ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

真心真意過一生

2006-02-15 21:23:37 | アジア


 例えば・・・今日(15日)の朝日新聞夕刊に音楽ライターの小野島大氏が、M.I.Aなる在英スリランカ人の歌手のライブ評を書いていた。その中でいわく・・・

 「そのユニークきわまりないサウンド。ひっホップ、エレクトロ、バングラ、ダンスホールレゲエからバイレハンキまで、世界中のダンス音楽のエッセンスをぶち込んでシェークしたような」

 このような一連の文章を読むたびに複雑な気分になるのは私だけだろうか?
 思えば、ワールドミュージックなる言葉が喧伝され始めた頃、このようなフレーズは、シーンの最先端を走っているとされたミュージシャンの音楽のすばらしさを表現するための決めの台詞として頻発され、また私のほうもまさに蟻に砂糖壷(妙な表現だが、何かの小説で読んだのだ)といった状態で、そうかそうか、そりゃ面白そうだと、さっそくそのミュージシャンにチェックを入れたものだった。

 さまざまな音楽性の国境を越えた結合。砂漠の国の伝統音楽にヨーロッパのダンスビートが入り込み、ニューヨーク仕込みのヒップホップ風音作りが絡む。おお、世界音楽連帯の豊穣なる果実よ。が、まあそれもまた、次から次へと似たような仕掛けが繰り返されれば、やっぱり手垢にまみれた既視感だらけの退屈な代物になってしまうのだった。いつしか私は、引用したような文章を読むだけで、その”ハイブリッドな”音楽に、まだ聞いてもいないうちから倦むようになっていった。

 そんな傾向を決定的にしたのは香港ポップス界の人気歌手、サリー・イップが1992年に発表したアルバム、”真心真意過一生”だった。”99年間の借り物の時間”の上に浮かぶうたかたの泡のような、きらびやかで儚い香港という土地の繁栄。そこに人々が結んだ夢の数々が、まるで影絵芝居のように行過ぎる、そんな印象のアルバムだった。
 歌われているのは、何曲かのジャズ・ナンバーを除けば、中国の、ほとんど懐メロといっていい古い歌ばかり。なんの新しい試みがあるわけでもない。

 サリー・イップが何を意図してこのようなアルバムを製作したのか、もちろん私はしらない。が、私には彼女が香港という不思議な時間と時の中に生きる中国人たる自分の足元を見つめ、降り積もった歴史の枯葉を踏みしめ歩くように歌をつむいで行った、その結実として、このアルバムがあるように感じられた。

 このアルバムとの出会いあたりを景気に私は、自らの血や、民族の刻んだ時にこだわりつつ歌われる、そんな音楽に惹かれるようになって行く。別に、無理やりラップなんか導入する必要なんかまるでないのよな、ほんとにさ。






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