ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

だいせんじがけだらなよさ

2009-02-14 06:30:34 | 60~70年代音楽


 ”寺山修司とともに生きて”by 田中未知

 田中未知といえば、寺山修司の”天井桟敷”の初期からのスタッフであり、寺山の詩のいくつかに印象的なメロディをつけた作曲家でもあった。そのコンビの最大のヒット作は、あのカルメン・マキの”時には母のないこのように”なのであるが。
 もう大分前の日曜日の朝、朝日新聞の朝刊の書評ページに載っていた、その田中未知の自伝とも寺山論とも言いうる著作に関する文章に目を通し、私はありゃりゃと頭を抱えてしまったのだった。

 なぜって。マヌケな話なんだが、私は著者の田中未知を男性であるとその時まで信じ込んでいたからだ。
 真相は、寺山の公私共にわたる秘書を勤め、彼を支えた女性であり、寺山の死後は、ヨーロッパの片田舎を、まるで自分を埋葬するかのように放浪してまわる生活を選んだ人であった。
 でも。なぜなんだろうなあ、私はこの人を男性と信じ込んでいた。才能溢れる、快活でちょっぴり皮肉屋であり、寺山の傍にあって、時に寺山を鋭い警句でやり込めたりしている、そんな人物であると。

 と言うか、考えてみれば私は田中未知の仕事を詳しく知っているわけではなく、ただ前出のカルメン・マキの出したデビューアルバムを青少年の頃、先輩に聞かせてもらい、田中未知作のメロディに、それなりの感興を抱いた、と言うだけの話だったのだ。

 時は激動の60年代末。聞かせてくれた先輩はすでに大学生であり、今で言うサブカルチャーの支持者であり、その種のことが好きそうな私を、いわばオルグでもするような気で、そのアルバムを聞かせ、寺山の演劇の何たるかを語って聞かせてくれた・・・ようなのだが、その件は何も覚えていない。
 ただ、午後の陽光が差し込む部屋の中に響いていた、田中がカルメン・マキのために書いた牧歌調のメロディだけが印象に残った。「さよならだけが人生だ」そのアンサー・ソングである「さよならだけが人生ならば」などなど。

 そのアルバムに収められていたのはギターをはじめたばかりの私にもコード進行の予想のつくような素朴なメロディばかりだったが、これはおそらく、もっと技巧の凝らした音楽を作ることも可能な人が、寺山の詩のテーマと歌い手のキャラに合わせてあえて演じてみせた素朴さのように感じた。
 これに関しては田中未知がその後、結構メジャーな映画の音楽を担当し、複雑なスコアをものにしていたことから、結構あたっていたのではないかと思う。

 それにしても・・・考えてみればもう何十年も前の話ということになってしまうのに、その時に一度聴いただけの「さよならだけが人生だ」などのメロディをいまだに覚えているってどういうことだろうか。
 でさあ。もう一回言うけど、カルメン・マキの初期、フォーク期のアルバム、現在絶版状態だけどさ、何とか再発出来ませんか、レコード会社の皆さん。廃盤にしておく理由と言うものが分からないんだよね、私には。



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