”DAO NOY SOY ROCK”by DAO NOY SIANG ESARN
何だこれは、と。ここは(笑)と付けておくべきなのかも知れない。あるいは(汗)か。
タイの東北部、穀倉地帯にして最貧地域でもあり、また民謡の宝庫でもあるイサーン地方で歌われているローカル・ポップスの、これが最近の話題盤の一枚だそうなのだが。
当方は、タイ関係では仏教ポップスの”レー”にかまけて、というか「一応これを押さえておけばいいや」などと舐めた姿勢でいたのだが、これが大間違い。その間にタイの音楽シーンはとんでもない事になっていたと反省させられたのは、かのネコジャンプたち、タイのへっぽこアイドルポップス・シーンの盛況を知ったときだった。同じように東北部のローカルポップスにも、こんなものが出て来ていたんだなあ。
ともかく冒頭の”モーラム・ロック”のとんでもないノリがすべて。8ビートのドラムス鳴り渡り、勇壮にホーンは吹き鳴らされ、ヘビメタ調(というか、聴いているとなぜかアルフィーの高見沢の顔が浮んでならない)のギターの早弾きが頻繁に差し挟まれるこの曲に、すっかり恐れ入り、何度も聴き返す始末である。
途中でフィーチュアされる早口の語り。これは、語り物歌芸としてのモーラム音楽の今日の姿と捉えれば良いのか、それともご本人たちはラップのつもりなのか。ともかく盛り上がりそうなものはすべてぶち込んでみました、みたいな狂騒世界が楽しい。
また、それだけサウンドは爆走しているのに、歌唱はあくまでも濃厚に民謡調を引きずっていて、音楽の本質は”あくまでも田舎の演芸”であるのも嬉しい。愛嬌たっぷりの素っ頓狂な彼女らの歌声が実に痛快である。
こんなのがコンスタントに生み出されてくるとしたら、そりゃ凄い話だなあと舌を巻いたのだが、韓国のポンチャクミュージックじゃあるまいし、そうは行かない。3曲目でストンとテンポは落ち、ゆったりとした田園地帯の情緒がたゆたう中で、哀感に満ちたメロディが歌い上げられる。こいつも、都会に行ってしまった恋人を忘れられない村娘の嘆き、みたいな歌なんだろうなあ。いや、そんな歌が多いという話を聞いたんでね。
でも、この対比は凄いなあ。パワフルに飛ばしてみせる”ダンス部”と古きタイの田園の心をしみじみと伝える”バラード部”の落差と言うものが。その後、この両者がほぼ交互に聴かれるのだから、このアルバムでは。メンバーたちにしてみれば「何もおかしいことないじゃない?」と問い返してくるくらい自然な事なのかもしれないけれど。
そういえばずいぶん前に明石家さんまのクイズ番組を見ていたらタイの話題になり、このイサーン地方の音楽がテーマの問題が出題されたんでびっくりした事がある。そこでイサーン名物、語り物演芸のモーラムの喉自慢コンテストなどという珍しいものが画面に映ったのだが、そこでさんまは言っていた。
「この国ではまだ、こういう音楽が流行ってるんですなあ。そしていつか、この国でもサザンみたいな音楽が生まれてくるのでしょう」と。
いや、そうじゃないんださんまちゃん。タイには”サザンみたいな音楽”はすでにあって、その一方で田舎の方ではこのような音楽が盛んに聞かれているんだってば。そんな奥行きが、まだ生き残っている例も外国にはあるんだよ。
それにしても、50年代のアメリカンポップスかと見まごうイントロで始まり、そこにアコーディオンが鳴り渡ると一気に曲調が日本の昭和30年代歌謡曲のノリへと変わる9曲目には、なんとも不思議な気分にさせられた。しかもその歌が終わった直後に、またもアゲアゲのロック歌謡ショーが始まるのだから、たまりません。
タイの高見沢(?)のギターも快調に唸りを上げて、GS調になるかと思えば山本リンダが出てきそうにもなったりしつつ、イサーン魂はいやがうえにも燃え上がるのだった。
いやあ、こんな連中が続々と出てきたら面白い事になるだろうなあ、ほんとに。