女系家族出身の女王
フリードリヒ2世妃 イェルサレム女王 イザベラ2世
1212~1228/在位 (神聖ローマ皇后)1225~1228 (シチリア王妃)1225~1228
(イェルサレム女王)1212~1228
フリードリヒ2世は、最初にハンガリー王イムレの未亡人だった
コンスタンツェ・フォン・アラゴンと結婚しています。
コンスタンツェが亡くなった3年後の1225年、フリードリヒ2世は
イェルサレム女王イザベラ2世(ヨランダ・フォン・ブリエンヌ)と再婚します。
ものすごく簡単に言っちゃうと、イェルサレム王国は十字軍の際に
キリスト教側の中継地みたいな感じで建国された王国です。
なんか女系みたいで、夫の家系に王家が移っているパターンが多い気がします。
イザベラの母も祖母も女王です。
母マリアはイザベラを産んですぐ亡くなりました。
イザベラはすぐに女王に即位し、父のジャン・ド・ブリエンヌが摂政になります。
1223年、教皇ホノリウス3世、フリードリヒ2世、父ジャンの三者会談が開かれ
イザベラとフリードリヒの結婚が決められました。
なぜかというと…実は摂政だった教皇インノケンティウス3世は
シチリア王フェデリーコ2世(フリードリヒ)をドイツ王にしたくありませんでした。
それであの手この手を打っていたのですが、教皇の裏をかいたフリードリヒは
まずオットー4世を敗ってドイツ王になると十字軍遠征を誓って
1220年に神聖ローマ皇帝に即位しました。
だのに、第5回十字軍の時、フリードリヒは軍は出したものの自分は参加しなかったので
インノケンティウス3世の後を継いだホノリウス3世が大激怒!
「破門するぞ!」と脅して、イェルサレム王として戴冠し十字軍に参加するように言い渡し
フリードリヒも(しぶしぶ)同意しました。
でもそのためにはイザベラと結婚しなければなりませんね?
そんなわけで1225年、ふたりはイタリアのブリンディジ大聖堂で結婚しました。
その席でフリードリヒはイェルサレム王の宣言をして、父ジャンの摂政職を解き
全ての権利を自分に移譲しましたが、実際にイェルサレムに向かったのは数年後です。
フリードリヒはもともと十字軍に乗り気じゃなかったらしいのね。
その上国を離れられなかったり、病気になって途中で引き返したりしていました。
そこで怒ったのが教皇グレゴリウス9世です。
「病気なんて嘘だろ~よ」と1227年にとうとう破門を言い渡しました。
イザベラはというと1226年に(たぶん)王女を出産しましたが1年で夭逝します。
1228年に待望の王子コンラートを生みますが、この時に亡くなりました。
フリードリヒはイェルサレムに向かっていましたが途中で(また)病気になり
オトラントで静養中でした。
イザベラはアンドリア大聖堂に葬られました。
フリードリヒ2世はその後めでたく十字軍に参加して、その上(無血で)勝利し
イェルサレムに入ると王の宣言をしました。
破門中で誰も戴冠してくれなかったので、自分で王冠を頭に載せたそうです。
その後イェルサレムに進軍してきた教皇軍に勝利して破門は解かれました。
めでたし、めでたし…
生まれた時から女王というとスコットランド女王メアリーなど
華やかな経歴の人もおりますけど…
イザベラにはあまりエピソードがありませんね。
13歳までは父ジャンの、その後はフリードリヒ2世の影で過ごして…という印象です。
たった16年の人生です。
せめて父ジャンもフリードリヒも、彼女をちゃんと愛してくれていたと願いたいですね。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
フリードリヒ2世妃 イェルサレム女王 イザベラ2世
1212~1228/在位 (神聖ローマ皇后)1225~1228 (シチリア王妃)1225~1228
(イェルサレム女王)1212~1228
フリードリヒ2世は、最初にハンガリー王イムレの未亡人だった
コンスタンツェ・フォン・アラゴンと結婚しています。
コンスタンツェが亡くなった3年後の1225年、フリードリヒ2世は
イェルサレム女王イザベラ2世(ヨランダ・フォン・ブリエンヌ)と再婚します。
ものすごく簡単に言っちゃうと、イェルサレム王国は十字軍の際に
キリスト教側の中継地みたいな感じで建国された王国です。
なんか女系みたいで、夫の家系に王家が移っているパターンが多い気がします。
イザベラの母も祖母も女王です。
母マリアはイザベラを産んですぐ亡くなりました。
イザベラはすぐに女王に即位し、父のジャン・ド・ブリエンヌが摂政になります。
1223年、教皇ホノリウス3世、フリードリヒ2世、父ジャンの三者会談が開かれ
イザベラとフリードリヒの結婚が決められました。
なぜかというと…実は摂政だった教皇インノケンティウス3世は
シチリア王フェデリーコ2世(フリードリヒ)をドイツ王にしたくありませんでした。
それであの手この手を打っていたのですが、教皇の裏をかいたフリードリヒは
まずオットー4世を敗ってドイツ王になると十字軍遠征を誓って
1220年に神聖ローマ皇帝に即位しました。
だのに、第5回十字軍の時、フリードリヒは軍は出したものの自分は参加しなかったので
インノケンティウス3世の後を継いだホノリウス3世が大激怒!
「破門するぞ!」と脅して、イェルサレム王として戴冠し十字軍に参加するように言い渡し
フリードリヒも(しぶしぶ)同意しました。
でもそのためにはイザベラと結婚しなければなりませんね?
そんなわけで1225年、ふたりはイタリアのブリンディジ大聖堂で結婚しました。
その席でフリードリヒはイェルサレム王の宣言をして、父ジャンの摂政職を解き
全ての権利を自分に移譲しましたが、実際にイェルサレムに向かったのは数年後です。
フリードリヒはもともと十字軍に乗り気じゃなかったらしいのね。
その上国を離れられなかったり、病気になって途中で引き返したりしていました。
そこで怒ったのが教皇グレゴリウス9世です。
「病気なんて嘘だろ~よ」と1227年にとうとう破門を言い渡しました。
イザベラはというと1226年に(たぶん)王女を出産しましたが1年で夭逝します。
1228年に待望の王子コンラートを生みますが、この時に亡くなりました。
フリードリヒはイェルサレムに向かっていましたが途中で(また)病気になり
オトラントで静養中でした。
イザベラはアンドリア大聖堂に葬られました。
フリードリヒ2世はその後めでたく十字軍に参加して、その上(無血で)勝利し
イェルサレムに入ると王の宣言をしました。
破門中で誰も戴冠してくれなかったので、自分で王冠を頭に載せたそうです。
その後イェルサレムに進軍してきた教皇軍に勝利して破門は解かれました。
めでたし、めでたし…
生まれた時から女王というとスコットランド女王メアリーなど
華やかな経歴の人もおりますけど…
イザベラにはあまりエピソードがありませんね。
13歳までは父ジャンの、その後はフリードリヒ2世の影で過ごして…という印象です。
たった16年の人生です。
せめて父ジャンもフリードリヒも、彼女をちゃんと愛してくれていたと願いたいですね。
(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)