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中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)「飲酒二十首 其の五」-楽しい読書353号

2023-11-05 | 本・読書
古典から始める レフティやすおの楽しい読書【別冊 編集後記】

2023(令和5)年10月31日号(No.353)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)
「飲酒二十首」から「序」と代表作「其の五」」



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◇◆◇◆ 古典から始める レフティやすおの楽しい読書 ◆◇◆◇
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2023(令和5)年10月31日号(No.353)
「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)
「飲酒二十首」から「序」と代表作「其の五」」
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 「中国の古典編―漢詩を読んでみよう」25回目は、
 前回に引き続き、陶淵明の第二回です。

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◆ 自然のなかに「真」がある ◆

 中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)

  ~ 陶淵明(2) ~
  「飲酒二十首」から「序」と代表作「其の五」
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今回の参考文献――

『漢詩を読む 1 『詩経』、屈原から陶淵明へ』
 江原正士、宇野直人/著 平凡社 2010/4/20
「九、達観を目指して――陶淵明の世界」より


 ●飲酒二十首 序

まずは、お酒好きの陶淵明さん、
飲酒についての詩が多く残っているそうで、
連作「飲酒二十首」があります。

その中から、まず「飲酒二十首 序」という連作の序文を。

 ・・・

飲酒二十首 序  飲酒(いんしゆ)二十首(にじつしゆ) 序(じよ)

余閑居寡歓、   余(よ) 閑居(かんきよ)して
          歓(よろこ)び寡(すくな)く、
兼比夜已長。   兼(か)ねて此(このご)ろ夜(よる)
          已(はなは)だ長(なが)し。
偶有名酒、    偶々(たまたま)名酒(めいしゆ)有(あ)り、
無夕不飲。    夕(ゆふべ)として飲(の)まざる無(な)し。
顧影独尽、    影(かげ)を顧(かへり)みて独(ひと)り尽(つく)し、
忽焉復醉。    忽焉(こつえん)として復(ま)た酔(よ)ふ。
既酔之後、    既(すで)に醉(よ)ふの後(のち)は、
輒題数句自娯。  輒(すなは)ち数句(すうく)を題(だい)して
          自(みづか)ら娯(たの)しむ。
紙墨遂多、    紙墨(しぼく) 遂(つひ)に多(おほ)く、
辞無詮次。    辞(じ)に詮次(せんじ)無(な)し。
聊命故人書之、  聊(いささ)か故人(こじん)に命(めい)じて
          之(これ)を書(しよ)せしめ、
以為歓笑爾。   以(もつ)て歓笑(かんしよう)と為(な)さん爾(のみ)。


詳しい現代語訳は本書『漢詩を読む1』にはないので、
ごくごく簡単に、私なりに記しますと、

私、世間を離れ、一人で暮らすようになって、喜び事が少なく、
夜がやたらに長い。
たまにいい酒があると、夜はつい飲んでしまう。
興に乗ると詩の文句をあれこれと書き留め、
それがたまると一つ一つの詩にまとめ、
友人に清書させては笑いの種に楽しんでいる。

といったところでしょうか。


 ●飲酒二十首 其の五

次に、代表作とされる「飲酒二十首 其の五」を見てゆきましょう。

 ・・・

飲酒二十首  飲酒(いんしゆ)二十首(にじつしゆ)  陶淵明

其五  其の五(そのご)

結廬在人境  廬(いほり)を結(むす)んで人境(じんきよう)に在(あ)り
而無車馬喧  而(しか)も車馬(しやば)の喧(かまびす)しき無(な)し
問君何能爾  君(きみ)に問(と)ふ 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると
心遠地自偏  心(こころ)遠(とお)ければ
        地(ち)も自(おのづか)ら偏(へん)なり

私は粗末な家を構え、しかし山の中ではなく、
 人通りのある村里に暮らしている
それでいながら、車や馬に乗った貴族たちとのうるさい付き合いはない
あなたはどうしてそんな事ができるんですか
私の心がもう世間から遠くなっているから、どこに住もうとその土地は、
 うるさい場所から遠ざかっているのと同じなんだよ


采菊東籬下  菊(きく)を采(と)る東籬(とうり)の下(もと)
悠然望南山  悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を望(のぞ)む
山気佳日夕  山気(さんき) 日夕(につせき)に佳(よ)く
飛鳥相与還  飛鳥(ひちよう) 相(あひ)与(とも)に還(かへ)る

或る秋の夕暮れ、私は東の垣根の側で聞くのは名をつんだ
起き上がって、はるかに落ち着いた気持ちで南の山に祈る
山のたたずまいはこの夕暮れ時、まことに美しい
飛ぶ鳥が連れ立って帰ってゆくじゃないか


此中有真意  此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り
欲弁已忘言  弁(べん)ぜんと欲(ほつ)して
        已(すで)に言(げん)を忘(わす)る

こういう眺めの中にこそ、人生のほんとうの姿が表れているのだ
それを君に説明したいのだけれど、
 そう思った瞬間、言葉を忘れてしまったよ

 ・・・

この詩は、全体として隠者の心構え、生活態度を詠んでいる、と
解説の宇野直人さんはいいます。

第一段では、隠者の心構えです。
騒がしい村の中に住んでいても、粗末な家には貴族は訪ねてこないし、
私の心は世間から遠く離れているので、どこに住もうと同じだ、
と自問自答している。
これは“隠者は山に住むもの”という固定観念への反抗心だ、
と宇野さんの解説。

第二段では、夕暮れの一コマで、有名な部分。
「南山」は、不老長寿の象徴ですので、お祈りをするのです。

《この「南山を望む」の「望む」という字を
 「見る」に作る伝本が多いのですが、「南山を見る」だと、
 ただ単に“南山が目に入る”という意味になって、
 “不老長寿の象徴をじっとみつめて祈る”意味が消えてしまいます。
 ここはやはり「望む」がよいでしょう。》p.334

最後の二句では、人生のほんとうの姿を山の中の風景に見いだしたが、
その言葉は忘れてしまった、と弁舌を重んじる貴族への風刺なのか、と。

《この「真意」とは“人間が生きるほんとうの意味”、
 或いは“私のほんとうの気持ち”などの意味かもしれません。》p.334


 ●「此の中にこそ真意あり」

夏目漱石の『草枕』の冒頭に、この部分が引用されています。

 《うれしい事に東洋の詩歌(しいか)は
  そこを解脱(げだつ)したのがある。
   採菊(きくをとる)東籬下(とうりのもと)、
   悠然(ゆうぜんとして)見南山(なんざんをみる)。
  ただそれぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中を
  まるで忘れた光景が出てくる。
  垣の向うに隣りの娘が覗(のぞ)いてる訳でもなければ、
  南山(なんざん)に親友が奉職している次第でもない。
  超然と出世間的(しゅっせけんてき)に
  利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。(略)》

これほどに有名な句だというのですね。

で、陶淵明はこのような風景の中に、人生の真意を見たというのです。

この最後の部分について、こういう解説がありました。

小尾郊一『中国の隠遁思想 陶淵明の心の軌跡』
(中公新書902 1988/12/1)



(画像:Amazonより拝借)

 《「此の中」とは、上の夕方の美しい山の気配、
  ねぐらに連れだって帰る飛ぶ鳥の姿である。
  このなかに「真の意」があるという。「真」とは、(略)
  真実であり、老荘のいう道であり、自然であるといえよう。
  この風景のなかに、真実があるというのである。》p.164

それは《人間の作りあげた技巧ではない、自然のままの姿である》。

この日常の風景のなかに真実なる道が存在しているのだ、というのです。

そして、

 《この句の背後には、『荘子』「外物篇」の
  「筌(やな)というものは、魚を捕るものである。
   魚を捕ってしまえば、筌のことは忘れてします。
   蹄(わな)は兎を捕えるものである。
   兎を捕えてしまうと蹄のことは忘れてしまう。
   と同じく、言語というものは、意味を伝えるものである。
   その意味を会得してしまえば、言語は忘れられる」
  ということを踏まえている。
  淵明は、「真の意」があることを会得することが大事であって、
  今や自分は会得したので説明する必要もないというのである。/
  自然の風景のなかに真実があるという自然観は、広くいえば、
  隠遁から生まれた注目すべき収穫であって、
  後世にまで伝わる自然観である。》p.165-166

といい、
自然にあこがれるという場合、山水に隠遁するという風潮であったのが、
陶淵明は、田園に隠遁するという考え方をうみ、
さらに大きな自然観を生んだ、といいます。

 《それはわれわれをとりまく環境の自然のなかに「真」がある
  という考え方である》p.162

 ・・・

次回は、来年になります。

引き続き、陶淵明の詩を取り上げます。
「飲酒二十首」の続き、もしくは「田園の居に帰る五首」当たりを
紹介する予定です。
乞うご期待!

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本誌では、「中国の古典編―漢詩を読んでみよう(25)陶淵明(2)「飲酒二十首」から「序」と代表作「其の五」」と題して、今回も全文転載紹介です。

本文にも書きましたが、陶淵明は、われわれの日常的な自然の風景のなかに「真」がある、と考えました。
これが、当時の老荘的な「無為自然」「無私無欲」の人間本来のあるがままの姿を尊重するものであるとする考え方で、官僚世界の儒教的なものの見方にはまったくないものだった、といいます。
陶淵明のこの考え方がその後の自然観を生んだ、というのです。

老荘的な生き方というのは、ちょっと気になる生き方でもあります。
あるがままの姿でいいのだというのは、なにかしら楽な気がしますよね。

ちょっと話は違いますが、仏教の教えとして「悉皆成仏」(「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」)という考え方があります。
「ものみなすべて仏となる」というものです。
こういう風に言われますと、かなり気が楽になりますよね。
むずかしく考えますと、無用な殺生をするなとか、色々大変な部分もありますが。

老荘的な生き方もそれに似た、気楽さにつながるものがあると思います。

儒教的な生き方はある意味で「倫理、倫理」とうるさくなりかねません。
「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と、「戒」が多い感じです。

くわしいことは知りませんが、西洋の『旧約聖書』でも何かと「戒」が出てきて、ついて行けない気がします。

老荘的なものは、その辺でちょっとやさしい生き方になるような気がしています。

 ・・・

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