まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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イングランド王ウィリアム1世王女 アディラ

2011-01-25 01:28:32 | イングランド王妃・王女
イングランドに継承戦争を招いた結婚
ウィリアム1世王女 アディラ・オブ・ノルマンディ
ブロワ伯エチエンヌ2世夫人


1062以降~1137

アディラはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの王女で
実は五女かもしれないんですが、文字量の問題で先に持ってきました
四女かもしれないコンスタンスは生年不詳なのでね…

アディラは元気一杯の教養高い女性で
碩学王と言われたヘンリー1世のお気に入りの姉でした。
         
1080~84年の間にブロワ伯エチエンヌ2世と結婚しました。
ブロワ伯は当時フランスで最も裕福な部類に入る貴族で
ヘンリーとともに十字軍にも参加していました。

エチエンヌ2世は1100年にお宝を携えて帰国したのですが
教皇への義理立てのために、翌年またアンティオキアに向かいました。
1102年、ラムラの戦いで亡くなりました。

エチエンヌ2世は臆病者で、戦火の中逃げ出した的な噂が多々あるそうですが
これは後年の歴史家がねつ造したものだそうです。

アディラは領主になった子供たちの摂政を務め、ブロワ伯領と自分の領地を治めて
フランス王家を凌ぐほどの富める領地にしました。
立派だね! 夫の死後会社を盛り立てた女社長って感じでしょうか?

しかし、そんなアディラにも頭痛の種が…
長男のウィリアム(ギョーム)は、退化した人間じゃなかろうか?と言われるほど
知性に欠けた人だったらしく(精神的な病説あり)、アディラとは不和でした。

そこで一度は譲ったブロワ伯領とシャルトル伯領を、1107年に
次男ディボー(テオバルド)に指名し直しています。
ここで継承争いなどが起きなくて良かったですね。 強い母のおかげでしょうか?

そして三男エチエンヌ(スティーヴン)は、1111年
弟ヘンリー1世のイングランド宮廷へ送りつけました。
アディラの読みはあたり、スティーヴンはヘンリー1世のお気に入りになります。

ヘンリー1世はマティルダ・オブ・スコットランドとの間に
ウィリアムという王子がいましたが1120年に嫡子が無いまま亡くなります。

そこでヘンリー1世はスティーヴンに王位を譲ることを約束しました。
これが口約束だったので、後々ややこしいことに…

1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世を亡くした王女マティルダが帰国しました。

ヘンリー1世の頭に「マティルダを女王にしちゃおっかな」という考えが
むくむくわき上がり、前言を撤回したりするもんで、ヘンリー1世の死後
スティーヴンが即位したものの、各家を巻き込んでの継承戦争に突入しました。
どちらかというとスティーヴン有利だったんですけどね…

姪マティルダ(皇后)と嫁マティルダ・オブ・ブーローニュ
激しく争っている間のアディラの動向はよくわかりませんが
1120年にはマルティニーの修道院に隠遁していたらしいのよね。
たぶん影ながら息子を応援していたことでしょう。

1129年に末っ子ヘンリーがウィンチェスターの司教に就任したことが
なにより誇りだったみたいです。

1135年にはスティーヴンがイングランド王になったし、もう思い残すことは無かったのか
1137年にポワトゥのマルシリーで亡くなりました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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