まじくんママのぷち旅ぶろぐ

トミーズツアー旅の編集人がつづる「四季の京都」周辺とたまに帰る「ふるさと富山」のお出かけぶろぐです。

京都:羅城門跡と矢取地蔵

2009年01月22日 | 京都市南区

P1030072昨日は、東寺の初弘法でした。毎月21日に行われ、この日は、東寺の前の道路は大変込み合います。自宅から東寺までは市営バスに乗って「東寺南門」もしくは「東寺東門」というバス停で降りるんですが・・・渋滞でバスが動かないので、ひとつ手前の「羅城門(らじょうもん)」で降りて歩きます。ゆっくり歩いてもバスより早く東寺さんに着きます。(^^;)

羅城門は、平安京の南端に建っていた大門で、正面は32メートル、奥行8メートルもある大きな建物で、2層からなり、瓦ぶきの屋根の上には金色の鴟尾が輝いていたそうです。この門を境にして、都の中と外に区別されていました。羅城門は、弘仁7年(816)に大風で倒壊し、再建されましたが、天元3年(980)の暴風雨で再度倒壊してからは再建されませんでした。国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は、夜ともなれば誰も近付かぬ荒れはてた一画となったそうです。

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現在、その地は、バス停の少し手前の奥に入ったところに、小さな公園があり、石碑があるのみです。ちょっと寂しい感じがします。なお、門は、古くは「らせいもん」と漢音読みでしたが、音記・表記がいくつかあり、謡曲「羅生門」発表以降は羅生門(らせいもん・らしょうもん)の表記が定着しましたが、近年、羅城門に表記が統一され、読みも「らじょうもん」となったそうです。ややこしや・・・。(ーー;)

P1030069_2 公園の手前には、お堂があり、矢取(矢負)地蔵(やとりじぞう)が祀られています。逸話「矢取地蔵記」由来のものです。

その昔、天長元年(824)、日照りが続き人々が乾き飢えていた時、時の天皇が、西寺の守敏(しゅびん)と東寺の空海(弘法大師)に雨乞いを命じたそうです。いわゆる「神泉苑の雨乞い合戦」で、勝者は空海の方でした。敗れた守敏は空海を妬み、待ち伏せして矢を放ったところ、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け、空海は難を逃れたそうです。その黒衣の僧は、実は、お地蔵様で、いつしか、矢取地蔵と呼ばれるようになったそうです。

しかし。えらいお坊さんなのに、妬んで待ち伏せなんて・・・本当でしょうか?お堂をのぞくと、そんな物騒なお話とはかけ離れたような、ふっくらとかわいらしいお顔のお地蔵さんのお顔が見えます。背中に身代わりとなった時の傷があるそうですが見ることはできません。お堂は明治18年に周辺の人々の寄進によって建てられたものです。参拝は自由です。

P1030067_2 お堂の前には、たくさんのお地蔵さんが祀られています。昭和の初期に、この当たりの工事をした際に、地中から出てきたのだそうです。

芥川龍之介の羅生門を読むと「楼上で死体の髪を抜く老婆・・・」なんだかすごい光景を想像してしまいますが、現在のこの辺りは、交通量も多く、商店や住宅地なんで、おどろおどろしい雰囲気がありません。でも、小さなお地蔵さんを見ていると、少しだけ平安の世を偲ぶことができます。なお、お地蔵さんといっても、姿形のはっきりしたものでなく、自然の石のようなものもあります。ちなみに、この羅城門から南に下がった旧街道沿いにある我が町内のお地蔵さんも、自然の石のようなものです。【前ブログ】町内の人に聞くと、かなり古いものなのだそうです。平安の頃らしい・・・。

東寺さんから歩いて5分ぐらいです。機会があれば訪ねてみて下さいね。


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