大山氏の聖徳太子虚構説については、この10年ほどははっきり賛成する学術論文は見たことがなく、学界では相手にされていない状況です。その虚構説に対する諸研究者の批判を簡単に紹介する一方で、虚構説を明確には支持しないものの「一般にも影響を与え……賛否両論が巻き起こった」(24-25頁)という過去形で取り上げ、否定説よりやや詳しく紹介している本が出ました。
榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』
(勉誠出版、2021年)
です。12月28日刊行となってますので、まさに出たばかりです。
この本は、冒頭に書いたように、大山説にはっきり賛成しているわけではなく、諸説様々であって「どの説を信じるかという話になってくる」と述べているのですが、虚構説を大山批判より詳しく説明する形になっていますので、そちら寄りかと思われるような書きぶりになっています。
これは榊原氏の経歴と関わるように思われます。榊原氏は、聖徳太子信仰、特に四天王寺における太子信仰の研究者であって、このブログでも論文を紹介したことがあり(こちら)、そうした成果をまとめた研究書、『『四天王寺縁起』の研究―聖徳太子の縁起とその周辺』(勉誠出版、2013年)も出しています。
榊原氏は、『ヒストリア』176号(2001年9月)に『四天王寺縁起』の論文を載せた後は、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)に「『四天王寺縁起』の成立 」、大山氏が勤務していた中部大学が出した『アリーナ』5号(2008年3月)の聖徳太子特集に「『聖徳太子伝暦』小考」、大山氏の虚構説の盟友である吉田一彦氏編集の『変貌する聖徳太子』(平凡社、2011年。この本は、ブログで紹介しました。こちら)に「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」を掲載しています。
つまり、榊原氏がまだ若く、学術誌にあまり論文を掲載できなかった時期に、大山氏や吉田氏に評価されて論文を書かせてもらっており、恩があるのです。そのうえ、これらの本や雑誌に聖徳太子関連で書いている人たちのうちの半分くらいは、当時は太子虚構説に賛成、ないしそちら寄りの立場で書いていて盛り上がっていましたね。
そうした経緯があるものですから無理もないのですが、この本では両論並記であるものの、大山説の紹介はかなり長い一方、批判派ないし批判となりうる説については簡単に述べており、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(1999年)にしても、「憲法十七条」は天武朝以後に制作されたものであり、「憲法十七条」を含むβ群は文章博士の山田御方によって記述されたとする説が、2行で簡単に書かれているだけです。
大山氏は当初は森さんのこの本を読んで自説の援軍になると喜び、「聖徳太子関係史料の再点検」(『東アジアの古代文化』104号)では、「森氏の研究の緻密さに感嘆した」と書き、それまで太子関連記述は道慈の筆としていたことを改め、「御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と書くに至っています。
ただ、森氏が「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号。後に『日本書紀の真実』中央公論社、2011年に掲載)において、大山氏の道慈作文説を文体の違いに注意しない「妄説」「空想」「虚妄」として厳しく批判すると、大山氏は一転して森氏の説を粗雑なものとして批判するようになったのですが、そうしたことは、この榊原氏の本では触れられていませんし、『日本書紀の真実』も紹介されていません。
大山説を批判した私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、1996年)は、割と長めに紹介されています(有難うございます)。
榊原氏は、冒頭に書いたように、四天王寺を中心とした太子信仰の展開の研究者であって、聖徳太子そのもの研究者ではなく、またそれまでの経緯もあるため、上記のような書き方はやむをえないと言えばやむをえないでしょう。ともかく、榊原氏自身が、虚構論や批判説についてどう考えているか明確でない書き方になっており、苦衷がうかがわれます。
ただ、律令制度を充実させていくためには、「中国的な聖天子像」の人物が必要であり、『日本書紀』において厩戸皇子が「そういった聖天子とされ、彼に関する記述がなされたことは間違いないであろう」(32頁)という総括は間違いです。
儒教の根本の徳目は、「仁」であり「孝」です。ですから、『日本書紀』が尊重する仁徳天皇などは、「仁」であり「孝」であったと明記されています。これに反して、このブログで何度も書いているように(こちら)、厩戸皇子は「仁」とも「孝」とも言われていないどころか、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子とともに政治をし、ともに国史を編纂したと記されています。
このため、江戸時代になって儒者たちから極悪人として批判されたのです。そのうえ、私の最近の典拠の発見が示すように、「憲法十七条」は「礼」を重んじていながら、礼と並ぶ必須の「楽」に触れず、「孝」にも触れません。こんな儒教はありませんね(こちら)。
ただ、そうした問題が目立つのは、「第一章 聖徳太子信仰の成立」であって、以下、次のような章が続きます。*は目次に基づく私の説明です。
第二章 聖徳太子信仰の霊場 *法隆寺と四天王寺
第三章 法隆寺と四天王寺の対抗意識 *次々に作られる太子伝と関連文献
第四章 霊場の増加 *太子が創建したとされる寺院、関係する神社仏閣
第五章 太子への思い *初期から鎌倉時代頃までの僧俗の太子信仰
第六章 平安時代の文学作品における聖徳太子 *『三宝絵』『源氏物語』
第七章 聖徳太子信仰の美術 *絵伝と太子像
第八章 太子講 *太子講の由来と実状
第九章 文化の創始者聖徳太子 *建築・華道・製紙・お香・伎楽
おわりに *現代までつながる太子信仰の諸相、文化への影響
と並んでいます。聖徳太子が建てたとか、太子のために建てたと言われる寺が多いのは有名ですが、聖徳太子を祭神とする神社や、聖徳太子が創建したと伝える神社の存在など、興味深い情報が紹介されており、私自身も知らないことや忘れていたことがかなり記されていました。太子信仰の流れをつかむための入門書としては有益な本となっています。
聖徳太子信仰が日本文化に与えた影響はこのように絶大ですが、学校で「聖徳太子」という名を教えないと、こうした歴史が失われることになるのです。歴史上の人物としての聖徳太子についてどう考え、どう評価するかは、また別な問題です。
榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』
(勉誠出版、2021年)
です。12月28日刊行となってますので、まさに出たばかりです。
この本は、冒頭に書いたように、大山説にはっきり賛成しているわけではなく、諸説様々であって「どの説を信じるかという話になってくる」と述べているのですが、虚構説を大山批判より詳しく説明する形になっていますので、そちら寄りかと思われるような書きぶりになっています。
これは榊原氏の経歴と関わるように思われます。榊原氏は、聖徳太子信仰、特に四天王寺における太子信仰の研究者であって、このブログでも論文を紹介したことがあり(こちら)、そうした成果をまとめた研究書、『『四天王寺縁起』の研究―聖徳太子の縁起とその周辺』(勉誠出版、2013年)も出しています。
榊原氏は、『ヒストリア』176号(2001年9月)に『四天王寺縁起』の論文を載せた後は、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)に「『四天王寺縁起』の成立 」、大山氏が勤務していた中部大学が出した『アリーナ』5号(2008年3月)の聖徳太子特集に「『聖徳太子伝暦』小考」、大山氏の虚構説の盟友である吉田一彦氏編集の『変貌する聖徳太子』(平凡社、2011年。この本は、ブログで紹介しました。こちら)に「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」を掲載しています。
つまり、榊原氏がまだ若く、学術誌にあまり論文を掲載できなかった時期に、大山氏や吉田氏に評価されて論文を書かせてもらっており、恩があるのです。そのうえ、これらの本や雑誌に聖徳太子関連で書いている人たちのうちの半分くらいは、当時は太子虚構説に賛成、ないしそちら寄りの立場で書いていて盛り上がっていましたね。
そうした経緯があるものですから無理もないのですが、この本では両論並記であるものの、大山説の紹介はかなり長い一方、批判派ないし批判となりうる説については簡単に述べており、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(1999年)にしても、「憲法十七条」は天武朝以後に制作されたものであり、「憲法十七条」を含むβ群は文章博士の山田御方によって記述されたとする説が、2行で簡単に書かれているだけです。
大山氏は当初は森さんのこの本を読んで自説の援軍になると喜び、「聖徳太子関係史料の再点検」(『東アジアの古代文化』104号)では、「森氏の研究の緻密さに感嘆した」と書き、それまで太子関連記述は道慈の筆としていたことを改め、「御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と書くに至っています。
ただ、森氏が「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号。後に『日本書紀の真実』中央公論社、2011年に掲載)において、大山氏の道慈作文説を文体の違いに注意しない「妄説」「空想」「虚妄」として厳しく批判すると、大山氏は一転して森氏の説を粗雑なものとして批判するようになったのですが、そうしたことは、この榊原氏の本では触れられていませんし、『日本書紀の真実』も紹介されていません。
大山説を批判した私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、1996年)は、割と長めに紹介されています(有難うございます)。
榊原氏は、冒頭に書いたように、四天王寺を中心とした太子信仰の展開の研究者であって、聖徳太子そのもの研究者ではなく、またそれまでの経緯もあるため、上記のような書き方はやむをえないと言えばやむをえないでしょう。ともかく、榊原氏自身が、虚構論や批判説についてどう考えているか明確でない書き方になっており、苦衷がうかがわれます。
ただ、律令制度を充実させていくためには、「中国的な聖天子像」の人物が必要であり、『日本書紀』において厩戸皇子が「そういった聖天子とされ、彼に関する記述がなされたことは間違いないであろう」(32頁)という総括は間違いです。
儒教の根本の徳目は、「仁」であり「孝」です。ですから、『日本書紀』が尊重する仁徳天皇などは、「仁」であり「孝」であったと明記されています。これに反して、このブログで何度も書いているように(こちら)、厩戸皇子は「仁」とも「孝」とも言われていないどころか、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子とともに政治をし、ともに国史を編纂したと記されています。
このため、江戸時代になって儒者たちから極悪人として批判されたのです。そのうえ、私の最近の典拠の発見が示すように、「憲法十七条」は「礼」を重んじていながら、礼と並ぶ必須の「楽」に触れず、「孝」にも触れません。こんな儒教はありませんね(こちら)。
ただ、そうした問題が目立つのは、「第一章 聖徳太子信仰の成立」であって、以下、次のような章が続きます。*は目次に基づく私の説明です。
第二章 聖徳太子信仰の霊場 *法隆寺と四天王寺
第三章 法隆寺と四天王寺の対抗意識 *次々に作られる太子伝と関連文献
第四章 霊場の増加 *太子が創建したとされる寺院、関係する神社仏閣
第五章 太子への思い *初期から鎌倉時代頃までの僧俗の太子信仰
第六章 平安時代の文学作品における聖徳太子 *『三宝絵』『源氏物語』
第七章 聖徳太子信仰の美術 *絵伝と太子像
第八章 太子講 *太子講の由来と実状
第九章 文化の創始者聖徳太子 *建築・華道・製紙・お香・伎楽
おわりに *現代までつながる太子信仰の諸相、文化への影響
と並んでいます。聖徳太子が建てたとか、太子のために建てたと言われる寺が多いのは有名ですが、聖徳太子を祭神とする神社や、聖徳太子が創建したと伝える神社の存在など、興味深い情報が紹介されており、私自身も知らないことや忘れていたことがかなり記されていました。太子信仰の流れをつかむための入門書としては有益な本となっています。
聖徳太子信仰が日本文化に与えた影響はこのように絶大ですが、学校で「聖徳太子」という名を教えないと、こうした歴史が失われることになるのです。歴史上の人物としての聖徳太子についてどう考え、どう評価するかは、また別な問題です。