レフティやすおの新しい生活を始めよう!

50歳からが人生の第二段階、中年の始まりです。より良き老後のために良き習慣を身に付けて新しい生活を始めましょう。

左利きは不便ではあるが不幸ではない

2008-09-18 | 左利き
「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」

この言葉は以前にもあちこちで書いた言葉です。

実は、これはある人の言葉をもじったものです。
原典に直接あたったことがないので、偉そうなことはいえませんので、元の言葉についてはこれ以上は沈黙とします。


さて、私が言いたいことは、こういうことです。


「あなたは幸せですか?」と問われた時、どちらの答えにしろ即答できる人はいいのですが、アレッと考えてしまう人がいるといいます。

そういう人は、たいていその後「幸せ」を選ぶのだそうです。

で、それには理由があるのです。
「それは、幸せな人ほど、自分が幸せであることを意識せずに暮らしているからです。/幸せだから、幸せについて考える必要がありません。/外部からの質問で、改めてよく考えてみて初めて、自分が幸せであることを気づいたり、思い出したりするのです。」
(流音弥「名言ナビ」No.380 2008年9月18日発行分より)

そして、普段から不幸だと思っている人は躊躇なく「不幸」を選び、「分からない」とか迷ったりしないものだというのです。

なるほど、と思いますね。


そこで、始めの言葉です。

「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」

今の世の中では、左利きであるということは、確かに何かと不自由なもので、不便を感じさせられます。

生まれつき左利きで、こういう状況のなかで育ってきたのだから、特に不自由は感じないとか、不便だとは思わない、という人もいます。

しかし、これは言ってみれば、あきらめです。
そういうものだという、思い込みです。

実際には様々な場面で、アレッとかウーンとかどうもなあとか、色々と感じることがあるものです。
そういうものを「特別に意識しない」ようにしているだけです。

言ってみれば、「不幸」を選ばないようにしているだけです。

実際につきつめてみれば、不幸なのです。
不便というのは、やはり不幸の一つです。

しかし、この不幸は改善できる、解決できる不幸である場合がほとんどだといえます。

この不便さからくる不幸は、そしてそれ以外の不幸も、たいてい改善できる、解決できる不便であり不幸なのです。


始めの言葉、「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」は、現状では生活してゆく上で物理的に不便だが、そういう不便さはあってもそれが生きてゆく上での精神的な不幸にはつながらないのだ、精神的な不幸とは別物なのだ、という宣言です。

物理的な便不便は、元々は自分自身(と社会との整合不整合)に起因するものではあっても、それは本来は外にあるもので改善可能の問題ではあるが、現状ではどうにもならないことである。
それに引きかえ、精神的な幸不幸は、自分自身に起因するものだけれど、自分の内にあるものであり、心の持ち方しだいでどうにでもなるものである、といえます。


哲学者の岩田靖夫氏は、その著書『よく生きる』ちくま新書(2005)の中で、「本当の生きる喜びは、... 幸福は他者との交わりのうちにあるのです。」(33p)と書いておられます。

即ち、物理的環境が満たされなくても、他者との心の交わりにおいて満たされていれば、幸福と成り得るということです。


ここでまた、「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」ということになります。

物理的環境は満たされていなくても、精神的な環境は自分を認めて受け入れてくれるのであれば、幸福になれる、ということです。

そこで、今、私たちのまわりを考えてみたとき、左利きを認めて心から受け入れてもらえるときは、幸せを実感できるけれど、そうでないときは不幸に感じてしまうということです。

残念ながら、現状では、そういう左利きを認めない、受け入れてくれない人もいるのです。
少なくとも条件付でなければ、といった人が。


古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、幸福は核となる純粋な魂の活動だけでなく、それを取り巻く外的な要素も含めて成り立つのだ、というのです。
例えば、富や名誉とか健康とかも含めて、です。
岩田靖夫/著『ソクラテス』勁草書房(1995)「第十章 幸福」218-223p)

そして、アリストテレスに先立つ哲人ソクラテスの考えも同様だったと言います。
...「徳の至高性」を基本に据えながら、しかもなお、非倫理的な諸善をも幸福の小さな付属的構成要素として容認することが、人間の現実に適合しており、それがソクラテスの立場でもあった...(同236p)

そこでまた、「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」です。

即ち、左利きの人にとって外的な要素―物理的環境が今ひとつと感じられるのが現状だとしたら、それは幸福にとってマイナスであり、いくら心の持ち方を充実させても幸福とはいえないことになります。

ましてや、左利きを認めない人、受け入れない人と遭遇したとしたら、これは悲劇となるでしょう。


何度も言うように、私は「左利きは不便ではあるが不幸ではない。」と思っているのです。

しかし、それを心から真実と言い切るためには、まだまだ越えていかなければならない問題が数多く横たわっているように感じるのです。

このことを一人でも多くの人が心に留めてもらえれば、と思いつつ、私は日々こういう文章をメルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイ』やサイト『左利きを考える レフティやすおの左組通信』、ブログ『レフティやすおのお茶でっせ』などで書いているのです。

※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「左利きは不便ではあるが不幸ではない」を転載したものです。

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