いわゆる織部型燈籠がある。戦後、前庭にあった池を整地した際に発見されたという。
 
また境内に芭蕉元禄五年の「けふばかり 人も年よれ 初時雨」の句碑があった。瑞龍寺から5・6分歩くと静岡浅間神社に着く。
 
 
 
境内に入ると観光バス5・6台が停まっており、外人さんで境内がごった返していて、次回ということで早々に退散した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駿府御囲堤(薩摩土手)と井宮神社

2018-06-01 | 

静岡駅からタクシーで井宮神社まで行って欲しいと云うと「みょうけんさん」ですかと返ってきた。薩摩土手の前の神社だと云うと、ああ「みょうけんさん」だねという。初め、井宮神社が地元では「妙見さん」と呼ばれているのかと思ったら「妙見山」だと言う。昔、妙見山井宮神社とか、近くの山が妙見山と呼ばれていたのだろうか。「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われている。この賤機山(171m)に連なる南側の丘が、今は三等三角点のある浅間山(140m)と呼ばれている。井宮神社前の薩摩土手で降ろしてもらった。
 
 
土手の説明看板に「静岡市史によると、慶長十一年(1606)、薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約四粁にわたって築堤したのが薩摩土手と言われています」とあった。駿河國新風土記に「籠鼻妙見山下より有渡郡中野新田に至るの大堤あり高三間敷拾貳間馬踏六間長貳千四百余間と駿府舊圖にみえたりこの堤は慶長年中安倍川の水流今の所に流され爲に築く所なりと云川表の方方面三四尺の石を積て駿府の城市の圍とす其石㊉を刻めるありて島津家の功役にて築く所なりと云傳ふ」とあり、さらに静岡市史編纂資料に「島津忠恒(家久)石網船三百艘を造り、五月百五十艘を駿河国江尻に廻漕した。是は去年七月幕府が江戸築造の石材木材を運ばん爲に、黄金百五十枚を給して造らしめたもので、實は大きな課役である。しかも石幷に材木御用付といへば空船ではなかった。それを駿府城築城の爲に半を割かせたものであって、積み來つた木石は小船にうつして巴川から北川に運び、石材の大部は安倍川改修に宛てたのであらう。是れ今も其の堤防に薩摩土手の名を冠する所以か」とある。薩摩藩の治水工事といえば、百名近い犠牲者をだした木曽川の「宝暦の治水工事」を思い出すが、薩摩側にも幕府側にもこの安倍川治水工事に薩摩藩が関わった記録がなく、駿府城拡張工事用三百艘分の石材木材のうち、百五十艘分を安倍川改修工事用に充てたものと思われている。井宮妙見下から弥勒まで約4kの間に、信玄堤と同じようにいくつかの霞堤を造ったという。弥勒地区は安倍川橋の傍にある安倍川餅元祖「石部屋」なのかがあるところで、今回、寄れなかったのが残念だった。
 

薩摩土手の起点となっている井宮神社は駿河國新風土記によると「所祭瀬織津姫也この社今に井宮大明神と称して籠鼻山妙見社の地主と称して当村の産土(うぶすま)なり」とある。一方、駿河志料に「井宮神社鎮座の年暦詳ならず、風土記云、祭所、湍織津姫也と見え、諸郡神階帳に、従五位上大井口地祗、とある神社なるべし。この地は、安倍川の辺にして、安倍有度二郡の水田に灌ぐ、用水に安倍川を堰入、水分の地にしあれば、此大神を齋奉り、井宮とも、大井口神とも称し申せるならん、古へは籠山の地宮地なり、近世妙見堂と同所に鎮座す」とやっと妙見さんが出てきた。
 
 
徳川家康は妙見大菩薩を信仰厚く、三河国内津山より別当の妙見寺に勧請し、一宇の草堂を建、内津山と号したと言う。瀬織津比売は速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売とで祓戸四神といい、主に祓神や水神として知られる。境内に家康が「臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され石合戦見学地と伝えられている」とあった。
 
合戦でもなければ、殆どが神事による印地打ちの石合戦。竹千代の時代に妙見宮はあったのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする