天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『ヴァチカン物語』塩野氏語る聖職者調整なく神と直接結んだプロテスタントは狂信的に暴走す親衛隊と同関係

2011-09-05 21:30:26 | 日記
今日の日記は、今読んでいる塩野七生・石鍋真澄ほか著『ヴァチカン物語』(2011年・新潮社刊)のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
この著書の冒頭に塩野七生氏が『ヴァチカンで考える』を寄稿しています。この含蓄に富む談話に、私の身に起きた悲しい出来事の根本的な原因と思える、私がとても共感できる記述がありました。以下に、その記述の一部を抜粋・引用します。
『キリスト教会は、長い歴史の中で自らが犯してきた過ちを、何百年も経ってから、あれは過ちでしたと認めています。たとえば、1,000年前の十字軍、400年前のガリレオ・ガリレオの裁判がそうです。これほど重大な過ちを犯した場合、普通の組織であればトップが責任を問われてしかるべきでしょう。しかし、キリスト教では、・・そういったことは起こりえない。・・精霊とキリストと神は三位一体ですから、法王を代理人として選んだのは神である。神に過ちはあり得ないし、ましてや責任を問うことはできない・・。こういう考えのもとに、キリスト教会はやってきた。・・とはいえ、同じキリスト教ならば、プロテスタントよりはカトリックの方が、バランスが取れていると私は思います。なぜなら、カトリックは聖職者というプロの階級を通して神と信者がつながっている。ところがプロテスタントでは信者と神が直接つながりますから、プロ(聖職者)による調整が行われず、信者は「自分が聞きたいと思う神の声」を聞いてしまう。これは非常に危険なことです。私のもっとも嫌いな「狂信」へと暴走しかねない。・・神と直接結ぶことがどれほど危険か。たとえばホロコーストは、カトリック世界では起こりえなかった悲劇だと思います。・・さらに言えば、人間の世界って、ちょっとチャランポランなほうがバランスが取れて良いと思いますけどね。水清ければ魚棲まず、というでしょう。』
私は、約2年前、あるストリップ劇場某踊り子嬢の応援で独善的な教義を信奉する一部親衛隊に、劇場からの理不尽な迫害・排他処置を受けました。今、塩野七生氏の記述を斟酌すると、この踊り子嬢と親衛隊の関係は、この著書で書かれた”狂信へと暴走するプロテスタント”にとても似ている、いや全く同じと私は強く得心しました。
何故なら、この劇場の他の踊り子嬢は、応援隊との間に、劇場を運営する劇場興行主が間違いなく介在しているのに、この某踊り子嬢は、自分の親衛隊の一人に自己のブログ運営を一切任せ、その者がこの劇場HPの運営して劇場まで牛耳っています。二者の間には、劇場興行主がまったく介在しておらず、某踊り子嬢とその親衛隊が直接結ばれているのです。
その判りやすい事例として、某踊り子嬢のブログ日記が更新される時、この劇場HPの某踊り子嬢ブログ欄も一時的に消去され、そのブログ投稿が完了し終ると、その劇場HPのブログ欄が再び復活するのです。それが一度でなく何度も繰り返されています。
だから、劇場世界の応援で独善的教義を信奉するこの親衛隊は、塩野七生氏が言及した”私のもっとも嫌いな「狂信」へと暴走しかねないプロテスタント”とまったく同じ組織だったのです。
悪しき人間の行うことは、古今東西を問わずまったく同じ現象から引き起こされていると、私は今強く得心しました。
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