みに・ミーの【みにスケール模型日記】

ミニスケールAFVを中心とした模型日記です。

王海著「我が闘いの生涯」(上)07

2013年09月16日 00時01分03秒 | 書籍
 焦景文の援護の下、私は加速して追撃し、一連射で前方の米軍機一機に損傷を与えた。それと同時に焦景文も発射ボタンを押し、私を攻撃しようとしていた一機を撃墜した。
 この時、僚機の慌てた声が聞こえてきた。「102号、待避せよ!後方に敵機!」返答するまもなく私は即座に機首を右に旋回させた。右主翼下を光の筋がかすめて行き、敵の弾丸は幸い命中しなかった。
 焦景文は長機の安全のため、後ろから次々と撃ってくる弾丸の何本もの光の帯をものともせず、私の後ろで右に左に身を挺して援護し、私の機を引き起こさせてくれた。突然、焦景文の機が激しく揺れるのが見えたと思うと、コクピットに火の手が上がった。私は「103号、脱出せよ!、すぐに脱出せよ!」と叫びながら、同時に僚機の上方に出て、上昇降下を繰り返しつつ、6回の連続攻撃を行い、米軍機一機を上空で爆発させ、焦景文を包囲していた米軍機を追い払った。焦景文が脱出後米軍機の攻撃を受けないよう、私は上空で旋回し援護した。
 その一方で馬保堂と劉徳林のペアが、焦景文を撃墜したその米軍機の進路を遮っていた。馬保堂は我が身を顧みず、6機の敵機の撃ち出す段幕をすり抜けて、その米軍機を撃墜した。これを見た米軍の「油挑子」〔訳注:F-84のこと〕6機はすぐさま馬保堂を包囲する。
 長機の危機を見た劉徳林は機の向きを変え、数連射し、敵機を自分の方に引きつけたかと思うと、突如上昇旋回し、有利な高度を占め、そして急降下してきた。二機の敵機に照準して機関砲3門を斉射すると、敵機は相前後して煙を引きながら清川江に突っ込んでいった。
 戦闘の結果、第42連隊は2機撃墜、第9連隊は7機撃墜、2機撃破のスコアを上げた。我が第1大隊は仲間の部隊の援護という作戦任務を満足にこなしたのみならず、米軍機5機撃墜1機撃破で6対1の記録を打ち立てた。これは私自身の4機目と5機目の撃墜破記録でもあり、喜ぶべきことだと言えよう。しかし非常に気がかりなのは、焦景文が脱出後どうなったか情報がないことで、彼が無事に部隊に帰還しない限り私の心は安まることはない。
 1952年1月14日、我が師団 は一巡目の実践訓練任務を終え、命令を受けて後方に下がって休息した。1951年10月21日から1952年1月14日までの86日の実戦期間中、合計で延べ2318回出動し、大小の戦闘は21回、師団全体の敵機撃墜撃破は64機、敵に16機を撃墜され、7機を撃破された。この内我が第9連隊第1大隊は敵機15機を撃墜破。全師団の成績優秀者8名の内の3名を、我が大隊が占めている。私は米軍機5機を撃墜破、私の僚機の焦景文は4機、劉徳林は3機である。このことから我が大隊は戦友達から「英雄王海大隊」と呼ばれたのである。(続)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿