まりっぺのお気楽読書

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オーストリア皇帝フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ

2010-01-19 02:05:41 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
打倒ナポレオン!に燃えた皇后
フランツ1世妃 マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ


1787~1816/在位 1808~1816

政治的にはぼやぼやしているフランツ1世ですが、次の嫁を決めるのは早いぜ!ってわけで
前妃マリア・テレジアの死から9ヶ月後の1808年1月に
従妹にあたるマリア・ルドヴィカと再婚いたしました。

         

マリアは1796年にナポレオン軍の侵攻により、モデナからウィーンに亡命して来ました。
その時にフランツはマリアに恋しちゃったんですって!
マリアは9歳、まったくもって子供じゃないかね?
フランツは28歳、しかも妻子持ちだったりする。

恋心を抱いて12年、マリア・テレジアの死を望んでいたわけではないでしょうが
待ってましたとばかりに結婚しちゃったわけですね。

故国を奪われたマリアはナポレオンへの敵意をむき出しにしていました。
フランスは、反ナポレオン戦争を指示するマリアとフランツの結婚を
認めようとはしませんでした。

また、マリアはフランツの信頼篤い宰相メッテルニヒともぶつかるようになります。
メッテルニヒはナポレオンとフランツ1世皇女マリア・ルイーゼとの縁談をすすめていました。

各国の王室がナポレオンを忌み嫌っていたであろうこの次期
王族の筆頭ともいえるハプスブルク家の皇女が嫁ぐなんて~!!
と驚いた王家も多かったはず。
ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンからの妹アンナへの求婚を断りましたが
フランツ1世は、断って戦争を仕掛けられてもなぁ…と弱気になり
この縁談を受けてしまいました。
側で見ていたマリア・ルドヴィカは絶対に止めたはず!

結局マリア・ルイーゼは嫁いでしまい
1812年にはナポレオンを賞賛するドイツ貴族の集いにもいやいや出席させられて…
弱虫の夫に愛想をつかすことはなかったのかしらね?

1815年、そんなマリアに喜ばしい瞬間が訪れます。
ナポレオンが倒れた後のヨーロッパのあり方を決めるウィーン会議で
マリアは女主人をつとめることになりました。
彼女にしてみたら、大国が集う一大イベントのホステスの晴れがましさよりも
ナポレオンに勝ったということの方が嬉しかったんじゃないかしら?

その後マリアは、ナポレオン軍が撤退した後の故郷を見るためにイタリアを旅します。
しかし結婚した当時から患っていたと言われる結核が悪化して
1816年に亡くなりました。

短い間ではあったけど、ナポレオンへの恨みも晴れて、懐かしい故郷も目にして
幸せな最期だったのではないでしょうか?

(参考文献 Wikipedia英語版)

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1 コメント

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再びごめんなさい (ケイコ・オカモト)
2010-11-05 15:34:59
まりっぺ様、再びごめんなさい。

フェルディナント1世妃のコメントのお返事を書くときに改めて調べてみて気づいたので、こちらに書きます。
マリア・ルドヴィカにとっては、フェルディナントは義理の息子ですが、その妃であるマリア・アンナは彼女の姪ではないでしょうか?
(マリア・ルドヴィカの姉の娘)
マリア・アンナと双子の姉妹はあまり似ている感じがしなかったのですが、何となくマリア・アンナとマリア・ルドヴィカは雰囲気が似ているような感じがします。
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