甲州道(県道78号御殿場大井線)から弘済寺に向かう小道、地元の人が付けたのか、通称大門通りのかどに石仏石碑群がある。
道路側左から浅間大神、堅牢地神、南無阿弥陀佛、単体と双体の道祖神、木食観正 南無大師遍照金剛の石仏石碑と向かい側に四国八拾八箇所順拝二世安樂の石碑があった。農地開墾や道路整備工事等により石仏石碑を一か所に集めたのだろうか。石仏の最初に在った場所が不明となり、村と村の境目や古道の位置が分からなくなってしまうのは残念です。浅間大神碑も最初は富士山が眺望できる見晴らしの良い場所にあったのかもしれない。堅牢地神は「地神」とも呼ばれ、辞書によると「大地をつかさどる神。万物を支えて堅牢であるところからいう」という。地神と堅牢とを習合させ、より強力な神にしているのだろう。ここのある南無阿弥陀佛には九十一歳 唯念(花押)がある。唯念上人は江戸時代末から明治初期に活躍し、箱根山麓周辺の人々に念仏を広めた。この唯念念佛碑は九十一歳とあるので明治十三年(1880)、唯念上人入寂により造られたものなのか。相模では唯念上人か徳本上人の書体での六字名号碑がほとんどだという。単体道祖神と双体道祖神と右端が大日如来の別名でもある木食観正 南無大師遍照金剛碑、文政二己卯年(1819)二月現住實乗代造立之とある。木食観正は小田原を拠点に、加持祈祷など布教を行い小田原上人とも呼ばれた遊行僧、この碑を造立した實乗は弘済寺世代、文政十二年(1829)大阿闍梨法印實乗で、弘済寺の本寺、國府津の寳金剛寺二十七世を務めている。向かいにある石塔、四国八十八箇所巡拝二世安楽の二世安楽とは「現世の安穏と来世の極楽往生」を願うことだそうです。色々な民間信仰の石仏石碑を一ヶ所に集めてあるのは珍しい。弘済寺から弘行寺に向かう途中、地図に載っていた福泉公園内の善能古墳(福泉善能古墳)に向かった。
弘福(里道)通りと云う横道があり、曲がった先に複数の石祠と木花開耶姫命の石碑があった。風土記稿弘済村の項に村持ちの山神社や山王社があったと記載されている。この境内に祀られていた石祠と石碑なのだろうか。弘福を福泉と勘違いして、この近所をウロウロしてしまった。やっと公園にたどり着いたが、古墳らしきものは見当たらず、左奥に草がぼうぼうと残っている円墳らしき場所があった。
たぶんこの半円状の小山以外に何もないので、これが善能古墳跡かとガッカリしながら雨坪の中世寺院、法華宗弘行寺に行く。
雨坪(あまつぼ)という珍しい地名の由来は諸説あるらしいが、新編相模風土記稿に「古壺二口あり、一は公に献りて御茶壷となり、一は村内にありしが今は失えり。この壺宇治へ往返の時、小田原寓宿の夜は必雨ふるとぞ、村名はこれ等に拠りて起りしならんと云う」とあり、さらに「弘行寺 関本山と号す、弘安五年(1282)、日蓮甲州身延山より武州池上へ赴く時、少時当所村民の家に寓宿あり、當寺其頃迄は不動堂なりしが日蓮爰に止宿の際、興立して一寺となし地名に因て関本山と唱へ弘安中の起立故、弘行寺と称す、故に日蓮を開山とす」。日蓮は病気療養のため身延山から常陸に向かうが、その途中、武蔵国の池上宗仲邸で亡くなっている。ここ弘行寺に徳川家康側室で、紀伊徳川家藩祖徳川頼宣と水戸徳川家藩祖徳川頼房の生母、お万ノ方(養珠院)の母(性殊院妙用日理)の墓という小さな五輪塔があった。
風土記稿は「養珠院殿母堂、当寺に葬せし来由詳ならず」と素っ気無い。
足柄神社前バス停傍の神社への急な参道を見て、ここを上がるのかと後悔した。後で地図を調べたら、標高差約40m、距離160mあった。参道を登りきり足柄古道にぶつかった所に神社があった。
足柄神社は風土記稿に「古は足柄峠に鎮座し足柄明神と号せり」また「其後矢倉ヶ嶽に遷座せしかば是より今の神号矢倉明神社を称す」とある。明治中期には足柄明神と矢倉明神の名が併用され、昭和四年(1929)、足柄矢倉大明神、昭和十四年(1939)に足柄神社となる。昭和四年竣工の日本海軍妙高型重巡洋艦の3番艦が足柄と命名され、乗船の水兵が多く参拝したことから足柄の社名が定着した。昭和34年建立された由緒碑によれば祭神は日本武尊、現在の本殿は欅の素木仕上げで慶応二年(1866)、建築されたものだという。
境内に海上自衛隊の護衛艦「あしがら」の説明板があったのには驚いた。足柄神社のお札が護衛艦「あしがら」の艦内に祀られていて、足柄山の金太郎があしがらのマスコットになっているそうです。
足柄神社参道の反対側にある湧水が豊富にあふれ出ている弁天社を祀る巌島弁天池に寄った。
弘済寺に向かう途中、松田署苅野駐在所前の山側に斜めに入る坂道が足柄道(小田原から沼田、関本、矢倉沢、足柄峠から甲州に抜ける道)で、駐在所から100mほど先の道端の地蔵堂を化粧地蔵(白地蔵)と呼んでいる。
新編相模風土記稿に「祈願する者、必ず白粉或胡粉をもて、佛面を塗抺するが故、此名ありと云」とあった。中央に化粧地蔵、向かって左に南無観世音菩薩、右に地蔵菩薩があり、周りに古そうな五輪塔、馬頭観音、地蔵か道祖神か判らない石仏もあった。この化粧地蔵の附近を化粧坂といっていたという。
弘済寺がある地区の地名を弘西寺といい、風土記稿に「弘西寺村、弘西寺(寺名は西に済に作る、同音なるにより、西に作りしならん)所在の地なれば村名とす」とある。弘済寺と云う寺があったので、一文字替えて村名にしたというが、なんで替える必要があったのだろうか。
右)法雨山主 真海書「佛法非遥心中即近」額
弘済寺は狩川左岸、甲州道側にあり、東寺真言宗で山号は法雨山金剛憧院、国府津の寶金剛寺末で応永十六年(1409)栄海中興と伝わる。地蔵堂の脇に石仏が一列に並んでいた。県道78号(御殿場大井線)から弘済寺に向かう小径に地元の人が立てたのか大門通りの看板があった。道なりに進むと怒田にあるアサヒビール神奈川工場に出てしまう。風土記稿に苅野岩村の項に「村内矢倉明神社地の西北に、流鏑馬の馬場と唱へ、兩側に老松列立せし所(長一町許)、又南方に古松七株並たる小徑(裏大門と云)、共に足柄古道の遺蹟にて、往昔矢倉澤町の古道に、續きたる路次と覺ゆ、又村南にも、松並木二所あり、是彼古道の殘れるならん」とあり、大門通りは松田、怒田から矢倉沢に抜ける甲州古道に通ずる道だったのだろうか。甲州道と甲州古道を混同してしまう。足柄上郡誌によると「小田原宿より甲信駿への往来を甲州道と称して、下郡足柄村北ノ久保より岡本村沼田に入り矢倉沢を経て駿州竹ノ下村に達す」とあり、「足柄下郡国府津村より西大友に至り、曽我村、下大井上大井、金子、金手等の村を経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、延澤、千津嶋、怒田、苅野等の村々に掛り矢倉沢関所前の道に合す、これを甲州古道と云う」とあった。
伊豆箱根鉄道大雄山線の始発小田原駅から21分で終点の大雄山駅に着く。単線なので上り下りとも21分で運行している。
大雄山駅に隣接しているバス停の伊豆箱根バスのバス停は大雄山駅、4番3番乗場は箱根登山バスのバス停は関本、その後の富士急バス停は大雄山駅バス停となっている。一所にあるバス停名が異なるのは奇妙な感じがする。小田原に転居した時、この関本というバス停の場所を探すのに苦労してしまった。伊豆箱根鉄道は西武グループ、箱根登山バスは小田急グループと別れている。小田原駅から箱根地区へのバスも伊豆箱根と箱根登山と殆ど同じ路線を運航しており、それぞれ専用のクーポンを発行しているが、相互性がなく伊豆箱根バスと箱根登山バスの区別がつかず利用できずに戸惑っている観光客を多く見かけた。何とかならないのだろうか。小田原から足柄峠に向かう旧矢倉沢往還(県道78号線)の狩川支流、内川に沿った矢倉沢岳の南麓にある足柄地蔵堂にいった。
江戸幕府は東海道の箱根に関所を設けたが、その東海道の脇街道五ヶ所にも関所を設けた。海岸熱海道は根府川関所、箱根裏街道は仙石原関所、酒匂川上流、奥山家道(おくやまがみち)の谷ヶ村関所(谷峨駅傍、県道727号と76号交差付近)、川村関所(安戸隧道、県道726号と76号交差付近)、そして矢倉沢往還は矢倉沢関所の六ヶ所を小田原藩の管理とした。この矢倉沢村の関所から上流に約3kの所に地蔵堂がある。風土記稿に「往古、駿州仁杉(御殿場市)に杉の大樹あり、霊木の聞えあれば其木を伐り当所及駿州竹ノ下村、当国板橋村の三所に、一本三体の作作り置と云」あり、本尊の地蔵菩薩立像は秘仏として地蔵堂裏の収蔵庫に納められ、鎌倉時代作の県指定文化財となっている。地蔵堂から奥に400mほど坂道を登った所に金太郎の生家跡と金太郎が遊んだという「たいこ岩」と「かぶと石」があった。
大正十三年発行の足柄上郡誌は「坂田金時の遊戯せし金葢石と称するものあり自然石にて横四尺許厚一尺許あり」とあり、また「金時は酒匂の郷士阪田金次(或曰坂田衛門義澄)の遺児にて其母豆州三島明神に平産を祈り此の山中に住居し阪田の家を再興せんとしを源頼光に知られ公時と命名され武士となりし者なり」と記載している。なんだか金太郎が実在の人に思えてきた。傍に湧水を流して保温し栽培する「水かけ菜」を金太郎の畑として栽培していた。
左)秩父のしゃくしな漬 右)御殿場の水かけ菜漬
塩で漬け込む秩父のしゃくし菜も水かけ菜と同じアブラナ科の野菜なので水かけ菜漬が少し酸味がつよいものの、ほとんど同じ味がした。バスで足柄神社前バス停まで戻る。