コンゴのユニークな身障者バンド(こういう表現は叱られるんだろうか。でもみんな、そういう認識だよね)である”ベンダ・ビリリ”の新譜が出たとかで、音楽雑誌にアルバム評などが出ている。それ読む限りでは出来が良さそうなのだが、なぜかあまり聞く気が起こらず、注文も出さずにいる。このまま聴かずに終わる可能性が高い。
不思議な新楽器を導入などして、その音楽性もゴンコの伝統的ポップスの形からは微妙に、そして愛嬌たっぷりにズレまくったそのサウンドを私は結構お気に入りで、たしかその年のベストアルバム10枚の中に選出もしたのだった。
にもかかわらず、この興味のなさはなんだ。出来が悪いという評判でも立っているならともかく、その逆なのだから、意味が通らない。自分の心中を探ってみても、なんとなく聴く気が起こらない」なんて答えしか見つからないんだが。
なんか、こんな微妙な行き違いってのがあるんだな。聴いても不思議でないバンドの新譜に、なぜか興味がおこらない。その一方、それほど良いってわけでもないバンドを、だらだらと聴き続けたり。その場の成り行きの気まぐれとしか言い様がないんだが。
同じく音楽雑誌を読んでいたら日本の女性シンガー・ソングライター、”たむらぱん”の新譜が出たようだ。こちらも一時入れ込みかけたのだが、今はもう、聴く気にならない。これには説明できる理由がある。
そもそも”たむらぱん”に興味を持ったのは、あるアニメの主題歌を聴いて気に入ったからだった。もう何年も前の話で、アニメのタイトルも忘れてしまったが。
それは良い具合にひねくれた日本語のロックで、こいつはいいやと。この歌い手は好きになれそうだ、と。
で、早速、出たばかりのセカンドアルバム、次いで1stも買い込んできて大いに期待して聴き始めたのだが。なんかねえ。期待したような面白さが感じられなかったのだ。音楽としての出来はいい、見事なものだとさえ感じたのだが。が、どうも彼女の音楽を楽しめなかった。
そこには、なんというのかな、アニメの主題歌にあった”軽み”が感じられなかったから。なんか生真面目に張り詰めた感性。代わりに漲っていたのは、そんなカチカチの感触だった。
おそらく彼女、真面目な人なんだろうね。それが、アニメの主題歌の仕事などでは、メインの仕事ではないゆえに自然に肩の力が抜けて、私好みの軽みのある音楽性を発揮する。ところが、自身のアルバム、などという物件になると「立派な作品を作らねば」なんて意識が勝ってしまい、まあ、私のようなファンには残念な結果が出てしまうのだ。
その後も、彼女の手になるテレビの子供向けの番組のジングルなどを聴いたりするたびに、「うん、やっぱり”たむらぱん”って良いなあ」と思いはするのだが、そこで聞ける楽しさは、やっぱりアルバムの中にはないのだろうなあと、膨れる思いを握りつぶしている。
彼女が肩の力を抜いて、私の愛する軽みがメインに置かれたアルバムなど出してくれる日は来るのだろうか。とりあえず、気長に待つつもりではいるのだが。
「ワールでミュージック的観点から日本の歌謡曲を聴き直してみる」という探求目標は前からあったのだが、「自分ももう年寄りである」との自覚のもとに、この夏から気を入れて聴き始めたNHK”ラジオ深夜便”の”にっぽんの歌”コーナーだが、個々の歌手やら作詞者やら作曲者やらでテーマを絞った番組作りが資料としてありがたく、いろいろと刺激をもらっている。背景を知るうち、あれこれ興味を惹かれるようになった楽曲もあり、なんとなく聞き流していた歌手たちの人生のうちに控えるドラマも知った。
そうこうするうち、なんだか知らないが、「歌謡曲世界に再踏み込みを行うなら、まず奥村チヨから聴き直さねばならん」なんて出どころ不明の思い込みが心中に発生し、あちこちネット店を探索するのだが、私の探していた「”恋の奴隷”とかで盛り上がる前、”ごめんねジロー”期の彼女が出したオリジナルアルバム」のCD化されたものが見つからない。CD化されなかったのか、されたが、もう廃盤になったのか。などと思いながら夜明けまで検索を繰り返し、諦めて夜明けに眠り、目が覚めて遅い朝飯を食い終われば、なんでそんなものに執着したのか、自分でもわからなかったりする。
それでも船は行く。