まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世妃 コンスタンツェ

2011-01-04 01:11:55 | ドイツ系王妃
俗世に連れ戻された皇后
ハインリヒ6世妃 シチリア女王 コンスタンツェ・フォン・シシリエン


1154~1198/在位 (神聖ローマ皇后)1191~1197 (シチリア女王)1194~1198

名君の誉れも高いハインリヒ6世の妃コンスタンツェは
ナポリ・シチリア王ルッジェーロ2世の王女です。
ハインリヒによるイタリア抱え込み作戦のための政略結婚でした。

ルッジェーロ2世には生存していた子どもがコンスタンツェしかいませんでした。
後継者の甥グリエルモ(2世)は未婚で世継ぎの期待薄でした。
ゆくゆくコンスタンツェが女王になる可能性大! です。

また、グリエルモもイタリアに進出しつつあったノルマン家の勢力に対抗するため
ドイツとの同盟を強化しようと考えていました。

両者の利害が一致して、ハインリヒとコンスタンツェは1186年に結婚しました。

       

コンスタンツェこの時32歳 当時の王女としてはかなりの晩婚です。
ハインリヒは11歳年下でしたから21歳ですね。

どうやらコンスタンツェは修道女になっていたらしいんですれど
結婚のためにやめさせられたという説があります。
この時コンスタンツェは大激怒したという話しもありますが定かではありません。

王女様で、未婚のまま修道女や女子修道院長になってる人は結構いるのよね。
勝手な想像なんですけど、一般の修道女にくらべて楽しい世界だったに違いない…
クヴェートリンベルク修道院なんて城みたいですもんね。

さてさて、この結婚は、ドイツ側とグリエルモには好都合でも
皇帝と敵対する教皇や、ノルマン系の貴族たちにとっては危機以外のなにものでもなく
まったく歓迎されませんでした。

しかも、グリエルモ2世は後継者にコンスタンツェを約束していたのに
いざ亡くなると彼の従兄弟のタンクレーディ王が即位しました。
タンクレーディは庶子ですが、王国の大半が彼を支持しました。

「くっそ~!」と思ったに違いないハインリヒ6世はイタリアに遠征します。
この遠征にはコンスタンツェも同行しました。
これが功を奏したのか、カプア・サレルモ・アヴェルサなどはふたりを歓迎しました。

しかしナポリで反撃にあった皇帝軍はマラリアにも見舞われ、各都市で敗戦しました。
結局シチリアを掌中に収めたのは、タンクレーディが亡くなって
4歳の息子グリエルモ3世が即位した後です。

ハインリヒ6世が晴れてシチリア王エンリコとして戴冠した翌日
コンスタンツェは40歳で待望の皇子フリードリヒを生みます。
ダブルのおめでた! 物語みたいです。

けれども喜びも束の間… 3年後にハインリヒ6世が急死しました。
ハインリヒはシチリアの反乱を鎮めるための出兵前で毒殺説もあります。

コンスタンツェはシチリア王に即位した3歳の息子フェデリーコ(フリードリヒ)2世の
摂政になりましたが、神聖ローマ皇帝の座を狙うものたちが蠢き始めます。
筆頭はハインリヒ6世の弟で息子の公権人のシュヴァーベン公フィリップでした。
フィリップはフェデリーコをお飾りの王にしてイタリアを支配する気でした。

教皇インノケンティウス3世を頼り、なんとか息子の戴冠までこぎつけた
コンスタンツェでしたが、疲れがどっとでたのか病に罹って翌年亡くなりました。

30歳まで過ごした清らかな修道院から連れ戻され、策謀渦巻くどろどろの政治の世界に
投げ入れられて、身も心もクタクタになっちゃんたんじゃないかしら。
そっとしておいてあげればよかったものを…

コンスタンツェは次の摂政に教皇インノケンティウス3世を指名しましたが
この人のせいで息子は一時窮地に陥ることになります。
次の皇后のところを読んでくださいね。

フリードリヒ2世はたくましく育ってそれなりに立派な皇帝になったんですけど
ホーエンシュタウフェン家による皇帝の座は終焉へと向かいます。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント
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