”Unhalfbricking ”by Fairport Convention
小春日和、と言う言葉の正確な意味はなんだったっけ?真冬の最中にふとした加減で、まるで春先のような穏やかな気候が訪れる瞬間、じゃなかったっけ?
とすると、こんなのはどういうんだろう。何か決まった言い方はあるのか?というか、こんな感覚は誰でも感じているものかどうかも分からないのだが。
それはちょうど今頃の季節。そろそろあちこちに、梅雨の向こうにひかえている夏の気配が感じられる頃。そんな季節のど真ん中に、ふと通りを涼しい、と言うよりシンと沈んだ感じで低い温度の風が抜けて行く感触がある。これを感ずると、おかしな話だけれど、「ああ、秋がやって来たんだな」とか思って、ちょっと切ない感情に襲われたりするのだった。
そんな馬鹿な話はないのであって、だって時は初夏なんだから。これから来るのは秋じゃなく夏なんだから。
それは分かっているのだが、そのヒヤッとした一塊の空気の感触は確かに”秋”なのであって、そいつがあんまりリアルに秋風だから、こちらも不合理だれど擬制の”秋の感傷”に、つい浸ってみたりしてしまうのだった。
この感触ってなかなか好きでね。その”幻の秋”の感じは、昨今の薄味の秋じゃなく、私が子供の頃に満喫していたような、濃厚な秋の手触りが宿っているとも感じられる。切ないやら、懐かしいやら。なんとも奇妙な錯覚の世界の感傷に酔わされる面白さがある。
どうですかね?これは私一人だけが感じている事なんでしょうか?それとも私が思っているよりもずっと普遍的な現象で、誰でも感じているようなものなんでしょうか。
なんて事を言っていたら、「それは俳句の世界で言う初夏の季語、”麦秋”にあたるのではないか」なんて助言を戴いた。そうか、”麦秋”って言葉は前からなんとなく聞き知ってはいたが、この感触に関わる言葉だとはね。
ウィキペディアなんかを探ってみると、
”麦秋(ばくしゅう)とは、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のこと。麦が熟し、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節。雨が少なく、乾燥した季節ではあるが、すぐ梅雨が始まるので、二毛作の農家にとって麦秋は短い”
なんて記述に出会う。
どうやら初夏の、辺りの木々が青々と茂る風景の中で麦だけが黄色く実り、収穫期を迎える、その取り合わせの玄妙さに関わる言葉のようだ。
作家の島尾敏雄は、この夏の冷たい風を大変苦手にしていて、それに吹かれるとてきめんに体調を壊すので、炎天下でもオーバーコートを手放せなかったそうである。
でもこの風、基本的には秋の収穫の気配を感じさせる、どちらかと言えば自然の豊饒につながるような、幸福の手触りのある風と感じている。
この風の感触に通じる音楽は、なんてのはこじつけもいいところだが、イギリスのトラッド・ロックの開祖、フェアポート・コンベンションの『Unhalfbricking』なんてアルバムを持ち出したくなってくる。
あのアルバムでフェアポートとそのメンバーたちは自分たちの進むべき音楽上の道を見出し、そちらへと創造の喜びと共に歩き始めたのだったが、同時に、そのアルバムの製作途中でドラマーを交通事故で失ってもいる。その後のバンドの航跡も、必ずしも順風満帆であったわけではないし、さらにその後、スター歌手だったサンディ・デニーも事故により早世することとなる。
そんな、光と影とが交錯し、出帆したばかりのメンバーの、バンドの、青春の萌え立つ息吹と死のイメージが行き違う。エレクトリックギターやドラムスの響きが遠い過去に生きた人々の遺した船乗りの歌に新しい息吹を吹き込む。
歌手のサンディ・デニーは、”時はこの地上を飛び立ち、どこへ行ってしまうのか”と静かに歌い上げ、そして彼女はその数年後、31歳の若さでこの世を去ってしまう。
自然の豊饒と、その影で朽ち果ててゆくもの。生き代わり、死に代わる命たちの奔流。
そんなあれこれを思うと、実に麦秋なアルバムだなあ、これは、とかよく分からない感慨を抱いたりしてしまうのである。