まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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オーストリア皇帝カール1世皇女 アーデルハイド

2011-06-09 01:38:38 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
新時代へ足を踏み出した皇女
カール1世皇女 アーデルハイド・フォン・エスターライヒ


1914~1971

最後の皇帝カール1世と、皇后ツィタには8人のお子様がおりました。
皇女は3人で、アーデルハイドは長女です。
        
兄オットーに次いでアーデルハイドが生まれた後は立て続けに4人の王子が生まれまして
幼い頃は皇子たちと行動をともにしていたようですね。
第一次世界大戦中は、父や兄弟たちと軍の視察にも出かけています。

戦後カール1世はオーストリア=ハンガリーの二重帝国の国政から身を引かされ
続いてオーストリアもハンガリーも共和国になって
ハプスブルク帝国は解体しました。

元皇帝一家はスイスに追放になり、その後ポルトガルのマデイラ諸島に送られました。
でも(シェーンブルンにくらべたら)せまくて質素な追放生活も
家族がお互いに近しく感じられるんじゃないかなんて、庶民は思うわけですけどね…

父カールと兄オットーと、弟の誕生日プレゼントを買いに町までお出かけしたりして
普通の暮らしが送れるのよ…小さな幸福なんて思えなかったかしら?

しかしこのお出かけがカールの命取りになってしまいます。
その日3人は帰り道で霧に包まれてしまい、父カールは急性肺炎になって亡くなります。

その後はスペインに渡り、1929年にベルギーへ…本当に流浪の一家ですね。

母ツィタの飽くなき交渉の末、ハプスブルク家はオーストリアへの入国を許可されました。
王権復活は聞き入れられませんでしたけどね。
1933年、アーデルハイドは、帝国解体後初めてオーストリアに入国を許された
ハプスブルク家のメンバーとして故郷に足を踏み入れました。
華々しい帰国ではなく、ブタペストから汽車に乗って帰国…世が世なら皇女なのに
わびしいものですね。

その後はベルギーのルーヴェン大学に通い、1938年に博士号を得ました。
第二次大戦中はナチスを逃れて一家でアメリカへ避難していました。
戦後はドイツに戻れたようですね、バイエルンのポッキングで亡くなっています。
生涯独身でした。

へたに身分が高かったりするのも、当時は生きにくい時代だったかもしれないですね。


ハーレムで仕事を? マジで?
カール1世皇女 シャルロッテ・フォン・エスターライヒ
メクレンブルク公ゲオルグ夫人


1921~1989

シャルロッテは、カール1世とツィタの次女です。
一家がスイスへ亡命中にプランジャンで生まれました。
       
   
第二次大戦中、一家はアメリカに避難しました。
シャルロッテは1934年からマンハッタンのイーストハーレム近くで福祉の仕事を始めました。

どうやら一家はアメリカに渡ってからかなり困窮したみたいなんですよね。
皇女だからといって安穏と日々を送れるわけではなかったのでしょう。
何もしないで一家で過ごすというのも息が詰まりそうですしね。

しかしさすがに本名では…ってわけでシャルロッテ・バーと名乗っていました。

ヨーロッパに戻ってからメクレンブルク公ゲオルクと結婚しました。
この人は大戦中ナチスの強制収容所に入っていたこともあります。
式は一般的なものだったそうです。
1956年、もはや戦後…貴族とはいっても栄華は過去のものとなってしまったようです。

ゲオルクは再婚でシャルロッテの22歳上です。
恋愛結婚だろうか? 貴族同士が結託するために結婚したんじゃないでしょうね?
二人にお子様はいません。

1963年にゲオルクが亡くなりましたが再婚はしていません。
1989年、母ツィタの死から4ヶ月後ミュンヘンで亡くなりました。
激動の一生です。 おつかれさまでしたと言ってあげたいですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
コメント
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