goo blog サービス終了のお知らせ 

聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「お客様は神様です」の三波春夫が偽作版「憲法十七条」の礼賛本を書いた

2021年05月31日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 伝説化されすぎた聖徳太子のイメージに縛られず、一人の人間としての聖徳太子の真実の姿を解明するため、文献に出てこない「厩戸王」という名を仮に想定して研究を進めた小倉豊文が最も危険視し、強く批判したのは、太子は神道も重視する『聖徳太子五憲法』を作ったという伝説でした。

 なにしろ、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説いて仏教を強調するのみである「憲法十七条」は、神道家が最も重視する天孫降臨説に触れないどころか、「神」という言葉さえ一度も出てこないのですから、江戸時代に国学者やその影響を受けた儒学者たちから激しく攻撃されたのは当然でしょう。

 そうした中で、17世紀半ばすぎに登場したのが、通常の「憲法十七条」の順序と言葉を多少変え、末尾の第十七条で「篤く三法を敬え」と説いて、「三法とは、儒・仏・神なり」と断言した「通蒙憲法」、そしてそれぞれ17条ある「政家憲法」「儒士憲法」「神職憲法」「釈氏憲法」という五つの憲法から成る『聖徳太子五憲法』でした。これらは、『日本書紀』の推古紀に相当する『大成経』の「帝皇本紀 下之上」で上宮太子が説いたとする内容を示した巻70の「憲法本紀」に収録されていました。

 これは、伊勢神宮の内宮の別宮でありながら、経済支援がとどこおって困窮した伊雑宮(いざわのみや)の神職たちが、伊雑宮の権威を内宮同様に高める運動をしており、内宮の抗議を受けるという流れの中で、儒教・仏教・道教の三教一致説の影響を受けつつ伊雑宮を内宮より上位に位置づけた偽作文書の『先代旧事本紀大成経』がでっちあげられたものです。

 その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します。さらに、『聖徳太子五憲法』を巻70に収録した『先代旧事本紀大成経』72巻が延宝7年(1679)に刊行されると大騒動になり、天和元年(1681)には幕府の命令で絶版とされて版木は焼かれ、関係者は流罪や所払いに処せられました。

 しかし、国学が広まるとまた注目を集め、特に仏教を攻撃した平田篤胤流の国学の影響で廃仏毀釈までおこなわれた幕末から明治初めの時期には、評価されて様々な版や註釈書が刊行されました(篤胤の神道理論は、実際には、仏教や道教に加え、漢訳されたキリシタン書の影響も受けています)。明治初年には、普通の「憲法十七条」より、この偽作の『聖徳太子五憲法』の注釈の方が数多く刊行されているほどです。

 神国日本を誇り、天皇崇拝のナショナリズムが高まった戦前・戦中時期には、「承詔必謹」を説く「憲法十七条」が重視されただけでなく、『聖徳太子五憲法』も一部の者たちが持ち上げ、アジア諸国を指導するための理論としようとしました。小倉はそうした傾向を警戒したのです。

 戦後になると、そのような動きはさすがにおさまっていました。ただ、信奉者は僅かながらいて関連本もが出されていましたが、平成の世になって、この『聖徳太子五憲法』を礼賛し、解説本を出した人物が出てきました。なんと、あの三波春夫です。

 親しかった永六輔が推薦し、瀬戸内寂聴も末尾に高く評価する解説を載せているのが、この本です。

三波春夫『聖徳太子憲法は生きている』
(小学館、1998年)



 明治後半から昭和初期にかけて最も人気があった芸能は、義理人情・忠君愛国の倫理と娯楽性・音楽性を巧みに結びつけた浪曲です。若き浪曲師としてスタートし、歌謡浪曲を得意とする演歌歌手に転じて大成功した三波は、実際には生真面目な人物であってかなりの読書家でした。

 有名な「お客様は神様です」という言葉にしても、客にこびて言っているのでなく、偉大な力を感じ、神前に手を合わせるような思いで歌っているという意味であるとこの本では述べており、当人の公式サイトにも説明があります(こちら)。

 この本では、三波は『大成経』を真作だとし、貴重な書物であるのに迫害を受けたと述べています。そして『大成経』を解明するために、永六輔と各地を旅したとして、聖徳太子や古代史についてあれこれ書いています。

 『聖徳太子五憲法』については、「今の社会に当てはまることが多く、現在の日本に大切なことばかりだったのです」(序)というのが三波の評価であり、「通蒙憲法」については全体を、他の憲法については要所を解説しています。

 ただ、善意と自分なりの責任感に基づいて生真面目に研究しているとはいえ、批判的な文献研究の訓練を受けておらず、どんな本や論文を読んでも、またどの土地を調査しても、自説に都合良く解釈する傾向から免れていません。

 つまり、漢文や古文の資料をきちんと読解する力、資料を文献学の立ち場で批判的に扱う力がないまま、玉石混交の歴史本や論文などを大量に読んであこれれ推測を重ねたあげく、「邪馬台国は、どこどこにあった! 私がついに発見した!」などという本を私家版で出す古代史マニアと同じようなことをやっているのです。

 それにしても、小学館はこういう本を出すなら、「本書はあくまでも著者の個人的な見解です。当社はその学問的な価値を保証するものではありません」などと記さないとまずいのでは……。

【追記:2021年6月3日】
末尾の文章を少しだけ変えました。
【追記:2021年11月26日】
『大成経』の成立に關ル説明の文章を少し訂正しました。

【追記:2023年11月10日】
この記事は、『大成経』や『五憲法』に関して調べ始めたばかりの頃に書いたため、古い説に基づいており、訂正すべき箇所がたくさんあります。たとえば、「その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します」は誤りで、『首書五憲法』を著したのは、伊雑宮の直接の関係者ではなく、黄檗僧の潮音道海です。昨年あたりから『大成経』は『五憲法』を本格的に調べて論文や講演・学会発表などで扱うようになり、このブログでもいくつか記事を書いています(こちらや、こちら)。この問題は重要なので、新しくコーナーを作るようにします。

この記事についてブログを書く
« 聖徳太子・山背大兄王と周辺... | トップ | 盟友も撤退し、聖徳太子虚構... »

偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」カテゴリの最新記事