ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

兵学校から500マイル

2012-08-17 03:21:48 | その他の日本の音楽

 知人から昨日来たメールの中に「最近、鶴田浩二を聴いている」なんて一節があり、ワールドミュージックの道遥かなり、などと思ってしまったのだが、鶴田の名を見て書いておきたかったことを思い出したので、そいつを文章にしてみようと思う。意味あるものになるかどうかわからないのだが。

 生前は我が町内の町会長などもやっていたことのある写真館経営のMさんは、もう多くの日本人が失ってしまっている習慣を一人、守っていた人でもあり、それが何といえば国の定めた祝日には必ず国旗を挙げる、というものだった。律儀に、というか凛とした姿勢でピンと綺麗な日章旗を祝日ごとに店先に翻らせる様を見ていると、そもそも国旗さえ持っていない自分が申し訳ないようにさえ感じられさえしたものだった。

 そんなMさんの写真館の片隅に、彼の思い出の写真コーナー、みたいなものが設けられていて、そこに掲げられた写真の一枚が、Mさんが鶴田浩二と並んで撮ったスナップ写真なのだった。
 場所は、旅館の廊下か何かなのだろう。私の記憶の中よりちょっとだけ若いMさんと、揃いの旅館の浴衣を着た鶴田浩二が並んで写っている。その世代の人たちらしい無骨さで、特に笑顔を見せるでもなく、なんとなくぎこちない表情で二人は写真の中にいた。
 軍隊の同窓会、とは言わないか、ともかく戦争中に同じ部隊か何かに属していた者たちが、戦後、もう一度集ってみて旧交を温める、みたいな集いのひとコマと想像できた。戦時中は海軍で通信兵などやっていたらしいMさんだったが、鶴田も同じ部署にいたのだろうか?特攻隊の話などしている鶴田ばかりが記憶に残っているので、それもピンと来ないが、軍隊における”同期”の定義もよくわからないので、このへんは何とも分からない。

 その写真と一緒に並べられていた海兵グッズ(?)が、私はちょっと好きだった。通信兵が訓練施設で学ぶ様子を描いた写真やら図説やら。通信兵の訓練用の機器のフィギュアのようなものもあった。悲しい戦争の時代だったけど、それはそれでMさんの青春だったのだろう。それらのものを見ていると、Mさんが兵学校のある日、胸いっぱいに吸い込んだ朝の空気や、友人たちと交わした会話や、戦乱の狭間にも、それなりにあったのだろう胸のときめき、そんなものが瑞々しく蘇ってくるように見えた。鶴田浩二がそのどこに絡んでくるのか、よくわからなかったが。

 このような話を書くと、冒頭の国旗掲揚のエピソードもあり、Mさんが右翼的な人物であったかのように受け取られてしまうかもしれないが、むしろ彼は戦前のモダニズムに生きたインテリ青年の陰りなど漂わせた、まあ、若い頃はかっこよかったんだろうななどと想像させる、立派な体躯のオシャレな老人だったのだ。だけどちょうど戦争が、ということなのだろう。
 Mさんの戦争時代の体験や、戦後、寫眞館を開くに至った経緯など、特に訊いたこともないのだが、それはいろいろあったのだろう、それは。
 そんなMさんも数年前、長年連れ添った奥さんと、まるで互いに相手を追い合うように同じような時期に静かに逝かれた。まるで消え去るように。兵学校の日々を遥か離れて。

 鶴田浩二で好きな曲といえば、「赤と黒のブルース」だろう。というかそれ以外、彼の歌をあれこれ言うほど聴いてはいないが。
 「赤と黒のブルース」は、詳しいことは知らないが、まあ、昭和30年代とかに作られたアクションもの映画の主題歌なのだろう。当時の流行りものをあちこちに配したノワールものの作りは悪くない。なんか暗黒の快楽系の、初期のトム・ウエイツが作りそうな曲ではないか、詞も曲も。

 それこそ、戦争から復員してきた一本気な男が、戦後の理不尽な時代の変化に馴染めず、黒社会にズルズル落ち込んで行く、兵学校の日々を遥か離れて。その自堕落な快楽が思い切り歌われている。そう、ダメになって行くことの心地よさが。このへんも大衆音楽の真実の重要なテーマですな。




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