天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『ローマ人の物語〈XV)ローマ世界の終焉』逃げるユスティニアヌス皇帝を叱る皇后テオドラはアマゾン末裔

2011-09-18 16:02:22 | 日記
今日の続編日記は、今再読している塩野七生著『ローマ人の物語〈XV)ローマ世界の終焉』に登場する東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の皇后テオドラのことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、前の日記で、『今回トルコ旅行をして、アマゾン発生地・カッパドキア地方から、このアマゾン伝説に繋がる遺物・出来事・体験に、私はまったく残念ながら遭遇しませんでした。』と書きました。しかし、塩野七生氏の著書に出てくる西暦527年東ローマ帝国の皇帝になったユスティニアヌスの皇后・テオドラのことを思い出して、今再読しています。
そして、このテオドラが伝説の”アマゾン”の血脈を引き継ぐ女性ではと、私は確信しました。以下にこの著書から、テオドラに関する記述を引用・掲載します。
『ユスティニアヌスは、不思議な人であった。・・そのうえ、従来の慣習には捕われない面もあった。テオドラという名の踊り子を愛したのだが、東ローマ帝国では、元老院議員と下層出身の女を禁じている。ユスティニアヌスも元老院議員になっていたのだが、美しく勝気で魅力的な女を妻にするのに、帝国の法律のほうを変えたのである。皇帝になって以後も、同じように行動している。テオドラを、皇帝の単なる妻ではなくて皇帝とほぼ同格の皇后にするのを強行して、重臣たちの眼を丸くさせることになるのだ。・・北アフリカ進攻の一年前に、ニカ(Nika)の乱の名で有名な暴動が首都コンスタンティノープルで起こったときのことです。・・三万もの暴徒に皇宮に迫れて、五十歳になっていながらユスティニアヌスは恐怖に我を忘れた。皇宮の官僚たちの進言で、皇宮を逃げ出すことに決めたのである。その彼の前に立ちふさがったのがテオドラだ。皇后は、逃げ出すとは皇帝たる者の振舞いではないとユスティニアヌスを叱りとばし、ベリサルウスに鎮圧を命じよと言って一歩も引かなかった。・・ビサンチン帝国の歴史上、最も有名な皇帝はユスティニアヌスである。東方(オリエント)色が強くなる一方の東ローマ帝国で、血筋は良いが性格となるとはっきりせず、女らしく温和で子供を生む能力はある女たちならばあふれていた社会で、テオドラのような女に惚れこんだのだから愉快だった。』
塩野七生氏は、同性だからテオドラを選択したユスティニアヌスを”愉快”だと評しています。異性の私には、ユスティニアヌス皇帝の深層心理には、古代ギリシ神話の”アマゾン神話”が生き続けており、アマゾネスにとても強い”憧憬”があったのだと思っています。
だから、古代エフェソスで1か月開催されたアルテミスの祭りに集まった踊り子と同じDNAを持った女性として、東ローマ帝国(注:当然そのエフェソスも領地内)ユスティニアヌス皇帝は、下層出身の踊り子テオドラを自国の法律を変えてまでも、自らの皇后にしたのです。
しかし、現在私が知っているストリップ劇場の踊り子嬢の中で、このようなテオドラのような男まさりの勝気で魅力的な女性は、残念ながら今のところ出現していません。その背景となる時代がまったく違うから、単純に現在と過去を比較できませんが、私にはとても悲しい現実です。
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『乳房論』記述カッパドキアに暮らす弓を引けるよう右側乳房切り落とした伝説のアマゾン痕跡出会いたかった

2011-09-18 13:58:39 | 日記
今日の日記は、今読んでいる著書『乳房論―乳房をめぐる欲望の社会史』( マリリン・ヤーロム著 平石律子訳 1998年トレヴィル刊)で書かれたギリシヤ神話”アマゾン”伝説のことです。
この著書には、今回トルコ旅行で訪れた”カッパドキア”が登場するとても興味深い記述があります。以下に、その記述一部を引用・掲載します。
『アマゾンは軍神アレスの末裔だという伝説的な女性たちで、小アジアのカッパドキア地域に暮らし、狩猟の神アルテミスを崇拝していたとされる。アマゾンは女王が統治する、女性だけの社会を構成しており、一年に一度子孫を残すために他の種族の男たちと交わった。この、年に一度の交配で男の子が生まれると、捨てるか去勢して奴隷にした。女の子だけが大事に、戦士として育てられた。アマゾンが実在したかどうかを歴史的に証明するのは不可能だが、紀元前五世紀頃の古典的なギリシヤ文学では、アマゾンは当時の女性としてあるべき姿の対極に位置する存在として描かれている。・・乳房の歴史から見ると、弓を楽に引けるように右側の乳房を切り落としていたという言う伝えから、アマゼンは特別な位置づけをされる。語源学者によると、アマゾンという名前はa(~がない)とmazos(乳房)というふたつのギリシヤ語に由来すると通常考えられている。・・仇敵ギリシヤ人と戦うアマゾンは、たいてい片方の乳房を出し、もう一方の乳房を衣で隠している。・・命を与える力を持つ乳房は畏敬の念を集める一方で、女性の力を恐れる男性の手や自然の脅威による破壊には極めて弱い。女性は自分たちの乳房に投影された聖なる、そして悪しき力のイメージをそのままアマゾンから感じ取る。アマゾンたちの象徴的で文学的な運命が、現実に自分たちのものとなりかねないという警告を受け取るのである。』
添付した写真は、この著書に掲載された『ギリシヤ人とアマゾンの戦い(サロニカの石棺、古代ギリシヤ時代、2世紀、解説文:ギリシヤ美術のなかでアマゾンは、たいがい「良い乳房」をあらわにし、切り取られた乳房を衣類で覆った姿で描かれる)の一部です。
この著書のマリリン・ヤーロムは女性だから、女性特有の感性で、伝説の”アマゾン”を語っています。でも、私は、彼女が感じた”悪しき力のイメージ”を、この”アマゾン”からはまったく感じません。また、今回トルコ旅行をして、アマゾン発生地・カッパドキア地方から、このアマゾン伝説に繋がる遺物・出来事・体験に、私はまったく残念ながら遭遇しませんでした。
それは、それだけ、この小アジア地方が”東西文化の交差点”であり、常に異民族による支配・同化が、何度も繰り返されていた証左でもあります。しかし、私は「現代のアマゾネス」女性に巡り会える期待を、今回のトルコ旅行中、密かに抱き続けましたが。
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