身分を失った一家の哀れ・・・
カール1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ハインリヒ・フォン・リヒテンシュタイン夫人
1922~1993
エリーザベトは、カール1世とツィタの三女です。
1922年にカールが亡くなった後、ツィタはスペイン王アルフォンソ13世から招待をうけ
一家でスペインに渡りました。
エリーザベトはエルパルドの王宮で生まれました。
一家はその後ビスケー湾のレケイティオに住居を与えられて6年間過ごしました。
しかし経済状態はあまりよいものではなかった…というか苦しいものだったようです。
一家の主な収入は個人的な財産やコレクション、葡萄園から捻出されていました。
他のハプスブルク家のメンバーは、自分たちにも収入をまわすようにやいのやいの言うし
定期的に泣きついてきて融通してやらなければなりませんでした。
家長の一家も楽じゃないですね。
1929年に移り住んだベルギーでは、一家は近所の人たちと親しく付き合い
皇子たちもベルギーの大学に通ったりして、やっと平和を手に入れたように思えましたが
1940年にナチスが侵攻して来て避難しなくてはいけなくなります。
ハプスブルク家なんか捕まえたら、ヒトラーはどんな目に遭わせるかわからないものね。
ポルトガルでヴィザを発行してもらった一家はアメリカに渡りました。
アメリカでもロングアイランド → ニューアーク → ニュージャージー → ニューヨークと
忙しく動き回ったハプスブルク家の皆さんは、カナダのケベックに落ち着きます。
一家はオーストリアからの一切の収入源を断たれて財政は一層厳しくなりました。
私はツィタのところで
“ 王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。” なんてことを
書いてましたが、それは大間違い!!
ツィタはタンポポでサラダを作ったり、ほうれん草の代用に使ってたっていうんだから…
申し訳ございません、とんだ先入観でした
ブルボン家出の皇后体験者が…大変な境遇と向き合ったものです。
第二次大戦中、エリーザベトの兄弟たちは戦後を見据えて奮闘していました。
長男オットーはルーズヴェルトに面会してハプスブルク家の重要性を訴え
次男ロベルトはロンドンで代議士になり、三男フェリクスと四男カールはアメリカ兵に、
五男ルドルフはオーストリアに密かに入国して反体制派を後押ししました。
一家が一丸となってお家再興に励む…これも母ツィタの頑張りがあったからかもしれません。
エリーザベトというよりは一家のエピソードが多くなっちゃったけど…
エリーザベトは1949年にリヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世の従兄弟にあたる
リヒテンシュタイン公子アルフレドの五男ハインリヒと結婚しました。
1993年に亡くなっています、つい最近ですね。
お子様は5人生まれていまして、長男の方以外は存命中のようです。
ハプスブルク家は遠い昔になりにけり…かと思うとそうでもないんですよね。
ところで、ツィタは一家で写真を撮る時、一番背が高いオットーから低いエリーザベトを
順番に並べるのがお好みだったそうです。
上の写真でエリーザベトは後列の右に立っています。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
カール1世皇女 エリーザベト・フォン・エスターライヒ
ハインリヒ・フォン・リヒテンシュタイン夫人
1922~1993
エリーザベトは、カール1世とツィタの三女です。
1922年にカールが亡くなった後、ツィタはスペイン王アルフォンソ13世から招待をうけ
一家でスペインに渡りました。
エリーザベトはエルパルドの王宮で生まれました。
一家はその後ビスケー湾のレケイティオに住居を与えられて6年間過ごしました。
しかし経済状態はあまりよいものではなかった…というか苦しいものだったようです。
一家の主な収入は個人的な財産やコレクション、葡萄園から捻出されていました。
他のハプスブルク家のメンバーは、自分たちにも収入をまわすようにやいのやいの言うし
定期的に泣きついてきて融通してやらなければなりませんでした。
家長の一家も楽じゃないですね。
1929年に移り住んだベルギーでは、一家は近所の人たちと親しく付き合い
皇子たちもベルギーの大学に通ったりして、やっと平和を手に入れたように思えましたが
1940年にナチスが侵攻して来て避難しなくてはいけなくなります。
ハプスブルク家なんか捕まえたら、ヒトラーはどんな目に遭わせるかわからないものね。
ポルトガルでヴィザを発行してもらった一家はアメリカに渡りました。
アメリカでもロングアイランド → ニューアーク → ニュージャージー → ニューヨークと
忙しく動き回ったハプスブルク家の皆さんは、カナダのケベックに落ち着きます。
一家はオーストリアからの一切の収入源を断たれて財政は一層厳しくなりました。
私はツィタのところで
“ 王じゃなくなっても、働かなきゃ食べていけないってことはないと思うのよ。
使用人だってふんだんに雇えるでしょう、変わらず贅沢もできるでしょう。” なんてことを
書いてましたが、それは大間違い!!
ツィタはタンポポでサラダを作ったり、ほうれん草の代用に使ってたっていうんだから…
申し訳ございません、とんだ先入観でした
ブルボン家出の皇后体験者が…大変な境遇と向き合ったものです。
第二次大戦中、エリーザベトの兄弟たちは戦後を見据えて奮闘していました。
長男オットーはルーズヴェルトに面会してハプスブルク家の重要性を訴え
次男ロベルトはロンドンで代議士になり、三男フェリクスと四男カールはアメリカ兵に、
五男ルドルフはオーストリアに密かに入国して反体制派を後押ししました。
一家が一丸となってお家再興に励む…これも母ツィタの頑張りがあったからかもしれません。
エリーザベトというよりは一家のエピソードが多くなっちゃったけど…
エリーザベトは1949年にリヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世の従兄弟にあたる
リヒテンシュタイン公子アルフレドの五男ハインリヒと結婚しました。
1993年に亡くなっています、つい最近ですね。
お子様は5人生まれていまして、長男の方以外は存命中のようです。
ハプスブルク家は遠い昔になりにけり…かと思うとそうでもないんですよね。
ところで、ツィタは一家で写真を撮る時、一番背が高いオットーから低いエリーザベトを
順番に並べるのがお好みだったそうです。
上の写真でエリーザベトは後列の右に立っています。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)