![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/d1/0e262fac7f45ba6c974b278bf26bab2a.jpg)
お母様のお気に入り
ウィリアム1世王女 コンスタンス・オブ・ノルマンディ
ブルターニュ公アラン4世妃
生年不詳~1090
コンスタンスはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの四女か五女です。
才気煥発な娘で、王妃マティルダの一番のお気に入りでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/ae/bfb74669658c379614bb19f1c4222c9b.jpg)
1086年以降にブルターニュ公アラン4世と結婚しましたが
1090年に(たぶん毒殺で)亡くなりました。
ルドン(ブルターニュ)のサン・メランに葬られました。
1672年に棺が発見されています。
(フランスでは、フランス革命の時に王家に縁のある教会や修道院が破壊されて
お墓が見つかっていない王侯貴族がけっこういます)
アラン4世は後にエルメンガルド・ダンジューと再婚しまして
その息子コナン3世は継承戦争でスティーヴン派になったそうです。
ウィリアム1世の後を継いだウィリアム2世は未婚でした。
ヘンリー1世の王子は即位前に亡くなり、ひとり娘のマティルダと王位を争って勝利したのが
アディラ・オブ・ノルマンディの息子、ブロワ家のスティーヴンでした。
女王になってたかもしれないけど…
スティーヴン王王女 ブローニュ伯マリー1世
ブローニュ伯マチュー夫人
1136~1182/在位 1159~1170
マリーはスティーヴン王とマティルダ・オブ・ブローニュの王女です。
幼い頃に修道院に入りましたが、長男ウスタシュ(ユースタス)が父王より先に亡くなり
次男ギョームに嫡子が生まれなかったことからブローニュ伯領を継ぐことになって
1159年に修道院から出てまいりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bb/331bc9aade58acdd51c0540fc3d80460.jpg)
翌年マチュー・ダルザスと結婚しました。
マチューはこの結婚でブローニュ伯領の共同統治者になりました。
でも、そんなに年も離れていない二人の結婚生活はあまり上手くいかなくて
10年ほどで結婚を解消しました。
結婚解消後、どういうわけだかマチューがブーローニュ伯にそのまま在位して
マリーはモントルイユのSt. Austrebertで修道女になってます。
そこで1182年に亡くなり、そのまま葬られました。
マチューは先立つこと9年前に亡くなっていて、伯領は長女イーダが継承していました。
やはり20年あまりの人生を聖なる場所で過ごしてきた人には
俗世は煩わしいものなのかしらね?
もし父王スティーヴンが徹底的にヘンリー1世王女マティルダを敗っていたら
あるいは女王になった人だったかもしれませんけど、そんな野心はなさそうですね。
(参考文献 森護氏『英国王妃物語』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
ウィリアム1世王女 コンスタンス・オブ・ノルマンディ
ブルターニュ公アラン4世妃
生年不詳~1090
コンスタンスはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの四女か五女です。
才気煥発な娘で、王妃マティルダの一番のお気に入りでした。
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1086年以降にブルターニュ公アラン4世と結婚しましたが
1090年に(たぶん毒殺で)亡くなりました。
ルドン(ブルターニュ)のサン・メランに葬られました。
1672年に棺が発見されています。
(フランスでは、フランス革命の時に王家に縁のある教会や修道院が破壊されて
お墓が見つかっていない王侯貴族がけっこういます)
アラン4世は後にエルメンガルド・ダンジューと再婚しまして
その息子コナン3世は継承戦争でスティーヴン派になったそうです。
ウィリアム1世の後を継いだウィリアム2世は未婚でした。
ヘンリー1世の王子は即位前に亡くなり、ひとり娘のマティルダと王位を争って勝利したのが
アディラ・オブ・ノルマンディの息子、ブロワ家のスティーヴンでした。
女王になってたかもしれないけど…
スティーヴン王王女 ブローニュ伯マリー1世
ブローニュ伯マチュー夫人
1136~1182/在位 1159~1170
マリーはスティーヴン王とマティルダ・オブ・ブローニュの王女です。
幼い頃に修道院に入りましたが、長男ウスタシュ(ユースタス)が父王より先に亡くなり
次男ギョームに嫡子が生まれなかったことからブローニュ伯領を継ぐことになって
1159年に修道院から出てまいりました。
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翌年マチュー・ダルザスと結婚しました。
マチューはこの結婚でブローニュ伯領の共同統治者になりました。
でも、そんなに年も離れていない二人の結婚生活はあまり上手くいかなくて
10年ほどで結婚を解消しました。
結婚解消後、どういうわけだかマチューがブーローニュ伯にそのまま在位して
マリーはモントルイユのSt. Austrebertで修道女になってます。
そこで1182年に亡くなり、そのまま葬られました。
マチューは先立つこと9年前に亡くなっていて、伯領は長女イーダが継承していました。
やはり20年あまりの人生を聖なる場所で過ごしてきた人には
俗世は煩わしいものなのかしらね?
もし父王スティーヴンが徹底的にヘンリー1世王女マティルダを敗っていたら
あるいは女王になった人だったかもしれませんけど、そんな野心はなさそうですね。
(参考文献 森護氏『英国王妃物語』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)