#仮刑律的例 #19 梟首
(要約)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月
卯吉は、他の者と共に、昨年3月、播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗み、所払いの刑を受けました。
その後、①他の者と共に、同年10月21日夜、播州小佐村の家から金子・銀札を盗み、②10月22日に但州石原村の番人重太郎に見咎められ、他の者2名と連行されたのですが、途中の山中で、その者らと共に重太郎を絞殺しました。
この者の刑について伺います。
【返答】梟首
(詳しい訳)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月(辰年)
野非人の卯吉が盗みと殺しをした件について、吟味しました結果は以下のとおりです。
「私は、備後福山辺りで出生した野非人です。幼いときに両親を亡くし、「こと」という姉に連れられて諸国を袖乞いして歩きましたが、そのうち姉とも別れてしまいました。」
〈前歴〉
「去年(卯年)3月、無宿四方吉らと龍野領播州のある村(村の名は忘れました)の百姓の家から麦三斗、米五升を盗みました。その月のうちに召し捕られ、吟味を受けて、所払いの刑となりました。」
〈犯行に至る経緯〉
「この年8月に播州宍栗郡で無宿人仙太郎と出会い、一緒に但州に行きました。そこで、無宿人の伊之助や元吉と出会いました。10月になって仙之助とは別れてしまいました。」
〈本件犯行〉
「①同年10月21日夜、伊之助や元吉と、但州小佐村の文三郎の家の入口の戸を開け、金子・銀札類を一同で盗みました。合計いくらを盗んだのかはわからないのですが、私の分け前は金3歩と銀札20匁でした。伊之助か、博奕をしたときの借金があったので、分け前は全て伊之助に払ってしまいました。
②10月21日暮れ六つころ、但州石原村地内辻堂で、同村の番非人の重太郎から見咎められ、引き立てられる途中の山中で、伊之助や元吉と一緒に重太郎を襲いました。重太郎も十手で立ち向かってきたのですが、こちらは三人なので重太郎を取り押さえ、持っていた縄で重太郎の首を縛って絞殺したのです。」
〈犯行後の経緯〉
その後は、皆ばらばらに逃げましたので、伊之助や元吉がどこへ逃げたのかはわかりません。私は宍栗郡辺りをうろうろしているところを召し捕らえられました。
仙太郎につきましては、途中で別れましたので、本件には関わっておりません。
以上のとおり間違いございません。」
【返答】梟首
【コメント】
・久美浜県からの伺いです。
久美浜県は、慶応4年(=明治元年)閏4月〜明治4年11月まで存続した県。県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれました。
・本件の犯人は卯吉。備後福山(現広島県福山市)の出身。両親を早くに亡くし、姉と流浪生活。姉とも別れてしまい、無宿人らと付き合うようになってから犯罪に手を染めてしまいます。
・最初の犯行は、無宿人の四方吉らと共謀した窃盗事件。播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗んでいます。これにより所払いの刑を受けています。追放刑ですね。追放刑は厄介者を他の場所に行かせるだけなので、犯罪者の更生には役立ちません。近代刑法では追放刑はなくなりました。
・卯吉の本件犯行は、①住居侵入・窃盗、②殺人です。犯行場所は、①が但馬国小佐村、②が同国石原村です。
・①の犯行場所である但馬国小佐村は、現在の兵庫県養父市八鹿町小佐。八鹿は「ようか」と読みます。
・②の犯行場所である但馬国石原村は、小佐村の隣の村です。現在の養父市八鹿町石原。小佐村から石原村に向かったということは、街道を通るルートは避けて、山中のルートで逃走しようとしたのでしょう。それを、同村の番非人の重太郎から見咎められてしまいました。
・被害者は非人番(ひにんばん)の重太郎。非人番とは、江戸時代に農村の治安維持の任務を与えられていた生業です。人を指すときは本史料にあるように「番非人」と呼んでいたのでしょう。
・重太郎は石原村地内辻堂で番をしており、見咎めた三名(加害者)を引っ立てようとするときに、加害者の反抗にあってしまいました。重太郎は十手を持って抵抗したのですが、絞殺されてしまいました。
・加害者は別れて逃走。卯吉は宍栗郡にまで逃走していました。宍栗郡は、概ね現在の兵庫県宍粟市。当時は久美浜県に所属していました。
・それにしても、本件についての明治政府の返答は素っ気無いことこの上ないです。一言「梟首」、これだけです。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました。死刑と極刑は異なるものであり、死刑よりも重いのが、極刑。
・返答に一言だけ「梟首」とあり、極刑を言い渡すのに、理由もなく、躊躇もないように見えてしまうのが、かなり怖いように感じてしまうのは私だけでしょうか。