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倭国が隋から下賜された「鼓吹」、そして伎楽導入の背景:渡辺信一郎「北狄楽の編成」

2022年02月23日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」では、「礼」を強調しておきながら、「礼」と不可分で「和」をもたらす「楽」にわざと触れていませんでした(こちら)。しかし、このことは、当時の倭国が「楽」に関心が無かったことを意味しません。

 昨年、このブログの「倭国は隋に音楽を貢納し鼓吹を下賜されていた?」という記事(こちら)で紹介したように、倭国では朝会で自国の音楽を奏させており、隋の使いが来ると、鼓吹楽で迎えていました。

 その鼓吹楽は、隋から下賜されたものだったというのが、渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家ー日本雅楽の源流』「第三部第一章 隋の楽制改革と倭国」(文理閣、2013年)の推測でした。

 そこで今回は、思いがけない指摘と示唆に富む同書のうち、「第二部 第四章 北狄楽の編成ー鼓吹楽の改革」によって鼓吹楽について説明しておきます。
 
 鼓吹楽は、北方民族の音楽であるため、北狄楽とも称されました。遊牧民族、つまり騎馬民族の馬上の音楽ですので、主に軍楽として利用され、また隋唐期には、皇帝が出御する際は、前後2部、千数百人におよぶ鼓笛隊が用いられ、威勢を示しました。

 ただ漢代以後は、宮中の饗宴でも演奏されるようになっており、南朝の梁以後は、儀礼や祭祀の際に小編成でおこなう演奏も用いられるようなった由。皇帝だけでなく、各地の王侯も身分によって規模が異なる鼓吹隊を所有することが認められました。ベトナム地方の王に鼓吹が下賜された例もあります。

 簫(パンパイプス)、笳(小縦笛)を用いるものを鼓吹楽、鼓・角(角笛)を用いて馬上で演奏するのを横吹楽と称しました。

 文帝は隋を建国すると、大がかりな楽制改革に取り組み、鼓吹としては横吹楽を中心とし、自らの出身母体である鮮卑族系の音楽を中核として再編させます。

 というのは、『孝経』が「風を移し俗を易(か)えるは楽より善きはなし」とのべていたように、風俗を善導するのは音楽ほど有効なものはないのに、文帝が即位してしばらくは、文帝の業績を礼賛する音楽が作られず、前王朝の音楽が演奏される時期が続いたため、文帝が怒ったのです。
(仏教経典の注釈である三経義疏は、「経」の語を説明する際、いずれもこの「移風易俗」の語を用いてましたね。ただ、「憲法十七条」と同様、「楽」には触れないわけですが)

 そこで文帝は、国家祭祀に関わる雅楽、祭祀や儀礼の後の饗宴で用いられる宮廷音楽としての燕楽、軍楽・儀仗の楽としての鼓吹楽、曲芸・芸能と関わる楽しい散楽、という四部の区分によって様々な系統の音楽を再編成し、上で述べたように鮮卑楽を中核とする新しい鼓吹楽の確立をめざしたのです。その改革は開皇令に反映されています。

 文帝を継いだ煬帝は、さらに改革を進め、横吹楽を鼓吹楽と合わせて四部に編成し直してともに鼓吹楽と称し、楽器も長鳴角、中鳴角、大角、角、そして西域系の篳篥を加えました。

 ただ、煬帝は、燕楽を七部の諸国の伎楽に分類していたのを改め、九部に再編成します。そして、文帝の時期には伎楽は西方の西涼伎が第一位に置かれ、中国の伝統音楽であった南朝の清商伎が第二位とされていたのを改め、一位と二位の順序を改めます。

 これは、隋は北方民族系の国家であったものの、煬帝が中国文化の中心であった洛陽に遷都したことと通じるものがあると、渡辺氏は述べています。

 以前、簡単に紹介した同書の「隋の楽制改革と倭国」では、隋は大業2年(606)以来、正月15日から月末にかけて、洛陽ですさまじい規模の饗宴と散楽による芸能興行をおこない、集まって来ていた諸国の王や使節たちに国威を見せつけたことに注意していました。

 渡辺氏は、推古20年(大業8年、612)に百済の味摩之が来朝して伎楽を伝えたというのは、むしろ、こうした状況のもとで、倭国が積極的に伎楽を導入したのではないかと推測しています(528頁)。これは卓見ですね。

 私は、「仏教タイムス」に寄稿した記事では、倭国は「礼」を推し進めておりながら、「礼」と一体である「楽」を導入しなかったと述べ、「憲法十七条」が「楽」でなく仏教によって「和」をもたらそうとしたと書きました。

 鼓吹は導入したものの、隋の本格的な音楽は導入しなかった倭国は、仏教重視の政策から見て、音楽については仏教と関係が深いタイプの伎楽にその役割を期待したのではないでしょうか。その伎楽は、四天王寺・法隆寺・川原寺・東大寺その他の大寺院で練習が重ねられ、演じられ続けたのに対し、宮中ではあまり整備されておらず、やがて消えていきます。

 日本において、音楽・芸能が寺院を中心として発展していったことは、拙著『<ものまね>の歴史-仏教・笑い・芸能』(吉川弘文館、2017年)で書いた通りです。聖徳太子を様々な音楽・芸能の祖とするのは中世になってのことであって、その多くは伝説ですが、聖徳太子が日本仏教の祖とされるようになれば、そうした伝説が生まれても不思議ではない面があるのです。 
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