ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

夜のフィーリン、その他のフィーリン

2012-07-29 02:07:13 | 南アメリカ

 ”FEELING FEELIN'”by VARIOUS ARTISTS


 ”ワールドミュージックの時代”の曙の頃とでも言ったらいいのかな。それまでロックとかブラックミュージックを聴いていた連中が、サルサの我が国への本格的紹介がなされたりしたのを契機として、カリブ海の音楽への注目をし始めた時期。
 皆は、「つまり、総本山はキューバのようだな」ってな事の本質を素早く嗅ぎつけ、いわゆるアフロ=キューバン系の音楽に入れ込むのが正道、みたいな空気が流れ始めていた。「極寒のニューヨークの深夜に響く熱帯のクラーベのリズム。ニューヨーク・サルサは鋭く状況をえぐっている。そしてその源流はキューバにあるのだ」とか言っちゃってね。

 そんな頃、私はあえてサルサとか聴かないで、ヘソ曲げてカリプソとか聴いていたのだった。だってさあ、そんなキューバ方面の音楽のもてはやされ方が、なんか気持ち悪かったんだもの。
 「キューバ音楽こそ民衆の生のエネルギーに溢れた音楽、正しい音楽である。これを聴いてこそ良心的音楽ファンといえよう」みたいなさあ。そんなのさ、嫌じゃないか。いつのまに音楽の評価の基準が「正しいか正しくないか」になってしまったのか。俺、正義の実現のために音楽ファンになったんじゃないよ。その音楽がかっこよかったり、それを聴くのが最高に気持ちよかったりしたからさ。断じて、音楽が正義の味方だったからじゃない。

 ああいう価値観ってやっぱり、中村とうようさんあたりが発生源だったんだろうか?それとも、もっと以前から存在している考え方か。
 同じような”正義の音楽”扱いを受けていたからブラジル音楽も嫌いになった。絶対聴いてやらねえぞ、なんて決意を密かに固めていた。思えば、ブラジル音楽やキューバ音楽が悪いわけじゃないんだけどねえ。
 いまだにこれらの反発は尾を引いていて、そのへんの音楽は、他のワールドもののファンの人よりまるで詳しくなかったりする。私が唯一、入れ込んだラテン音楽は、どう考えたって”正義”の臭いのしない退廃美のかたまり、アルゼンチン・タンゴだったりするのだ。

 ほんとにさ、皆は音楽を正義のためになんか聴いているんだろうか?もっと心の中の不定形な、歪んだ欲望や後ろめたさややましさなんかも込みで受け止めてくれる巨大な何か、であったりしないかな、音楽って。
 なんてことを思い返しながら、この”フィーリンを感じて”なる編集アルバムを聴いている。編集者の、「1950年代後半から60年代初めの“フィーリンの時代を感じさせる”録音を集めたのが本CDです」なるコメントあり。決まった形式などない、ほんと雰囲気だけで存在しているような不思議な音楽だ、フィーリン。

 キューバより発した音楽ではあるものの、”革命への志”なんてドスを呑んでキューバ音楽を聴こうなんて”正しい”ヒトビトにはお気に召さないだろう、あからさまなジャズの影響。それも、どうしたってホテルのサパークラブの深夜を想起せずにはいられないムーディなオルガンの響き、なんて方向の影響なのだ。あるいは天より舞い降りる甘美なストリングス。甘く囁くクルーナー・ボイス。
 気怠い夜の向こうに続く酒とバラの日々から立ち昇るセンティメントは一見、あまりに”芸能界”っぽい埃にまみれているように感じられ、それが、”正義”なんかじゃ救いきれない雑多な民衆の切なる願いの結晶であること、気が付けない人さえいるのかもしれない。、




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