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聖徳太子シンポジウムの基調講演で「憲法十七条」の古注について概説

2022年02月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 このブログで予告してあった聖徳太子シンポジウム(こちら)が2月19日に開催され、私は基調講演「「以和為貴」を第一条とする「憲法十七条」成立の背景」を担当しました。その報告を忘れてました。

 第一条全体の典拠となるのは『史記』「楽書」であり、隋の劉炫『孝経述義』もこの箇所を引用しているため、『孝経』を重視している「憲法十七条」の作者は、おそらく南朝の『孝経』の注釈などに引かれていた「楽書」の文章を見たのだろうと推測できることなどを話したのです(この件については、こちら)。

 ただ、基調講演では、この話に入るにあたっての説明として、「憲法十七条」がこれまでどのように解釈されてきたかについて、簡単に説明しました。実は、「憲法十七条」に関する論文や本は山ほどあるものの、不思議なことに、近代以前の「憲法十七条」の注釈に関するまとまった研究はありません。

 それらの古注は、聖徳太子奉賛会編『聖徳太子全集』全4巻(龍吟社、昭和17年)の第1巻に収められています。戦時中にこの全集が刊行されたのは、むろん、「和」の精神で臣民一体となり、「承詔必謹」の「臣道」によってこの戦争を勝ち抜くためでした。

 ところが、 全集第1巻にはこれらの注釈に関する簡単な開題が載っているものの、そうした注釈の変遷、あるいは個別の古注に対する詳細な論文は、これまで書かれていないのが実状です。

 これは、これらの古注が「以和為貴」を初めとする文句の典拠を中国の古典に見いだして指摘することが主であって、面白みに欠けるものが多いためかもしれません。しかし、古典文献を読む際は、注釈類にも目を配っておくことが常識ですので、この講演で簡単に触れた次第です。

 まず、『日本書紀』が720年に奏上されると、翌年から講書が始まっています。となれば、「憲法十七条」に関する注釈もなされたことになりますが、こうした早い時期の解釈がうかがわれる注釈は残っていません。
 
 次に、平安時代の写本がある『聖徳太子十七憲章并序註』は、四天王寺と縁が深い広島文理大の小倉豊文(こちら)が発見して研究室の所蔵
とした現存最古の注釈です。ただ、冒頭の3行分が欠落しているため、第一条の「和」をどう解釈していたかはよく分かりません。儒教・仏教によって説明しており、『万葉集』から太子に関する歌などを引いて説明しています。

 この注釈は、後代の注釈では「明一伝」として引用されており、『金光明最勝王経』の注釈などを著した奈良時代の東大寺僧、明一の『聖徳太子伝』(「伝」とは注釈という意味が原義です)とみなされていたようですが、そうかどうかは不明です。
 
 次に、『聖徳太子十七ケ條之憲法并註』は、1272年に法隆寺宝光院での評定をまとめたものです。この当時は、論議が盛んであって、ある人が講義すると他の僧侶たちが質問したり批判したりしており、その手控えのノートや講義録がたくさん作られています。
 
 この注釈では、鎌倉時代に入っていますので、「憲法十七条」を「公家武家の明鏡」、つまり天皇や貴族たち、そして武士たちの手本であると位置づけたうえで、仏教と儒教で解釈していますが、仏教面の解説は多くありません。
 
 次は、太子ゆかりの寺とされる橘寺の法空の『聖徳太子平氏伝雑勘文』「十七条憲法事」です。1314年の作。『聖徳太子伝暦』の注釈であって、僧侶なのに儒教色が濃い注釈です。法空は『上宮太子拾遺記』でも「憲法十七条」を儒教と仏教で解釈しています。

 1448年に完成した訓海『太子伝玉林抄』巻十一「十七条憲法事」は、「王道ニハ十七条憲章を以テ亀鏡ト為シ、仏道ニハ三経義疏ヲ以テ規模ト為ス」と述べ、「上一人ヨリ下万民ニイタルマデ、此ノ掟ニ背クモノナシ」と断言していますが、庶民は「太子様は観音様の化身です」ということで尊崇していたのであって、「憲法十七条」を道徳の手本としていた形跡はありません。

 面白いのは、「先最初ニ和合ヲ教ヘ給フ事、病アル処ニ薬ヲヲクガ如シ」と述べており、釈尊が、病気に応じて薬を与えるように、相手に応じてふさわしい教えを説いたとする仏教の常識に基づき、当時の日本では争っていたのでその薬として「和合」を教えたと述べていることです。これは、私の解釈と一致しており、「日本は伝統的に和を重んじる国だったので」といった俗説とは異なります。

 さらに興味深いのは、

『説法明眼論』ニハ、「柔和忍辱ノ心ヲ、如来ノ衣ヲ着ルト名ヅク。……南山『戒疏』云フ、「俗ハ和ヲ以テ貴シト為シ、僧ハ和ヲ以テ義ト為ス」ト。

と述べ、観音菩薩である聖徳太子が著したとされる中世の偽作、『説法明眼論』を引いていることです。

 「南山」というのは、中国における戒律解釈の基礎を定めた唐の道宣のことであって、その『四分律行事鈔』の取意が説かれています。俗人は『礼記』『論語』の「和」、僧たちは僧団の定義である和合を趣旨とするというのですね。 

 中世から近世にかけて重視されたのは、玄恵法印(1269?-1350)の作とされる『聖徳太子憲法』です。玄恵は論議が巧みな蔵書家として知られ、文学に通じ、また朱子学を導入した一人として有名です。それだけにいろいろな本の著者に仮託されており、『太平記』を玄恵の作とする伝承もありました(これについては、論文を書いたことがあります。こちら)。

 この『聖徳太子兼憲法』については、清原良賢(1348-1432)もしくは林宗二(1498-1581)の作と推定されています。この本の「和」の解釈の特徴は『論語』を朱子学に基づいて解釈していることであり、儒教重視ですから、「和」の意義を説きつつも、

衆人ニ和合スルトイフトモ。大儀ニ至テハ。非義ニ同ズベカラズ。是ヲ和而不同トイフ。

と述べ、『論語』の路線で、大事なことに関する協議では付和雷同してはならないと戒めていることでしょう。 

 この後に出てくるのは、神に触れない「憲法十七条」に不満を持ち、江戸時代になって「神職憲法」なども加えて登場する偽作の『聖徳太子五憲法』です。これについては、あの三波春夫もこの偽憲法の信者だったことを含め、このブログで何度か紹介しました(こちらや、こちらや、こちら)。

 これらの注釈の変遷については、そのうち詳しく論じたものを書く予定です。