まりっぺのお気楽読書

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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア

2011-06-08 01:34:48 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
母の溺愛にうんざりしたかも・・・
フランツ・ヨーゼフ1世皇女 マリア・ヴァレリア・フォン・エスターライヒ
皇帝軍騎兵将軍フランツ・サルヴァトール夫人


1868~1924

マリア・ヴァレリアは、フランツ・ヨーゼフ1世とシシィの三女です。
三人目の子供、皇太子ルドルフ誕生から10年後に生まれた子です。

シシィは体型維持のため妊娠したがらず、シシィが最も好きだったハンガリーに
フランツ・ヨーゼフが譲歩することを条件に生んだ子でした。
マリア・ヴァレリアは、1867年のフランツ・ヨーゼフ&シシィの
ハンガリーでの戴冠式から、かっきり9ヶ月後にブダで生まれています。
そのため “ ハンガリーの子 ” というニックネームがつきました。
シシィのお気に入り、アンドラーシ・ジュラ宰相の娘だという噂もありましたが
顔がフランツ・ヨーゼフに似てたってことで、噂は聞こえなくなりました。

さすがに皇太后ゾフィーも(寄る年波?)取り上げることはなく
シシィが自分で育てることができた唯一の子供でした。

      
ゾフィーは妹(シシィの母)ルドヴィカに宛てて
“ もう夢中で愛を注ぎ込んでいるわよ ” と手紙を書いています。
そりゃそうだろうよ、ゾフィーのおかげで今まで自分で育てられなかったんだもの。

しかし、親の溺愛が子供にとって嬉しいことばかりだとは限りませんね

シシィの、ギーゼラとルドルフに対する接し方とマリア・ヴァレリアの扱いが
あまりにも違うので、マリア・ヴァレリアは宮廷で “ 一人っ子 ” と呼ばれていました。
マリア・ヴァレリアだって微妙な気持だったでしょうが、姉と兄もいい気はしませんよね。
寂しい思いが倍増して、マリア・ヴァレリアに意地悪の一つや二つしたかもしれません。
シシィの愛情表現が猛烈すぎて圧倒されて、ひどく大人しい娘に育ったとも言われています。

それにシシィからハンガリー語を話すよう強要されて苦痛を感じていました。
父フランツ・ヨーゼフとドイツ語で話している時が楽しいひと時だったようです。

マリア・ヴァレリアは1886年に舞踏会で会ったフランツと愛を育み
1890年に結婚しました。
マリア・ヴァレリアのお相手には、ザクセン王太子フリードリヒ・アウグスト(3世)か
ポルトガル王太子カルルシュ(1世)などが考えられていましたが
自分も恋愛結婚を果たしたフランツ・ヨーゼフが娘の望みを叶えてあげたのかしら?
「相手が煙突掃除人でも、愛する人と結婚させてあげる」と宣言していた
シシィの後押しが大きかったのかもしれません。

身分が低いと思われるフランツとの結婚は、兄ルドルフを怒らせました。
2年かけてなんとか和解にこぎつけて、やっと実らせた恋でした。
そのかわり、マリア・ヴァレリアはオーストリアの継承権を放棄してています。

マリア・ヴァレリアも姉ギーゼラ同様赤十字への貢献など慈善活動に打ち込み
第一次大戦中は城内を野戦病院として解放しました。
また、とても信心深い女性で “ バート=ヴァルトゼーの天使 ” と呼ばれていました。

1889年の兄ルドルフの自殺、1898年のシシィの殺害はマリア・ヴァレリアに
大きなショックを与えましたが、その後はフランツ・ヨーゼフの大きな支えとなって
慰めを与えました。
シシィを失って愛妾カタリーナ・シュラットとしっくりいかなくなった皇帝に
再婚を勧めたりしてますしね。

マリア・ヴァレリアと夫フランツの仲は悪くはなかったようですが
年が経つうちにフランツが浮気を繰り返すようになり、だんだん冷めていきました。
フランツのお相手には、後にヒトラーのスパイとして知られるようになる。
ホーエンローエ公子夫人シュテファニー・リヒターもいて、子供も生まれていました。

第一次世界大戦の敗戦をうけてハプスブルク家帝国の権利を放棄する書類に正式に署名した
マリア・ヴァレリアは、その後も邸宅で暮らすことを許されてすごしていましたが
6年後の1924年にリンパ腫で亡くなりました。

姉ギーゼラは、“ マリアは死を待ち望んでいて、まるで回復したくないみたい。
正気のうちに会いに行かなくちゃ ” と書いています。
早く天に召されたいほどつらいことでもあったんでしょうか?

マリア・ヴァレリアはバルゼー=Sindelburgの教会に葬られましたが
数千人の人々が棺に従ったといううことです。
母の葬儀とは大違い…

お子様は10人生まれています。
特筆することは特にないんですけど…
長女エリーザベトはヴァルトブルク=ツァイル=トラウヒブルク伯ゲオルクと結婚しましたが
38歳で亡くなってしまいまして、その後三女ゲルトルードが後妻として嫁いでます。

夫フランツはマリア・ヴァレリアが亡くなった翌年メラニー・フォン・ライゼンフェルスと
再婚しましたが、こちらは貴賤結婚とされました。

姉ギーゼラもマリア・ヴァレリアも人々に慕われる良い娘に育ちましたね。
ギーゼラは祖母、マリア・ヴァレリアは母親に違った教育を受けているわけですから
持って生まれたものなのでしょうか? 父フランツ・ヨーゼフの性格によるものか…?

子供たちの嫁ぎ先などを見てみましても、ハプスブルク家は、というより貴族社会が
本格的に斜陽を迎える時がきたようです。

(参考文献 ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト』 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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