まりっぺのお気楽読書

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イングランド王ヘンリー2世王女 マティルダ

2011-01-29 02:30:02 | イングランド王妃・王女
波瀾万丈の夫を支えた…のかしら?
ヘンリー2世王女 マティルダ・オブ・イングランド
ザクセン公ハインリヒ3世妃


1156~1189

マティルダはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの長女です。
兄の共統王ヘンリー妃マーガレットは後にハンガリー王ベーラ3世と再婚しました。
弟にリチャード1世とジョン王がいます。
        
1165年、ケルンの大司教がルーアンにあるヘンリー2世の宮廷を訪れて
9歳のマティルダとドイツ諸候を結婚させたいと持ちかけました。

しかし大法官で対立教皇派のレスター伯ロバートは大司教に会おうともせず
自ら神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の皇子とマティルダの縁談を進めました。
この縁談は上手くいかなかったのだけれども、代わりにフリードリヒ1世の盟友
ザクセン公ハインリヒ獅子公との縁談がまとまりました。
1167年にイングランドを発ち、翌年1月に結婚したマティルダは11歳、
ハインリヒは再婚で38歳でございました… いつもながら年の差は考慮されないのね。

神聖ローマ帝国の力を確立したいフリードリヒ1世と共に戦うハインリヒは留守がちで
マティルダが代わって領地を治めていました(とはいってもブレーンがいたでしょうが…)

ところが、ハインリヒとフリードリヒの間に亀裂が入ります。
ドイツ王、ひいては神聖ローマ皇帝の座を狙っていたハインリヒの心を知ってか知らずか
フリードリヒ1世が4歳の我が子をドイツ共治王にしてしまったからです。
イタリアで苦戦するフリードリヒの援護も拒み、味方の諸候を引きつれ離反しました。

フリードリヒ1世は大敗してイタリアから帰って来たのだけれども
反ハインリヒ派を集めて、ハインリヒに大敗の責任を負わされてることに成功します。

そんなわけで、1182年、ハインリヒ一家は追放になってしまい
ノルマンディへ渡ってヘンリー2世の世話になります。
嫁の実家に居候…今だと肩身が狭いけど、当時はよくあったことですし
城がいくつもあるのでね…敵に睨まれなければ快く貸してくれたんじゃないでしょうか?

マティルダはアルジャンタンの宮廷で叙情詩人ベルトラン・ド・ボルンと知り合いました。
彼は詩の中にマティルダをエレナとかラナという名で登場させたそうです。
なにかあったかどうかは知りませんけどね…

1185年、ハインリヒとマティルダはやっとザクセンに帰ることを許されました。
ところが、1189年にいいがかりみたいな理由で再び追放を言い渡されます。
1190年に、フリードリヒ1世は十字軍に参加しているのね。
自分がいない間に好き勝手をやられては困ると考えたのではないでしょうか?

マティルダはハインリヒの利益を守るべくブラウンシュヴァイクに残りましたが
ハインリヒが発ってから3ヶ月後に亡くなりました。

あまり活躍したエピソードが無いんだけど、父王の宮廷ではいじけないように励まし
5人の子供(3人は夭逝)を育て、夢を諦めない夫を支えたんでしょうね(あくまで想像)

ハインリヒ獅子公はフリードリヒ1世の皇子を敗りましたが、その後和解して
マティルダの死から6年後にブラウンシュヴァイクで亡くなりました
ふたりともブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られています。

               
              すっとぼけた顔が憎めないのでもう1枚

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)

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