ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

三八式歩兵銃2012

2012-08-14 05:16:18 | 時事

 オリンピックも終わったことだし、いつまでも夏バテなんて言っていられない、そろそろ本気になって音楽のことを書き始めようか、なんて考えていたのだが、国営放送でやっている原爆関係の特番のシリーズを、やはり見ておくべきだろうとチャンネルを合わせてしまい、またまた別の方向に落ち込むこととなった。
 3・11以後、核の問題は他人事とは思えなくなっている。なにしろこちとら、シーベルト、なんて単位がなんのことか理解できるようになってしまっているのだから。

 それにしても国家というシステムの、なんとそこに住む人々に対して酷薄なことだろう。広島、長崎で被爆した人々のうち、国によって被爆者と認定されているのは数パーセントに過ぎない、とはなんとひどい話か。しかもその”非認定”の根拠となっているものの一つが、あの、今日の福島で、既に見当違いだと結論の出ている”同心円状に広がる被爆地帯”の考え方だなんて。
 もう、原爆投下から何年が経っているというのだ。それは、そんな事実さえ知らずにいた私も、相当に間抜けではあるのだが。

 「デモをやっている連中は脱原発とかいうが、産業界の都合を考えたら、それは誠に非現実な論と言わざるを得ない」なる財界のアタマの言葉、太平洋戦争当時、上官が新兵たちに歩兵銃を指し示しながら行ったというあのセリフ、

 「お前ら、一銭五厘のハガキでいくらでも招集出来る新兵どもに比べて、恐れ多くも陛下より賜った、この高価な銃。どれほど貴重か、分かるか」

 なる言葉と、寸分違わないと感じるが、どうか。

トーキング・ドラムの地下水脈

2012-08-12 16:01:41 | アフリカ

 ”WUY YAAYOOR”by VIVIAN N'DOUR

 いろいろ事情ありでだいぶ前からセネガルの音楽にご無沙汰している私なのであって。
 だが、慌ててこの、セネガルのユッスーの姪に当たるらしい歌手の新アルバムを手に入れてしまったのは、ほかでもない。「セネガルの音楽が一部で大変なことになっているらしい。ともかくパーカッション群乱打状態で、まるでナイジェリアのフジみたい」なんて噂話を聞いてしまったからで。人後に落ちないフジ・ミュージック・ファンの私としても、そりゃ気にならずにはいられないでしょう、それは。
 聴いてみると確かに、タマをはじめとする各種パーカッションの乱れ打ちがびっしり敷き詰められたサウンドなのであって、うわ、いつの間に、どのような理由で、こんな状況に至っていたのかとのけぞるしかないのだった。

 そりゃまあ、ナイジェリアとセネガルの民俗ポップスでは、似たような構造のトーキングドラムがどちらでも活躍しており、いずれはどんな形でか影響しあうのはありえないことでもなかったのかも知らないが。
 それにしてもしばらく聞かないうちに、ポップ・ンバラなんてジャンルもセネガルには成立していたんですね。このアルバムの主人公たるヴィヴィアン嬢のやっている音楽はまさにそれであるとかで、確かにそのサウンドもヴィヴィアン嬢の歌いっぷりも、なかなかスィートに洗練されたセネガル音楽であり、へえ、こんなおしゃれな世界がと、こいつもまた隔世の感というやつだったりするのであります。

 で、そのスィートに洗練されたポップス世界の真下で騒々しい民俗パーカッション群が暴れまわる。こんなもの、ミスマッチというかめちゃくちゃな結果しか生まれないだろうと普通は思われるのだが、この盤の音楽、何故か無理なく聞けてしまうのですな。これが不思議だ。
 むしろ、未来のアフリカを幻視するようなポップスと、太古に連なるアフリカの地母神の言葉を伝えるみたいなパーカッション群の絡み、そのはざまからなんとも不思議な幻想世界が現出していたりで。なんだかすごいことになってきたなあ。

 まあ、この音楽について何を言う知識も私にはないのですが、ここまで時代が下っていても、まだまだこんなわけのわからない状況が生まれ出るアフリカの生命力に感動するというか、呆れ果てる次第であります。




フランシスコの二人の息子

2012-08-10 23:56:20 | 書評、映画等の批評

 あれは何日前のことだったか、オリンピック中継の狭間の真夜中のテレビで、”フランシスコの二人の息子”なる映画を見た。
 映画ファンではまるでない当方、もちろんこの映画に関する知識はまるでなく、これが現地では大ヒットしたブラジル映画であることなどまるで知らず。

 どこぞの田舎町に、赤貧洗うが如く、なんて言葉を思い出させる暮らしを送りつつ、よせばいいのに子沢山の父親がいて、子供を音楽の世界で成功させる事を夢見て楽器を買い与えたりしている。そのうち、父親の期待に応えるように多くの息子のうちの二人がボタン式アコーディオンとギターのデュオで、その地方の民謡か何かを街角で歌い始め、小銭を稼ぎ始める。そこに、子供たちの才能に興味を持った、いかにも胡散臭い興行師のオヤジが絡み出し、二人を演奏旅行に連れ出したりする。いかにもいかがわしい、食堂の片隅のチップ目当ての”興業”だったりするのだが。

 この、映画の冒頭部分を見ながら私は、勝手にメキシコ北部あたりが舞台の物語と誤解していた。子供たちが歌う民謡はいかにもメキシコのカンシォーン・なんたらと私には聞こえたし、子供たちの演奏旅行の途中で途中でケイジャン・ミュージックのように聴こえる音楽も登場した。おそらく途中で物語は国境を越えて、話の舞台はメキシコ北部からアメリカのテキサスあたりに移るのだろうな、とか予想した。
 そしてこの映画、貧しい子供たちの悲惨な運命に絡めて、ラテンアメリカ世界の矛盾を鋭く突いてきたりするんだろうなと。

 が、どうも成り行きがおかしく、そこで初めて検索をかけて私はこの映画の正体を知ることとなる。
 この映画は、
 ”2005年に公開されたブラジル映画。ブラジルにおけるセルタネージョ(ブラジルのカントリー・ミュージック)のトップミュージシャン、ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノとその家族の半生を事実に基づき描いている”(ウィキペディアより)
 であったのだった。

 どうりで、というかなんというか。若干の成功へいたらんがための苦悩の描写など挟みつつ、街角で歌っていた貧しい少年たちは、あっという間に大スタジアムを満員にした観衆の熱狂に包まれるラテンポップスのスーパースターへと成り上がって行くのだった。
 (いわゆる”天使の歌声”を聴かせていた子供が、青年になるにつれ、脂ぎったヤクザなラテンの伊達男に姿を変えてゆくのは、結構、胃に来る。なんてのは、虚弱なアジア人らしい感想なんだろうね)

 などとダラダラ書いていても仕方がないが。この映画が私の心に妙に残ってしまったのは、冒頭に書いたごとく、最初、舞台がメキシコではないかなどと私に誤解させたくらい、この映画が我々日本のワールドミュージック・ファンが一般に持っているであろう”ブラジル音楽”のイメージをすっきり無視した作りだったから。
 そこではサンバのリズムのサの字も響くことはなく、成功を手中にした”フランシスコの息子たち”が熱狂する大観衆を前にして歌うのは、普通のエイトビートのラテンのバラードである。こんなのがブラジルの大衆の一方の本音であるのも、厳然たる事実なんだよね。

 うん、なんだかその”裏切り”が、こちらの固定概念を覆してくれて痛快だった、というオハナシであります。まあ、普通に見れば歌謡スターのベタなサクセスストーリー、なんだが。

折れたる日々

2012-08-08 06:13:18 | いわゆる日記
 例の「高校生が、イジメで腕に20数箇所も”根性焼き”された」事件。その被害者の方を退学させようとした不思議な学校の事、あちこちのテレビのニュースで報道されたが、なぜか学校名はどの局もふせたままだ。
 これはこのまま伏せた状態で行く気なのかね?それとも、高校野球で仙台育英高校が敗退するまでは伏せておこう、ってことなのかね?

 デブタレの石塚英彦が最近出した「キュッコロリンの歌」ってのが聞こえてくると腹が立って仕方ないんだが、あなた、そうでもないですか?
 なーにが「おむすびが美味しいのは優しい気持ちが詰まってるから」だ、わざとらしい。あれを聞いて心温まれと言うのか、ええおい、レコード会社よ?

 もう聞くこともあるまいと思われるアナログ盤をまとめて中古レコード店に送っておいたのだが、今日、その買取り査定額を知らせる手紙が来た。
 CDならともかくLPであるのだし、あのような盤を聴く人ももうあるまいなあとあまり買取額に期待はしなかったのだが、それほど悲惨な額でもなかったので、やれありがたい、などと。
 で、明細を見てゆくと、その買取額の半分以上は、送付したうちの3枚のLPの値段であると知り、ちょっと驚く。うへえ、あの盤、そんな価値があるのかあ。知らんかった、知らんかった。いつの間にか出世していた知り合いの消息を知るみたいな感じだ。それらは一体、いくらぐらいで店頭で売られるのか、ちょっと見に行きたいくらいの気分である。まあ、見たってしょうがないんだが。

 一時、好きだったあるグラビアアイドルの写真集が急に欲しくなり、通販サイトをあちこち巡ってみたのだが、どこでも売り切れ。まあ、出てからだいぶ時間が立っているからしょうがないよな、と諦めたのだが、サイトの表示をよく見ればそれらは、もう20年も前に出版されたものなのである。もう、売ってるわけないんだよ、はじめから。文学作品なら文庫本化もされようが。
 それにしても、知らないうちに勝手に流れ去っていた時の流れに、というかその事実に気がつかずに過ごしてきた自分の人生の迂闊さに唖然とする。

 クソ暑いわ、しょうもない事ばかりいろいろ起こるわで、どもならん日々である。

はなのうてなに

2012-08-06 03:10:56 | アンビエント、その他

 ”Ambessence piano & drones”by Bruno Sanfilippo & Mathias Grassow

 あれは私がまだほんのガキの頃。親に連れられて行った、多分、親戚の法事の席ではなかったかと思う。ガキのことであるからもちろん、そのようなものには3秒で飽きて、寺のあちこちを探検して回った。

 裏部屋の仏具などを置いてある部屋に入ると、壁に1張りの仏画が張り出してあり、そこには「仏教の立場から言えば、人が死んで召される天国というのは、まあだいたいこのような場所だ」みたいな絵があった。つまり、淡いタッチで空の上の雲のあいだに光に包まれた人影がある、みたいな。

 その絵に添えられていた文章の末尾の一言がなぜか印象に残った。「はなのうてなに むらさきのくも」というのだが。何となくその文章だけのちのちまで覚えていて、なるほどつまり天国というのは鼻のあたりに紫色の雲がたなびいているところなのだな、と思ってみたりするのだが、特にそれで何ごとかご利益がある気配もなし。そりゃそうだね。

 今回の盤は、アルゼンチン出身で現在はスペインに本拠を置いて活動しているアンビエント・ミュージックの達人、 Bruno Sanfilippo の2008年度作品。ドイツの同じくアンビエント・ミュージック作家である Mathias Grassowとの共演で、まさに「はなのうてなに むらさきのくも」状態のアルバムをモノにした。

  Mathias Grassowの奏でるシンセが悠然と、天界に浮かぶ雲の流れみたいな音群をたなびかせ、その狭間にSanfilippo はピアノで、ポツリポツリと誰に当てるでもない呟きみたいなフレーズを置いて行く。
 リズムは刻まれずメロディは流れない。歌うべき歌はすでになく、時の流れさえ、遠いどこかに置き忘れられている。静まり返った空間だけがそこにあり、音はただ、ひと時たゆたい、そして消えてゆく。

 いやあ、暑いっスねえ。日本の夏って、こんなに暑かったでしたっけ?もうすっかり、何をする気もなしで、こんな音楽ばかり聴きつつ、ただひたすらダレダレの日々をただ送るのみ・・・



演歌の面影・1

2012-08-04 22:57:08 | その他の日本の音楽

 ”柳ケ瀬ブルース”by 美川憲一

 ご存知、美川憲一の出世作となった、当時の表現で言えば「夜のムード演歌」であって、何を今更語るべき、みたいなものであるが。
 先日、なんとなく演歌に関わるサイトを覗いていたら、この歌についてひとつの事実を知った。
 もともとこの歌は、長岡の地でいわゆる「流し」をしていた宇佐英雄氏が自身の体験に基づいて作詞作曲した「長岡ブルース」であった。が、たまたま柳ケ瀬の街に遠征して歌っていたのをレコード会社のディレクターに見出され、柳ケ瀬の街に関わりのある新人、美川憲一のデビュー曲に登用されることとなり、タイトルも「柳ケ瀬ブルース」と変更され、レコードとして世に出ることとなった。

 そんな記述が、何か心に残った。とたんに、ギター抱えた演歌師とともに流れる歌と心、のイメージが頭を離れなくなった。
 酒に澱んだ盛り場の、川面に揺れるネオンのあかり、その狭間から自然現象として生まれてきたかのようにさえ思える昔気質の歌が、酒場女の溜息と共に、その路地に浮遊霊の如く染み付いて洗い流すすべもないかと思われた演歌が、裏町演歌師の稼業につれて簡単に流れる。舞台設定さえ変えてしまう。
 それが、酒場歌をいくばくかのオカネに変えては生きて行く、流れの演歌師たちのある意味寄る辺なき、ある意味したたかなナリワイを生々しく感じさせたのだ。

 「そうだ、この歌、この土地の歌に変えちゃいましょう。この土地の地名が入っていたほうが、お客さんも喜ぶよねえ、そりゃ」
 ”悶え身を焼く火の鳥”と歌われた、この歌に宿るタマシイは、見知らぬ土地でその名さえ変えられ、それでも忘れられぬあの人を想い、今夜も雨中に身を焼く。この歌は、宇佐英雄氏が現実に体験された悲恋に基づくものなのだそうだ。

 裏町の歌い手たちの、そしてバンドマンたちの消息はすぐに知れなくなってしまう。ほんとうに雨に溶けるように彼らは姿を消し、そんな彼らの足跡をカラオケの登場は永遠に消した。歌はただ異郷に残り、歪められた名のまま、想いを辿り続ける。

 何をわけのわからんウワゴトを言い出すのだと呆れておられる向きもあろうが、お許し願いたい。なにしろこちとら、温泉地の歓楽街に生まれ育ち、流しのお兄さんにギターを、キャバレーのバンドマンにサックスと音楽理論を学んだスジモノであって、夕暮れ迫る辻々に赤い灯青い灯が灯り、安い期待に胸ときめかせ街に繰り出す酔客たちの笑い声や、それを迎える女たちの嬌声などが醸し出す、ささやかな華やぎの一刻と、そんな世界の登場人物たちには、それなりの思い入れがあるのだ。

 この3月、作者の宇佐英雄氏が亡くなったそうだ。妻子を北海道に残して単身滞在していた三島の街で客死された、とのこと。長岡の件といい、伊豆の地に肌の合うものを感じておられたのだろうか。
 作家としては、「柳ケ瀬ブルース」はヒットしたものの、作曲と作詞をともに自身で行う独特のスタイルが分業制度の確立した当時の歌謡界には受け入れられず、不遇のうちに終わったようだ。



ブライアンのいない夏

2012-08-02 23:05:56 | 60~70年代音楽

 先日、音楽雑誌の特集に、「ローリング・ストーンズのベストソングス100」なんてものがあり、ファン心理を刺激させられたのだが、こちらはブライアン・ジョーンズ主義の偏ったファンゆえ同じ土俵には上がれないなあ」などと書いた。
 が、その後、そんな自分なりにせめてベスト10なりとも選んでみたくなり、下のようなものをリストアップしてみた。

1) Mother's Little Helper
2) Paint It,Black
3) Satisfaction
4) Get Off of My Cloud
5) Have You Ever Seen Your Mother,Baby,
Standing In The Shadow?
6) Let's Spend The Night Together
7) 19th Nervous Breakdown
8) As Tears Go By
9) Ruby Tuesday
10) She's A Rainbow

 なんだ、あれこれ言う割には変哲もないリストじゃないかと申される方もおられましょう。まあね、私は通人でもマニアでもない、単なる偏屈なファンでしかないんで、こんなものです。
 ”ブライアン以後”のものは当然入っていないし、最初期の、ブルースやR&Bをせっせとコピーしていた時代のものは当方、リアルタイムで聞いてはおらず、オトナになってからLPで手に入れ、「ほう、デビュー当時はこんな演奏をしていたのか」なんて冷静な聴き方をしてしまったゆえ、これも入れない。たとえブライアンのギターやハーモニカのソロが聴ける曲があろうとも。
 小遣いを握り締め、街角のレコード店に出たばかりのシングル盤を買いに走った、なんて思い出のあるものばかりから選んだ。つまり、60年代中期から後期にかけて、薄汚れたポップバンドとしてヒット曲を連発していたストーンズのみ。

 ”マザーズ・リトル・ヘルパー”なんてのを一位に持ってくる奴も珍しいだろうが別に奇をてらったわけでもない。
 私にとってはこの曲、60年代中頃のロンドンを包んでいた、歴史の集積に煤けつつ新しい時代の予感を孕んだ空気と、その風景を皮肉な視線で見つめる悪ガキのロンドンっ子、なんて風景を一番想起させる歌詞であり曲でありギターやドラムに響きであるのであって。いやあ、こんな感じだったんだよ、あの頃のロンドンってさ。いや、知らないけどさ、行ったことないし。

 で、この10曲のどこがブライアン・ジョーンズなんだ?という質問に答えるべくあれこれ考えてみたのだが、まあ、よくわからない。浮かんできたのは、ブライアンのファンがとらわれているのはブライアンの残していった空虚ではないか、なんて答えだった。
 初期のブルースギターのプレイやら、その後、熱中したシタールやらダルシマーやらマリンバやらといった特殊楽器の演奏、あるいは死後に世に出たモロッコの民族音楽のフィールド・レコーディング。それら脈絡のあるようなないようなブライアンの遺産から見えてくるのは結局、いくつもの”?マーク”でしかないのであって、なんの回答も見いだせるものではない。
 その空白に各自が己の幻想を埋め込むこと、それがブライアン偏愛者が行ってきたことのすべてではないのか。

 10曲選ぶうちで非常に困惑したのは、”ジャンピン・ジャック・フラッシュ”の扱いだった。ランクに入れるべきか否か。実にストーンズらしい名曲であり、入れたとすれば当然一位なのだが、これがブライアン期のストーンズの曲と言えるのかどうか。
 この曲の発表時、法律上はまだ、ブライアンはストーンズのメンバーだったのだろうか。けれどブライアンの存在感は、あまり伝わってこない。というよりむしろ、ブライアンの軛を断ち切ったゆえの開放感に満ち溢れ、もしろそれが新しいストーンズの地平を拓く契機となったかのように聴こえても来るのである。まあ、今の耳で聴き直し、あえて屁理屈こねてみれば、の話であるが。
 もともとはバンドの創始者であり、リーダーでもあるべきでありながら、いつのまにやらドラッグ浸けのデクノボーに成り果ててしまった彼を追い出し、バンドを新しい時代にふさわしいものに生まれ変わらせる儀式、それがブライアンの解雇だったかと考えられるのだが、そんな新生の気概が、あの曲の印象的なイントロのギターの響きにも漲っている、なんて思えても来るのである。
 それゆえ、あの歌を複雑な思いなしに受け入れる気分にはなれないのさ。時代の流れにあえて取り残される生き方を選んだ、ブライアンのファンとしては。

 ブライアンが亡くなってからしばらく後の、星加ルミ子編集長の”ミュ-ジックライフ”誌の投稿ページに、こんなブラック・ジョークが掲載されていた。

 来日したストーンズ。東京の天ぷら屋に食事に来たミックとキース。だが、何を注文しても、席にいる人数分より一品多く料理が運ばれてきてしまう。困惑する店員に、あの特徴的な唇を天ぷらの油でテラテラと光らせたミックは呟く。「ああ、ブライアンがまた、付いてきているんだろう」と。




形骸に寄す

2012-08-01 03:18:45 | 音楽論など

 ツイッターを覗いていたらフォーク歌手の中川五郎氏が、反原発運動との関わりの中から、60年代のアメリカン・フォークの重要なレパートリーだった”勝利を我らに(We Shall Overcome)”に新しい日本語詞を付けて歌う試みにトライしていることを知ったのだった。

 「勝利を我らに」とは、ご存知の方はご存知のように、1960年代、アメリカの黒人たちの人種差別との戦いとリベラルな立場の白人たちによるフォークソング運動の交錯の中から生まれてきた戦いの歌で、その後も社会的な運動とフォークソングが関わる現場でいつも重要な役割をしてきた歌である。
 我が国でも反戦フォークの立場から、この歌の日本語歌詞化を試みる動きもあったのだが、どうもうまくいった例には出会えていない。この歌の骨子となっているものが、そもそも日本語に馴染まないのではないか、どんな具合に訳詞してもピント外れのものしか出来ないものなあ、などと私は考えてきた。だから今回の中川氏の試みがどのようなものになるのか、非常に興味があった。

 で、さっそくYou-tubeにあがっているその歌を聞いてはみたのだが・・・どうも、「文学青年が深夜、一人の世界に入り込んで作った”論理的には正しい筈の詞”」みたいな感触があり、私にはピンとこなかった。
 反原発運動の中で歌って行く、というのだが、まず、「大きな壁が崩れる」というフレーズと反原発の戦いと、どうもイメージのつながりが私にはすっきり納得出来なかったのだ。
、「大きな壁もぶつかり崩す」、「大きな壁が崩れる」という部分、いかがなものか。この表現では「何事かを見物している」っぽいニュアンスが漂ってしまい、間が抜けた感じになってしまう。「我々がそれをやるのだ」という想いが浮かんでこないのだ。壁が崩れるのを見物していたってしょうがないだろう。

 中川氏がオリジナルなものとして書き加えたという5番の歌詞も疑問だ。
 「大事なものは/必要なものは/もう一度考えてみよう」なる部分に漂う、歌の創始者側の説教臭が何を今さら、というか「フォークの奴ら、まだわからないのか」などと、鼻白む気分になってしまう。
 また、「おお、便利な暮らしか/緑の自然か」と尋ねられたら、私なんかは”緑の自然”なんかに興味はないから”便利な暮らし”を選んでしまうが。言っておくが、私は原発の存続に反対の立場をとる人間だ。
 また、「100年後に生きる子どもたち」なんてきれい事を言うよりまず、今、ここに生きている俺たちのために原発を止めようよ、などと私は思うのだが。

 と、まあ、私ごときものの感想はともかく。中川氏の新訳”勝利を我らに”のどの節をとっても、英語による本歌の、「私たちは勝利するだろう 私たちは勝利するだろう いつの日にか おお 心深くに 私は信ずる 私たちがいつか勝利することを」という、荒っぽく木片から削り出したようなゴロッと野太い手触りの歌のタマシイとは縁遠いものばかり感ずる。
 
 中川氏は今回、新しい「勝利を我らに」の日本語歌詞作成にあたって、自らに制約を課した、とのこと。それは、「これまでこの曲の日本語化の際に必ず使われてきた”We=我ら、Overcome=勝利、Someday=いつの日か”を禁句にしよう」ということなのだそうだが。
 しかし。この歌は、その三つの言葉で出来上がっているような、言ってみればそれしかないものではないのか。
 「我ら、勝利、いつの日にか」を歌いたくないなら、なんでその三言だけで出来上がっているような”勝利を我らに”を歌いたがるのか。
 やはりそこには文学青年の自己満足、そんな臭みばかりを感じ取ってしまい、中川氏の作業に拍手を送る気にはまるでなれない私なのだった。

 というか、「皆が運動の中で心を一つにして歌を歌う」なんてことにまるで共鳴できない、そんな場面に出くわしたら気持ち悪くて逃げ出してしまう私なのだから、そもそもこの話に口を出すのが筋違いなのだが。
 いや。そんな私をも、一緒に歌を口ずさませてしまうような”勝利を我らに”に出会えるのかと期待をしないでもなかったのだ、私だって原発には反対の立場をとる者の一人であるのだから。だからあえて発言してみた。まあ、中川氏がこの文章を読まれる可能性もあんまりないのだが。