みに・ミーの【みにスケール模型日記】

ミニスケールAFVを中心とした模型日記です。

王海著「我が闘いの生涯」(上)08

2013年10月19日 19時47分57秒 | 書籍
忘れがたき教訓
 抗美援朝戦争〔朝鮮戦争の中国側呼称。美は美国、アメリカのこと。亜美利加と漢字を当てたことから〕において私は、本大隊を率いて15対0の戦績を挙げた。私本人の戦績表には撃墜撃破9機が記され、被撃破の記録が記されてはいなかった。しかし残念ながらこの記録は終戦まで保持できなかったのである。
 1953年3月27日、私は敗北を喫した。この日の午後15時19分、空軍合同指揮所より、第3師団第9連隊は8時離陸、敵機を迎撃、との指令を受けた。私はその時、瀋陽の北陵飛行場で待機しており、命令を受けて直ちに8機のミグ15bisを率いて出撃した。離陸後、左に旋回して上昇しながら、集合して編隊を組む。清河城上空で高度1万メートルにまで上昇し、寛甸以北で戦闘区域に近づいた頃、私は「増槽を落とせ」の命令を出した。この時の高度は1万2千メートルに達していた。編隊が寛甸上空に到達した時、「右旋回」の命令を発し、鴨緑江と平行に進んだ。
 この日、空は雲もなく晴れ渡って、視界は10キロに及んだ。四方を見渡すに、未だ敵機の影は見えない。我々8機は前と後ろの2小隊に分かれ、私は第一小隊を率いて前を飛び、第二小隊は後ろに従った〔訳注:原文は「中隊」。ここは8機を4機ずつの編成に分けたという話であり、4機の編隊を飛行中隊とは普通呼べないので、仮に小隊と訳しておいた〕。編隊が大堡の東南上空に近づいたとき、第二小隊4号機の周振芳が左前方に4機の機影を発見し、小隊長機の魏双禄に報告を行った。魏はそれが前方を飛行中の長機小隊だと考え、すぐに「105号機だぞ」と答えた(105号機は私の番号で、ここでは私の率いる長機小隊を指す)。
 実は、周振芳の見たのは私の機体ではなく、敵機だったのである。魏双禄の不注意により、敵に先んじて攻撃位置に着くというチャンスを逃してしまったのだ。(続)

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