まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

オーストリア皇帝カール1世皇女 エリーザベト

2011-06-10 21:20:18 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
身分を失った一家の哀れ・・・
カール1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ハインリヒ・フォン・リヒテンシュタイン夫人


1922~1993

エリーザベトは、カール1世とツィタの三女です。

            
1922年にカールが亡くなった後、ツィタはスペイン王アルフォンソ13世から招待をうけ
一家でスペインに渡りました。
エリーザベトはエルパルドの王宮で生まれました。

一家はその後ビスケー湾のレケイティオに住居を与えられて6年間過ごしました。
しかし経済状態はあまりよいものではなかった…というか苦しいものだったようです。
一家の主な収入は個人的な財産やコレクション、葡萄園から捻出されていました。
他のハプスブルク家のメンバーは、自分たちにも収入をまわすようにやいのやいの言うし
定期的に泣きついてきて融通してやらなければなりませんでした。
家長の一家も楽じゃないですね。

1929年に移り住んだベルギーでは、一家は近所の人たちと親しく付き合い
皇子たちもベルギーの大学に通ったりして、やっと平和を手に入れたように思えましたが
1940年にナチスが侵攻して来て避難しなくてはいけなくなります。
ハプスブルク家なんか捕まえたら、ヒトラーはどんな目に遭わせるかわからないものね。

ポルトガルでヴィザを発行してもらった一家はアメリカに渡りました。
アメリカでもロングアイランド → ニューアーク → ニュージャージー → ニューヨークと
忙しく動き回ったハプスブルク家の皆さんは、カナダのケベックに落ち着きます。

一家はオーストリアからの一切の収入源を断たれて財政は一層厳しくなりました。
私はツィタのところで
“ 王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。” なんてことを
書いてましたが、それは大間違い!!
ツィタはタンポポでサラダを作ったり、ほうれん草の代用に使ってたっていうんだから…
申し訳ございません、とんだ先入観でした
ブルボン家出の皇后体験者が…大変な境遇と向き合ったものです。

第二次大戦中、エリーザベトの兄弟たちは戦後を見据えて奮闘していました。
長男オットーはルーズヴェルトに面会してハプスブルク家の重要性を訴え
次男ロベルトはロンドンで代議士になり、三男フェリクスと四男カールはアメリカ兵に、
五男ルドルフはオーストリアに密かに入国して反体制派を後押ししました。
一家が一丸となってお家再興に励む…これも母ツィタの頑張りがあったからかもしれません。

エリーザベトというよりは一家のエピソードが多くなっちゃったけど…

エリーザベトは1949年にリヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世の従兄弟にあたる
リヒテンシュタイン公子アルフレドの五男ハインリヒと結婚しました。
1993年に亡くなっています、つい最近ですね。
お子様は5人生まれていまして、長男の方以外は存命中のようです。

ハプスブルク家は遠い昔になりにけり…かと思うとそうでもないんですよね。

ところで、ツィタは一家で写真を撮る時、一番背が高いオットーから低いエリーザベトを
順番に並べるのがお好みだったそうです。
上の写真でエリーザベトは後列の右に立っています。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝カール1世皇女 アーデルハイド

2011-06-09 01:38:38 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
新時代へ足を踏み出した皇女
カール1世皇女 アーデルハイド・フォン・エスターライヒ


1914~1971

最後の皇帝カール1世と、皇后ツィタには8人のお子様がおりました。
皇女は3人で、アーデルハイドは長女です。
        
兄オットーに次いでアーデルハイドが生まれた後は立て続けに4人の王子が生まれまして
幼い頃は皇子たちと行動をともにしていたようですね。
第一次世界大戦中は、父や兄弟たちと軍の視察にも出かけています。

戦後カール1世はオーストリア=ハンガリーの二重帝国の国政から身を引かされ
続いてオーストリアもハンガリーも共和国になって
ハプスブルク帝国は解体しました。

元皇帝一家はスイスに追放になり、その後ポルトガルのマデイラ諸島に送られました。
でも(シェーンブルンにくらべたら)せまくて質素な追放生活も
家族がお互いに近しく感じられるんじゃないかなんて、庶民は思うわけですけどね…

父カールと兄オットーと、弟の誕生日プレゼントを買いに町までお出かけしたりして
普通の暮らしが送れるのよ…小さな幸福なんて思えなかったかしら?

しかしこのお出かけがカールの命取りになってしまいます。
その日3人は帰り道で霧に包まれてしまい、父カールは急性肺炎になって亡くなります。

その後はスペインに渡り、1929年にベルギーへ…本当に流浪の一家ですね。

母ツィタの飽くなき交渉の末、ハプスブルク家はオーストリアへの入国を許可されました。
王権復活は聞き入れられませんでしたけどね。
1933年、アーデルハイドは、帝国解体後初めてオーストリアに入国を許された
ハプスブルク家のメンバーとして故郷に足を踏み入れました。
華々しい帰国ではなく、ブタペストから汽車に乗って帰国…世が世なら皇女なのに
わびしいものですね。

その後はベルギーのルーヴェン大学に通い、1938年に博士号を得ました。
第二次大戦中はナチスを逃れて一家でアメリカへ避難していました。
戦後はドイツに戻れたようですね、バイエルンのポッキングで亡くなっています。
生涯独身でした。

へたに身分が高かったりするのも、当時は生きにくい時代だったかもしれないですね。


ハーレムで仕事を? マジで?
カール1世皇女 シャルロッテ・フォン・エスターライヒ
メクレンブルク公ゲオルグ夫人


1921~1989

シャルロッテは、カール1世とツィタの次女です。
一家がスイスへ亡命中にプランジャンで生まれました。
       
   
第二次大戦中、一家はアメリカに避難しました。
シャルロッテは1934年からマンハッタンのイーストハーレム近くで福祉の仕事を始めました。

どうやら一家はアメリカに渡ってからかなり困窮したみたいなんですよね。
皇女だからといって安穏と日々を送れるわけではなかったのでしょう。
何もしないで一家で過ごすというのも息が詰まりそうですしね。

しかしさすがに本名では…ってわけでシャルロッテ・バーと名乗っていました。

ヨーロッパに戻ってからメクレンブルク公ゲオルクと結婚しました。
この人は大戦中ナチスの強制収容所に入っていたこともあります。
式は一般的なものだったそうです。
1956年、もはや戦後…貴族とはいっても栄華は過去のものとなってしまったようです。

ゲオルクは再婚でシャルロッテの22歳上です。
恋愛結婚だろうか? 貴族同士が結託するために結婚したんじゃないでしょうね?
二人にお子様はいません。

1963年にゲオルクが亡くなりましたが再婚はしていません。
1989年、母ツィタの死から4ヶ月後ミュンヘンで亡くなりました。
激動の一生です。 おつかれさまでしたと言ってあげたいですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア

2011-06-08 01:34:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
母の溺愛にうんざりしたかも・・・
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア・フォン・エスターライヒ
皇帝軍騎兵将軍フランツ・サルヴァトール夫人


1868~1924

マリア・ヴァレリアは、フランツ・ヨーゼフ1世とシシィの三女です。
三人目の子供、皇太子ルドルフ誕生から10年後に生まれた子です。

シシィは体型維持のため妊娠したがらず、シシィが最も好きだったハンガリーに
フランツ・ヨーゼフが譲歩することを条件に生んだ子でした。
マリア・ヴァレリアは、1867年のフランツ・ヨーゼフ&シシィの
ハンガリーでの戴冠式から、かっきり9ヶ月後にブダで生まれています。
そのため “ ハンガリーの子 ” というニックネームがつきました。
シシィのお気に入り、アンドラーシ・ジュラ宰相の娘だという噂もありましたが
顔がフランツ・ヨーゼフに似てたってことで、噂は聞こえなくなりました。

さすがに皇太后ゾフィーも(寄る年波?)取り上げることはなく
シシィが自分で育てることができた唯一の子供でした。

      
ゾフィーは妹(シシィの母)ルドヴィカに宛てて
“ もう夢中で愛を注ぎ込んでいるわよ ” と手紙を書いています。
そりゃそうだろうよ、ゾフィーのおかげで今まで自分で育てられなかったんだもの。

しかし、親の溺愛が子供にとって嬉しいことばかりだとは限りませんね

シシィの、ギーゼラとルドルフに対する接し方とマリア・ヴァレリアの扱いが
あまりにも違うので、マリア・ヴァレリアは宮廷で “ 一人っ子 ” と呼ばれていました。
マリア・ヴァレリアだって微妙な気持だったでしょうが、姉と兄もいい気はしませんよね。
寂しい思いが倍増して、マリア・ヴァレリアに意地悪の一つや二つしたかもしれません。
シシィの愛情表現が猛烈すぎて圧倒されて、ひどく大人しい娘に育ったとも言われています。

それにシシィからハンガリー語を話すよう強要されて苦痛を感じていました。
父フランツ・ヨーゼフとドイツ語で話している時が楽しいひと時だったようです。

マリア・ヴァレリアは1886年に舞踏会で会ったフランツと愛を育み
1890年に結婚しました。
マリア・ヴァレリアのお相手には、ザクセン王太子フリードリヒ・アウグスト(3世)か
ポルトガル王太子カルルシュ(1世)などが考えられていましたが
自分も恋愛結婚を果たしたフランツ・ヨーゼフが娘の望みを叶えてあげたのかしら?
「相手が煙突掃除人でも、愛する人と結婚させてあげる」と宣言していた
シシィの後押しが大きかったのかもしれません。

身分が低いと思われるフランツとの結婚は、兄ルドルフを怒らせました。
2年かけてなんとか和解にこぎつけて、やっと実らせた恋でした。
そのかわり、マリア・ヴァレリアはオーストリアの継承権を放棄してています。

マリア・ヴァレリアも姉ギーゼラ同様赤十字への貢献など慈善活動に打ち込み
第一次大戦中は城内を野戦病院として解放しました。
また、とても信心深い女性で “ バート=ヴァルトゼーの天使 ” と呼ばれていました。

1889年の兄ルドルフの自殺、1898年のシシィの殺害はマリア・ヴァレリアに
大きなショックを与えましたが、その後はフランツ・ヨーゼフの大きな支えとなって
慰めを与えました。
シシィを失って愛妾カタリーナ・シュラットとしっくりいかなくなった皇帝に
再婚を勧めたりしてますしね。

マリア・ヴァレリアと夫フランツの仲は悪くはなかったようですが
年が経つうちにフランツが浮気を繰り返すようになり、だんだん冷めていきました。
フランツのお相手には、後にヒトラーのスパイとして知られるようになる。
ホーエンローエ公子夫人シュテファニー・リヒターもいて、子供も生まれていました。

第一次世界大戦の敗戦をうけてハプスブルク家帝国の権利を放棄する書類に正式に署名した
マリア・ヴァレリアは、その後も邸宅で暮らすことを許されてすごしていましたが
6年後の1924年にリンパ腫で亡くなりました。

姉ギーゼラは、“ マリアは死を待ち望んでいて、まるで回復したくないみたい。
正気のうちに会いに行かなくちゃ ” と書いています。
早く天に召されたいほどつらいことでもあったんでしょうか?

マリア・ヴァレリアはバルゼー=Sindelburgの教会に葬られましたが
数千人の人々が棺に従ったといううことです。
母の葬儀とは大違い…

お子様は10人生まれています。
特筆することは特にないんですけど…
長女エリーザベトはヴァルトブルク=ツァイル=トラウヒブルク伯ゲオルクと結婚しましたが
38歳で亡くなってしまいまして、その後三女ゲルトルードが後妻として嫁いでます。

夫フランツはマリア・ヴァレリアが亡くなった翌年メラニー・フォン・ライゼンフェルスと
再婚しましたが、こちらは貴賤結婚とされました。

姉ギーゼラもマリア・ヴァレリアも人々に慕われる良い娘に育ちましたね。
ギーゼラは祖母、マリア・ヴァレリアは母親に違った教育を受けているわけですから
持って生まれたものなのでしょうか? 父フランツ・ヨーゼフの性格によるものか…?

子供たちの嫁ぎ先などを見てみましても、ハプスブルク家は、というより貴族社会が
本格的に斜陽を迎える時がきたようです。

(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』 Wikipedia英語版)
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『パリの胃袋』罪無き人がつくる大罪

2011-06-07 02:29:43 | フランスの作家
LE VENTRE DE PARIS 
1873年 エミール・ゾラ

1ページ目を開いた瞬間から面白かったですよ!
第二帝政期のパリ中央市場を舞台に、ひとりの青年の数奇な運命を描いた物語です。

私はそんなにルーゴン・マッカール叢書を読んでいるわけではございませんが
今まで読んだ中では一番バルザック的な印象を受けております。
どこが…と問われても困るわけなんだが

あえて言うなら…今まで読んだものも、たしかに激しさがあって悲劇的だったけど
悲劇の要因は社会の混沌と本人による要素が多かった気がするのね、
でも『パリの胃袋』の場合、社会のみならず周囲の人たちの悪意が
主人公を絡めとって悲惨なクライマックスへと導いていっている気がしています。

ま、ゾラの作風とか、バルザック=ゾラ比較論は解説本でも読んで下され

主人公は無実の罪で政治犯としてカイエンヌ(ギアナ)に流され、必死で脱走して
パリに戻って来たフロランという痩せ細った青年です。

例によってはしょっていきますよ。
フロランはパリでシャルキュトリ(肉系総菜屋)を営む異父弟のクニュを訪ねます。
クニュの店は、美しくて商才がある妻リザのおかげで手堅く繁盛していました。

我が身を省みず自分を大きくしてくれたフロランを、クニュは大歓迎で迎え
フロランは弟一家の世話になることになりました。

これがフロランと中央市場の悲劇の始まりです。

フロランという人は穏やかで優しく、なんの欲も持たない清廉な人なんだけど
なぜか争いを巻き起こしてしまうわけですね。

まずはクニュの妻リザと、やはり美貌で有名なラ・ノルマンドの
今まで隠していた激しいライバル意識に火を点けます。

そしてラ・ノルマンドと妹のクレールの姉妹対決…この争いは最終的には
母親のメユーダン婆さんも参加して三つ巴の争いになります。

金持ちと噂されるフロランの擁護者カヴァールと、カヴァールの無き妻の姉で
遺産を狙うルクール夫人の争いの激化…などなどです。

忘れてならないのがサジェ婆さんという噂と詮索と陰口が好きな老婦人で
この人が物語を複雑かつ悪意あるものにしていて、バルザック感を増大してます。

フロランの大失敗は、政治犯で捕まっていながら政治的活動をしてしまったこと。
彼自身は、反体制を語っていれば硬派に見えるというエセ反体制派でもないし
酒を飲む口実にしているわけでもなくて真剣にフランスの未来を考えていました。

それに、彼らが集う居酒屋のこじんまりした反体制派の集いなんて
政府にとってはなんら脅威ではなかったはずです。

しかし、フロランが脱走者だったことがことを大きくし、密告者たちを狂喜させます。

なんの邪心もなく、真面目に仕事をこなして政治を語っていた青年にとっては
気の毒なラストとしか言いようがありません。

でもやっぱり浅はかよね…フロラン、まずは一度パリから離れなきゃ!
そして何年かは田舎に身を隠してなくちゃ(どうせ第二帝政はすぐ終わるんだし)
反体制派の飲み会に行くなんてもってのほかじゃない?

女たちの争いだってちょっと気をつければおこらないことだったのに、お人好し…
せめてサジェ婆さんが死ぬまでは大人しくしてなきゃですよ。

世慣れない単純な性格の青年が、成熟していない社会の中で上手く世渡りできなかったために
おこってしまった悲劇…当時は日常茶飯的におこっていたことかもしれませんが
壮大な文学として残したゾラに拍手を送りたいものです。

話しは変わるけど、とにかく食べ物の描写がすごいです。
ちょっとしつこいほどでした。

ゾラは作品を書く前にかなり綿密に調べるみたいで、他の物語でもテーマについての
描写が微に入り細に入りって感じですが、この物語では、野菜・魚・肉・チーズ・花、
どれをとりましても種類から特徴から、細かく詩的に描かれています。

『パリの胃袋』はどこらへんがルーゴン=マッカールかといいますと
クニュの妻リザが『居酒屋』のジェルヴェーズの姉です。
リザの甥として『制作』のクロード・ランチエも登場します。
次は『愛の一ページ』と『生きる喜び』を狙っているんですけどね…
今月は本代を使い果たして買えないの
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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ

2011-06-06 22:39:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
母の愛を知らずに育った “ 善き天使 ”
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 ギーゼラ・フォン・エスターライヒ
ドイツ・オーストリア=ハンガリー軍元帥レオポルト夫人


1856~1932

弱腰のフランツ1世の後に即位した、さらに弱々しいフェルディナント1世と
皇后マリア・アンナにはお子様がいませんでした。

フェルディナント1世を継いだのが “ ハプスブルク家最後の輝き ” フランツ・ヨーゼフ1世、
そして皇后はあの、 “ シシィ ” エリーザベトです。

二人には4人のお子様が生まれました。
皇女は3人で、長女ゾフィーは一家でハンガリーへの旅行中、3歳で亡くなりました。

ギーゼラはフランツ・ヨーゼフ1世とシシィの次女になります。
      
シシィがゾフィーを生んだ時、フランツ・ヨーゼフ1世の母后ゾフィーは
さっさと子供を取り上げて自分で育てることにしました。
同じように次女のギーゼラも長男のルドルフもゾフィーに育てられました。
皇太子ルドルフはマイヤーリンク事件で有名ですね。

フランツ・ヨーゼフ1世は子煩悩だったようで、子供たちが使っていたものを
保管しておいたり、クリスマスに詩を贈ったりしていたようです。
エリーザベトはウィーンを嫌って始終留守にしていましたので
どちらかといえば父親の愛情を多く感じていたかもしれません。

1873年に、バイエルン王 “ 美女大好き” ルートヴィヒ1世の孫にあたる
レオポルトと結婚しました。
ハプスブルク家の年長の娘なのに、王様クラスと結婚していないのよ、どう思う?

フランツ・ヨーゼフ1世がレオポルトの両親に宛てた手紙によると
カトリックの王子が少ない中で、レオポルトだけが信頼に足る…ということでした。

ですので、バイエルンサイドでは大喜び! ギーゼラは大歓迎を受けます。
二人が暮らしていたレオポルト宮殿の向いの道路にはギーゼラの名前がつけられました。

ギーゼラは慈善活動に熱心で、いくつもの慈善団体に名を連ねていたということですけど
こういうエピソードは多いので割愛しますね。
第一次世界大戦中夫レオポルトが元帥として東部前線に出兵すると
宮殿を病院にして軍人を受け入れました。

1918年に革命が始まると王家は都市から避難しましたが、ギーゼラは留まって
初めて20歳以上の女性が投票したワイマール国民議会に一役かいました。

また、チロル=ザルツブルク間を結ぶ鉄道や支援者にも名を連ねています。

お母様と違って、市民生活にアクティブに関わってらっしゃったんですね。
ここらへんは政治好きな祖母ゾフィーによる教育によるものでしょうか?

おかげでワイマールでは “ ウィーンからやって来た天使 ” と呼ばれました。

旦那様との仲も良かったようで、1923年には金婚式を迎えました。
その7年後にレオポルトが亡くなり、さらに2年後にギーゼラが亡くなりました。
夫婦並んでミュンヘンの聖ミヒャエル教会に葬られています。

お子様は四人生まれ(家系図省きましたが)次女アウグステと長男ゲオルクか
ハプスブルク家の皇子・皇女と結婚しています。

弟の皇太子ルドルフについては、幼い頃に母の愛を知らずに育ったことや
祖母&父と母の教育方針の違いなどが、後年自殺事件をおこす要因のひとつとも
言われていますが、ギーゼラにはあまり影響がなかったんでしょうか?

やはり、女性の方が逆境に強かったり順応性があったりするのかしら?
そういえば、各王国の王侯貴族の娘は平気で海外に嫁がされちゃっていたんだものね。
それだけじゃなくて敵の国だったりしたわけですから、強くないとやっていけないかも…

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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『なんといったって猫』多角的に猫を眺める

2011-06-05 01:25:06 | イギリス・アイルランドの作家
『PARTICULARLY CATS』
1967年 ドリス・レッシング

猫ちゃんに関する物語やエッセイは好きですが、この『なんといったって猫』は
他の本と少し毛色が違う気がしています。

レッシングが、南アフリカの農場時代にまわりにいた猫たちのことと
ロンドンで飼っている猫たちのことを書いているわけなんですが
飼い猫に愛はある、愛はあるけど猫は獣である、という一線を
ガッツリ引いている感じがします。

たとえばアフリカでは…
農場には家猫・外猫あわせてたくさんの猫が生息しています。
子猫もがんがん生まれます。
大空いっぱいに舞う鷲に目の前で子猫がさらわれても、それはしかたがありません。
増えすぎた子猫は人の手で始末することになります。

人に懐いた猫にはもちろん餌を与え、共生します。
しかし、農場の鶏や子猫を狙う山猫・野良猫には銃や罠で対応します。
以前農場にいて野生化した猫を撃ち殺すこともありました。

そしてロンドンでは…
さすがにフラットで飼う猫は、アフリカ並みに自由気ままに育つわけではありませんが
レッシングは医者が止めるまでは猫の本能に任せて子供を産ませています。
逆に相手選びがどのような法則やしきたりによって進むのか、窓辺から鋭く観察しています。
猫は好きな相手を勝手に選べるわけではないのですね。

そしてやはり、母猫の育児能力の許容範囲を超えてしまった子猫は(1回だけですが)
人の手によって始末しています。

主に登場するのは、媚を売るのが上手く女王でないと気がすまないシャム猫と
後からやってきて、シャム猫のポジションを虎視眈々と狙う黒猫の2匹です。
この2匹を、性格はもとより餌の食べ方、眠る場所、外出の流儀、喧嘩の優劣、
出産と育児などで対比させています。

猫同士ってわりと早く仲良くなるもんだと思っていたけど違うのね。
仲良くなるというよりは、相手の存在を諦めて自分のスタイルは崩さない、という
生き方をしているのではないか、と思えました。

ただの「猫がこーしました、あーしました」という話しではなく
文学的視点・哲学的視点・生物学的視点など多方面から見つめた一冊、という感じです。

だから猫を知らない人がこの本を読んで「あー!猫って可愛いぃっ!!」という気持には
ならないと思うし、新たに「飼ってみたい」なんて気はおきないと思うんですけど
以前長いこと飼ったことがある人、現在飼っている人は、各方面から書き表された猫を
自分の猫の可愛い仕草に置き換えることが可能だと思います。

いくら難しい書き方をされていても、猫が仰向けにデローンと寝ている姿を思い浮かべれば
本当ぉぉにキュートだものね
コメント (2)
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オーストリア皇帝フランツ1世皇女 マリア・クレメンティーナ

2011-06-04 15:24:30 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
ここから二人、家系図だけお楽しみ下さい
フランツ1世皇女 マリア・クレメンティーナ・フォン・エスターライヒ
サレルノ公レオポルド妃


1798~1881

弱腰で神聖ローマ皇帝の座を捨て、オーストリア皇帝で妥協しちゃったフランツ1世は
なぜか結婚には積極的で4回結婚しています。

一人目の妃エリーザベト・フォン・ビュルテンブルクには
長女ルドヴィカ・エリーザベトが生まれましたが1歳で亡くなりました。
三人目の妃マリア・ルドヴィカ、四人目の妃カロリーネ・アウグステ
ともにお若かったんですがお子様はできませんで
フランツ1世の長女を除く、12人のお子様は全て二人目の妃マリア・テレジアのお子様です。

12人のうち皇女は8人、次女マリア・ルイーゼはフランス皇帝ナポレオン1世に、
五女マリア・レオポルディーナは、ブラジル皇帝ペドロ1世に嫁ぎました。

マリア・クレメンティーナは、フランツ1世の六女です。
三女マリア・カロリーネ、四女カロリーネ・ルドヴィカは幼いうちに亡くなりました。
      
姉のマリア・ルイーゼやマリア・レオポルディーナのインパクトが強すぎるのか
それ以外の皇女のエピソードが見当たりません。

1816年に母の弟サレルノ公レオポルドと結婚しました。
お子様は4人ですが、3人が幼くして亡くなりました。
唯一成人したマリーア・カロリーナは父方の従兄弟オマール公アンリに嫁ぎました。

夫レオポルドは1851年に亡くなっています。
マリア・クレメンティーナは長生きで83歳で亡くなりました。
フランスに移っていたみたいでシャンティイ城で亡くなりました。
娘のマリーア・カロリーナについていったんでしょうかね?
しかし娘は母親に先立ち、1869年に亡くなっています。



              
同じく、家系図だけを・・・
フランツ1世皇女 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ
ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃


1801~1832/在位せず

マリア・カロリーナはフランツ1世の七女です。
八女マリア・アンナは精神的な病があり、未婚のまま54歳で亡くなりました。
九女マリア・テレジアは生後3日で亡くなりました。
     
マリア・カロリーナは1819年にドレスデンで、また従兄弟にあたるのかしら?
ザクセン王太子フリードリヒ・アウグスト(後の2世)と結婚しました。
31歳で亡くなりました。

フリードリヒ・アウグストはその後マリア・アンナ・フォン・バイエルンと再婚しました。
マリア・アンナの双子の姉妹ゾフィーはマリア・カロリーナの弟フランツ・カールに嫁ぎ
その皇子が後にフランツ・ヨーゼフ1世としてオーストリア皇帝に即位します。
フランツ・ヨーゼフ1世の妃は、有名な“シシィ” エリーザベトでございます。

マリア・クレメンティーナとマリア・カロリーネは、江村洋先生の本でも
“ごく平凡な人生をおくったと言ってよいであろう” って一行で終わってしまってます。
華やかな姉妹がいるとなかなか陽の目があたりませんね。
何百年後になっても性格があーだこーだ言われるよりはいいかしら?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ

2011-06-02 21:56:53 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
弱まるハプスブルク家血族結婚の効力
レオポルト2世皇女 マリア・クレメンティーナ・フォン・エスターライヒ
両シチリア王フランチェスコ1世妃


1777~1801/在位せず

マリア・クレメンティーナは、レオポルト2世とマリア・ルドヴィカの三女です。

次女マリア・アンナはプラハのテレジアン修道院に入って39歳で亡くなっています。
        
1790年に従兄弟のカラブリア公フランチェスコ(後の1世)との婚約が決まり
代理人と挙式もしましたが、実際に結婚したのは1797年でした。
フランチェスコの母はレオポルト2世の妹マリア・カロリーナです。

マリア・クレメンティーナとフランチェスコの結婚を含む、兄のフランツ2世
(オーストリア皇帝では1世)とフランチェスコの姉マリア・テレジアの結婚、
兄トスカーナ大公フェルディナンド3世とフランチェスコの姉マリア・ルイーザの結婚をもって
オーストリア帝国のハプスブルク家とナポリ王家間の婚姻は終焉を迎えます。

どちらもナポレオンによって君主としての精彩を欠いているような状態ですからね…
ヨーロッパ各国は、旧態依然とした王制・婚姻による外交がまかりとおらない時代を
迎えようとしていたのかもしれません。

マリア・クレメンティーナの父レオポルト2世は、即位後わずか2年で亡くなりましたが
名君の誉れ高い人でした。
長生きしていたらハプスブルク家の行く末も少し違っていたかもしれないですね。
なにせフランツ2世は気が弱いから…

マリア・クレメンティーナは、二人目の子供を生んだ直後から健康を崩し
翌年亡くなりました。
肺疾患か肺炎だということです。
二人目の子供、フェルディナンド王子も2ヶ月前に亡くなっていて
その側に葬られました。

フランチェスコはその後、スペイン王カルロス4世とマリア・ルイサの王女で
従姉妹にあたるマリーア・イザベッラと再婚しました。
本当にカルロス4世の子かどうかはおいといて…と

マリア・クレメンティーナの王女カロリーナはフランス王ルイ10世王子
ベリー公シャルル・フェルディナン妃になりました。
孫にあたるアンリは、再び王政復古が成ればアンリ5世として即位できましたが
ご存知のように王政復古はなかったのでシャンボール伯として人生を終えました。

当時ヨーロッパ諸国の王や大公、君主は、フランス革命の自国への余波に続き
ナポレオンによる侵略・廃位・亡命の脅威にさらされていました。
あと100年早く生まれていたら、もう少し安泰に暮らせたかしら?
う~ん 結局は土地を獲ったり獲られたりの争いがあったので一緒かも…
戦争はいやですね、 権力が欲しい上の方の人だけでやってほしい…
最高権力者とか軍の最高司令官同士の一騎打ちなんかいいんじゃない?

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝レオポルト2世皇女 マリア・テレジア

2011-06-02 02:30:50 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
モーツァルトを怒らせちゃったことがある
レオポルト2世皇女 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
ザクセン王アントン妃


1767~1827/在位 1827

フランツ1世の後を継いだヨーゼフ2世と最愛の妃マリア・イザベラ・フォン・パルマには
二人の皇女が生まれましたが、長女マリア・テレジアは7歳の時突然亡くなり
次女マリア・クリスティーナは出産の時に亡くなりました。
マリア・イザベラも数日後に亡くなりました。

二人目の妃マリア・ヨーゼファはヨーゼフからまったく相手にされず
お子様はできませんでした。

ヨーゼフ2世の後即位したレオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカは子だくさんで
男の子12人、女の子3人の、15人のお子様が生まれました。
王侯貴族の家系図をいろいろ書いておりますと
たぶん、女の子の方が政治的には役に立ったんじゃないかなぁ、なんて思ったりして…

マリア・テレジアは、レオポルト2世とマリア・ルドヴィカの長女で
レオポルト2世がトスカーナ大公時代にフィレンツェで生まれました。

       
1787年にザクセン選帝侯子アントンと結婚しました。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』は、結婚式典の一環で新郎新婦が訪れる
プラハで演じられることが決まって台本が献上されていました。

しかし、伯父ヨーゼフ2世は『フィガロの結婚』に差し替えるよう命令しました。
『フィガロの結婚』は新婦になる女性には相応しくないと多くの人が思ったそうです。
なぜかしらね? 陰険なヨーゼフ2世の嫌がらせかしら?
結局アントンとマリア・テレジアは早々に席を立ったそうですよ。
モーツァルトはこの件でブーリブリ 文句を書き連ねた手紙を友人に送ってます。

アントンとの間に子供が4人生まれていますが、皆幼くして亡くなりました。

1827年、義兄フリードリヒ・アウグスト1世が嫡子無しで亡くなったので
アントンはザクセン王に即位しました。
でもザクセンはナポレオン戦争の時にナポレオン側に加担して敗戦したために
すでに領土の大半を失っていました。

マリア・テレジアは夫の即位から数ヶ月後にライプツィヒで亡くなっています。

マリア・テレジアの実家ハプスブルク家は反ナポレオン連合の筆頭国ですから
敵国になるのは避けたかったでしょうね。

夫を尻に敷くタイプの、女帝マリア・テレジアの皇女たち、たとえば
マリア・アマーリアマリア・カロリーナみたいな女性だったら
もしかしてザクセンを説得するか牛耳ることができたかもしれません。
おとなしい人だったのかしらね?

(参考文献 Wikioedia英語版)
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